「猫店長―」
泣きそうな声を出しながら、心春は吾輩カフェの木製ドアを開いた。
カウンターテーブルで寝ていた猫の猫店長が腕を伸ばして大きく伸びをする。
「聞いて、猫店長。もうみんな好き勝手をやるのよ。なんども駄目ですよっていっているのに紋別さんは大学のクレジットカードで私費の買い物も『ついでだから』ってやっちゃうし。学生の斜里さんはちっとも学会登録しないし。登録早期割引が終わっちゃうのに。わたしがなんど頼んでも生返事で。登録なんてするだけなのに、どうしてさっさとやらないのかなあ」
まくしたてて心春は猫店長をハグする。もふっと、猫店長の背中を感じたのもつかの間、猫店長はするりと心春の腕から抜け出すと、ブルブルと身を震わせて青年猫店長へ変身した。
「えー? もう? もうちょっとモフモフしたかったー」
「お疲れの心春にグラタンを作ろうかなって思ったんだけど。いらなかったかな?」
「食べたいです」と心春は姿勢を正す。
これまでも青年猫店長はさまざまなものを作ってくれた。
ふわふわオムレツに永遠に食べていたいほどのハヤシライス。肉汁あふれるハンバーグにビーフストロガノフもあった。
その中でもやっぱりあつあつグラタンは別格だ。
「そういえば、猫店長。グラタンの味見ってどうしているの? 猫って猫舌っていうくらいでしょう? 熱いの駄目かと思っていたけど」
「そうだね。味見はできないかな。猫舌なんで。猫だけに」
「味見をしないでどうやって味を決めているの?」
「温度かな。塩分濃度の違いが温度でわかるんだよ。僕の目は温度を色でみることができるセンサー機能付きなんだ」
「……なんだかよくわかんないけど、すごいんだねえ」
「はい、お待たせ」とカウンターテーブルへ出されたグラタン皿を見て、「わあ」と心春は声をあげる。
こんがりと焦げたチーズになめらかそうなベシャメルソース。「いただきまーす」とフォークを入れれば盛大に湯気が立ちのぼる。そして期待を裏切らない旨味がぎゅっと詰まったカボチャとタラの味わい、それに素材の甘味たっぷりの人参だ。
「はあ、もう、美味しい。幸せ。今日の苦労が報われたー」
ほう、と大きく息をはく。今回も夢中で平らげると、カウンターテーブルにフォークを置いて目を閉じて、しばらくグラタンの余韻に浸るくらいの美味しさだった。
そっと目を開けると、隣に猫に戻った猫店長がいた。毛づくろいをしている。そこを心春は背後から猫店長に抱きついた。
「いつも美味しい御飯をありがとう」
「お礼をいってくれるのは嬉しいけど、せっかく毛づくろいしたのにぐちゃぐちゃになっちゃったよ……」
「わたしが撫でてあげるね」
あ、ちょ、やめて、と猫店長は心春の腕の中で身もだえる。やめなーい、と心春は猫店長のお腹へ顔をうずめる。もふもふな毛がくすぐったい。お日様の匂いもする。それからドクッドクという猫店長の心臓の音。いつまでも聞いていたくなる安心する音。どうしてかな。安心しすぎて泣きたくなってきちゃう。
猫店長はあらがうのをやめて、「それで?」といつもの気だるそうな声をかけてきた。
「学生さんがどうしたって? 早期登録っていうんなら、学会の会員登録じゃなくて参加登録ってこと?」
「……うんそう。先生が払ってくれるお金だからってちょっとルーズすぎだよ」
「自腹じゃないんだ。太っ腹だねえ」
「本当にそうなんだよ。恵まれているのに気づいていないんだから」
「心春のときはどうだったの?」
「学生のときってこと? ……学会にはいったことがない。研究会はあるけど」
答えているうちに当時のことを思い出す。
みんなで車座になって温泉旅館の広い部屋でテキストを読み合ったりしたっけなあ。たった数年前のことなのに、もう懐かしい。
あのとき申し込みとかどうしていたっけ。誰が取り仕切っていてくれたかな。あれ? 思い出せない。……当日参加できればいいとか、それくらいしか思っていなかったからかな。
「ひょっとしたらさ。その子、参加登録のやりかたがわからないんじゃないかな」
「え? だったらいってくれれば」
「だって、心春は忙しいんでしょ? そんな心春にとても話しかけられなかったのかも。発表の準備とかあったら、それを先にやろうって思うでしょ。心春に聞くのはあとでいいやって思うよ」
確かに、と心春は口元に手を当てる。
わたしもわかんないことだらけで、あとでいいや、って放置している事柄が山積みだ。斜里さんもそうだったのかも。
「……明日、斜里さんと一緒に参加登録をやってみる。お節介かもだけど」
「そんなことないよ。きっと心強いよ」
ああもう、と心春はもう一度猫店長のお腹へ顔をつけた。
猫店長はすごいなあ。わたしにはちっとも気づけなかったことも、こんなにあっさり紐解いてくれる。
「わたしは本当に駄目駄目だなあ」
「そんなことないよ。心春は頑張っているよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
じわりと心春の頬に笑みが浮かぶ。猫店長の肉球をムニムニと触って、思いっきり猫店長のお腹を吸った。本当に猫店長は最高だなあ。猫店長に出会えてよかったなあ。
けれど──。
なにごとにも永遠はない。
そう知ったのは、そのすぐあとのことだった。
