その日も心春は仕事疲れでヘロヘロだった。
アメリカ出張をビジネスクラスで往復したいという教員と、ビジネスクラスを使うには飛行距離が足りないとはねつける部局事務との板挟みにあったり、「発送伝票を無くしちゃったけどなんとかして」とか、「細かい部品を注文したけど、なんだかひとつ足りない気がする。どれが足りないか調べて問い合わせて。あ、こっちで別なのに二つ使っているから気をつけて」とか、あれとかこれとか──。
面倒な案件が立て続けだったのだ。
これは一刻も早く猫店長に会わなくちゃ。そうしないとわたし、明日こそ教授へ辞表を出しちゃいそうだわ。
そう血相を変えて、吾輩カフェへ駆け込んだのだが──。
カウンターテーブルで寝そべる猫店長の様子がおかしかった。
明らかに動きに切れがないのだ。毛の艶もどことなく悪い気がする。
「どうしたの猫店長。なにかあったの? どこか痛い?」
「いや……」と猫店長はよろよろと立ちあがる。転げ落ちるように床へ降りると、ブルブルと身体を震わせた。
ところが、力が足りないのか、数秒身体を震わせた猫店長は、そのまま動きを止めて、また丸くうずくまる。心春はあわてて猫店長を抱きあげた。
「やっぱり具合が悪いんだよ。病院にいかなくちゃ。動物病院ってこの近くにあったかな。ちょっと待ってね。いますぐ調べるから」
「僕は病院にはかかれないんだよ。見てもらうべきモノがない」
「なにをいっているの? じゃ、じゃあどうすれば」
「それに──まあ、うん、たいしたことじゃない」
「そんなふうには見えないわよ」
「『変身』ができなくなっただけだよ」
え、と心春は動きを止める。変身が、できない? それって?
「──ものすごく大変なことなんじゃ?」
「……どうだろう。特に不便はないけどなあ。あ、そうだ。ごめん。心春にグラタンを作ってあげられないね」
「あ、そうか。そうだよ。だけど……しょうがないよね。うん、我慢する。でもほかのお客さんにはどういうの? お店が明けられないでしょう?」
「心春のほかに客は来ないから心配はないよ」
へ? と心春は耳を疑った。
「ほかにお客は来ないって、それ、どういうこと? だってここはお店なんでしょう?」
「ああ、正確にいうとちょっと違うけど、とにかく心春が心配することはないよ」
だって、といい返そうとして言葉を飲み込む。わたし、さっきから猫店長の言葉を聞き返してばかりだ。本当にわたし、猫店長のことをなにも知らないんだなあ。
シュンと肩を落とす。
……あんまり猫店長のご飯が美味しくて、肉球が気持ちよくて、それで十分って甘えていたから。いざってときに役に立てない。計画性と想像力がなさすぎるよね。……駄目だなあ。
軽い鼻息を指先に感じて我に返る。
心春の腕の中で猫店長がスヤスヤと寝入っていた。ときおり口元をブルブルと震わせて、長い髭がそのたびに揺れている。猫店長の力が抜けているからか、ぐにゃりとして抱きかかえているのが大変なくらいだ。
そのまま心春は窓際のソファへと腰を下ろした。膝元に猫店長を置いて、その背中をそっと撫でる。あたたかくて、とっても柔らかい。それなのに……病院で『見てもらうべきモノがない』ってどういうことだろう。
「猫店長……本当にこのままで大丈夫かな。明日になれば調子が戻るかな」
チリンと音がしたのはそのときだ。
顔を向けると店玄関扉の前に猫がいた。小柄な茶トラの猫だ。
「いつの間に入ったのかな。……猫店長のお友だち?」
その場でうずくまった茶トラ猫の視線を見てギョッとする。
心春を見る茶トラ猫の視線。それは──射るような眼差しだった。
アメリカ出張をビジネスクラスで往復したいという教員と、ビジネスクラスを使うには飛行距離が足りないとはねつける部局事務との板挟みにあったり、「発送伝票を無くしちゃったけどなんとかして」とか、「細かい部品を注文したけど、なんだかひとつ足りない気がする。どれが足りないか調べて問い合わせて。あ、こっちで別なのに二つ使っているから気をつけて」とか、あれとかこれとか──。
面倒な案件が立て続けだったのだ。
これは一刻も早く猫店長に会わなくちゃ。そうしないとわたし、明日こそ教授へ辞表を出しちゃいそうだわ。
そう血相を変えて、吾輩カフェへ駆け込んだのだが──。
カウンターテーブルで寝そべる猫店長の様子がおかしかった。
明らかに動きに切れがないのだ。毛の艶もどことなく悪い気がする。
「どうしたの猫店長。なにかあったの? どこか痛い?」
「いや……」と猫店長はよろよろと立ちあがる。転げ落ちるように床へ降りると、ブルブルと身体を震わせた。
ところが、力が足りないのか、数秒身体を震わせた猫店長は、そのまま動きを止めて、また丸くうずくまる。心春はあわてて猫店長を抱きあげた。
「やっぱり具合が悪いんだよ。病院にいかなくちゃ。動物病院ってこの近くにあったかな。ちょっと待ってね。いますぐ調べるから」
「僕は病院にはかかれないんだよ。見てもらうべきモノがない」
「なにをいっているの? じゃ、じゃあどうすれば」
「それに──まあ、うん、たいしたことじゃない」
「そんなふうには見えないわよ」
「『変身』ができなくなっただけだよ」
え、と心春は動きを止める。変身が、できない? それって?
「──ものすごく大変なことなんじゃ?」
「……どうだろう。特に不便はないけどなあ。あ、そうだ。ごめん。心春にグラタンを作ってあげられないね」
「あ、そうか。そうだよ。だけど……しょうがないよね。うん、我慢する。でもほかのお客さんにはどういうの? お店が明けられないでしょう?」
「心春のほかに客は来ないから心配はないよ」
へ? と心春は耳を疑った。
「ほかにお客は来ないって、それ、どういうこと? だってここはお店なんでしょう?」
「ああ、正確にいうとちょっと違うけど、とにかく心春が心配することはないよ」
だって、といい返そうとして言葉を飲み込む。わたし、さっきから猫店長の言葉を聞き返してばかりだ。本当にわたし、猫店長のことをなにも知らないんだなあ。
シュンと肩を落とす。
……あんまり猫店長のご飯が美味しくて、肉球が気持ちよくて、それで十分って甘えていたから。いざってときに役に立てない。計画性と想像力がなさすぎるよね。……駄目だなあ。
軽い鼻息を指先に感じて我に返る。
心春の腕の中で猫店長がスヤスヤと寝入っていた。ときおり口元をブルブルと震わせて、長い髭がそのたびに揺れている。猫店長の力が抜けているからか、ぐにゃりとして抱きかかえているのが大変なくらいだ。
そのまま心春は窓際のソファへと腰を下ろした。膝元に猫店長を置いて、その背中をそっと撫でる。あたたかくて、とっても柔らかい。それなのに……病院で『見てもらうべきモノがない』ってどういうことだろう。
「猫店長……本当にこのままで大丈夫かな。明日になれば調子が戻るかな」
チリンと音がしたのはそのときだ。
顔を向けると店玄関扉の前に猫がいた。小柄な茶トラの猫だ。
「いつの間に入ったのかな。……猫店長のお友だち?」
その場でうずくまった茶トラ猫の視線を見てギョッとする。
心春を見る茶トラ猫の視線。それは──射るような眼差しだった。