泣きそうな声を出しながら、心春は吾輩カフェの木製ドアを開いた。
カウンターテーブルで寝ていた猫の猫店長が腕を伸ばして大きく伸びをする。
「聞いて、猫店長。もうみんな好き勝手をやるのよ。なんども駄目ですよっていっているのに紋別さんは大学のクレジットカードで私費の買い物も『ついでだから』ってやっちゃうし。学生の斜里さんはちっとも学会登録しないし。登録早期割引が終わっちゃうのに。わたしがなんど頼んでも生返事で。登録なんてするだけなのに、どうしてさっさとやらないのかなあ」
まくしたてて心春は猫店長をハグする。もふっと、猫店長の背中を感じたのもつかの間、猫店長はするりと心春の腕から抜け出すと、ブルブルと身を震わせて青年猫店長へ変身した。
「えー? もう? もうちょっとモフモフしたかったー」
「お疲れの心春にグラタンを作ろうかなって思ったんだけど。いらなかったかな?」
「食べたいです」と心春は姿勢を正す。
これまでも青年猫店長はさまざまなものを作ってくれた。
ふわふわオムレツに永遠に食べていたいほどのハヤシライス。肉汁あふれるハンバーグにビーフストロガノフもあった。
その中でもやっぱりあつあつグラタンは別格だ。
「そういえば、猫店長。グラタンの味見ってどうしているの? 猫って猫舌っていうくらいでしょう? 熱いの駄目かと思っていたけど」
「そうだね。味見はできないかな。猫舌なんで。猫だけに」
「味見をしないでどうやって味を決めているの?」
「温度かな。塩分濃度の違いが温度でわかるんだよ。僕の目は温度を色でみることができるセンサー機能付きなんだ」
「……なんだかよくわかんないけど、すごいんだねえ」
「はい、お待たせ」とカウンターテーブルへ出されたグラタン皿を見て、「わあ」と心春は声をあげる。
こんがりと焦げたチーズになめらかそうなベシャメルソース。「いただきまーす」とフォークを入れれば盛大に湯気が立ちのぼる。そして期待を裏切らない旨味がぎゅっと詰まったカボチャとタラの味わい、それに素材の甘味たっぷりの人参だ。
「はあ、もう、美味しい。幸せ。今日の苦労が報われたー」
ほう、と大きく息をはく。今回も夢中で平らげると、カウンターテーブルにフォークを置いて目を閉じて、しばらくグラタンの余韻に浸るくらいの美味しさだった。
そっと目を開けると、隣に猫に戻った猫店長がいた。毛づくろいをしている。そこを心春は背後から猫店長に抱きついた。
「いつも美味しい御飯をありがとう」
「お礼をいってくれるのは嬉しいけど、せっかく毛づくろいしたのにぐちゃぐちゃになっちゃったよ……」
「わたしが撫でてあげるね」
あ、ちょ、やめて、と猫店長は心春の腕の中で身もだえる。やめなーい、と心春は猫店長のお腹へ顔をうずめる。もふもふな毛がくすぐったい。お日様の匂いもする。それからドクッドクという猫店長の心臓の音。いつまでも聞いていたくなる安心する音。どうしてかな。安心しすぎて泣きたくなってきちゃう。
猫店長はあらがうのをやめて、「それで?」といつもの気だるそうな声をかけてきた。
「学生さんがどうしたって? 早期登録っていうんなら、学会の会員登録じゃなくて参加登録ってこと?」
「……うんそう。先生が払ってくれるお金だからってちょっとルーズすぎだよ」
「自腹じゃないんだ。太っ腹だねえ」
「本当にそうなんだよ。恵まれているのに気づいていないんだから」
「心春のときはどうだったの?」
「学生のときってこと? ……学会にはいったことがない。研究会はあるけど」
答えているうちに当時のことを思い出す。
みんなで車座になって温泉旅館の広い部屋でテキストを読み合ったりしたっけなあ。たった数年前のことなのに、もう懐かしい。
あのとき申し込みとかどうしていたっけ。誰が取り仕切っていてくれたかな。あれ? 思い出せない。……当日参加できればいいとか、それくらいしか思っていなかったからかな。
「ひょっとしたらさ。その子、参加登録のやりかたがわからないんじゃないかな」
「え? だったらいってくれれば」
「だって、心春は忙しいんでしょ? そんな心春にとても話しかけられなかったのかも。発表の準備とかあったら、それを先にやろうって思うでしょ。心春に聞くのはあとでいいやって思うよ」
確かに、と心春は口元に手を当てる。
わたしもわかんないことだらけで、あとでいいや、って放置している事柄が山積みだ。斜里さんもそうだったのかも。
「……明日、斜里さんと一緒に参加登録をやってみる。お節介かもだけど」
「そんなことないよ。きっと心強いよ」
ああもう、と心春はもう一度猫店長のお腹へ顔をつけた。
猫店長はすごいなあ。わたしにはちっとも気づけなかったことも、こんなにあっさり紐解いてくれる。
「わたしは本当に駄目駄目だなあ」
「そんなことないよ。心春は頑張っているよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
じわりと心春の頬に笑みが浮かぶ。猫店長の肉球をムニムニと触って、思いっきり猫店長のお腹を吸った。本当に猫店長は最高だなあ。猫店長に出会えてよかったなあ。
けれど──。
なにごとにも永遠はない。
そう知ったのは、そのすぐあとのことだった。

