猫店長との、この出会い。
これがなかったら心春は引きこもりになっていたかもしれない。少なくとも仕事はやめていただろう。
なにしろ心春の就職活動は散々だった。
冗談のようだが本当に百社以上に振られ続けた。人間性と靴底を削られる日々だった。かろうじて卒論だけは提出して、無事に大学を卒業したものの春になっても職はなかった。
なにがいけないんだろうなあ。文系女子で新卒正社員が駄目なのかなあ。世間は「人手不足」って嘆いているのに。だったらわたしを雇ってよぅ。
涙で枕を濡らして四月を過ごしたゴールデンウイーク明けだ。
いつもは腫れ物を扱うような態度の母親が、鼻息あらく心春へ新聞の切り抜きを差し出した。
「ちょっとあんた、ここを受けてみなさいよ」
「いまどき新聞の求人欄?」
「大学の研究室秘書だって。契約職員らしいけど、フルタイムだし悪くないでしょ」
「わたしが? 大学の秘書? 無理無理無理。できっこないよー」
「だったらなんならできるのよ」
痛いところを突かれて心春は黙る。
そうなのだ。自分にはこれといったウリがない。ありきたりな資格しかないし、トークに秀でているわけでもないので営業や企画を希望する意欲もない。
とりあえず押しつけられた新聞の切り抜きをもとにネット検索をしてみた。
大学ウエブサイトのトップページ下部だ。その採用情報に詳細が出ていた。あやしい求人ではなかったようだ。
あらためて求人詳細のファイルを見ると、応募資格は短大卒業以上でパソコンの基本ソフトができればいいだけだった。
日給はさほど高くはないものの、諸手当がしっかりしていて、残業はほぼなさそうだ。気になる点といえば、新聞での募集タイトルは『大学秘書』であったのに対し、大学のウエブサイトでは『事務補佐員』の募集だったことだ。なんど読み直しても同じポジションの募集のようだ。
そして……うん、応募資格条件だけなら、わたしも満たしている。
応募書類がエントリーシートやウエブエントリーではなく市販の履歴書とあったのに少し戸惑ったが、大学三年から履歴書を書き続けてきたので慣れたものである。添付写真画像もバッチリだ。
さっそく丁寧に書類を作成し、ポストでは心配だったので郵便局の窓口で発送手続きをした。募集要項によれば、書類到着してから書類選考通過者に限り、1週間以内に面接日を連絡とある。
ならひと休みできるよね、と久々にホッとして、前から気になっていた配信ドラマを観ようとパソコンを立ち上げると、メール着信のポップアップがあがっていた。書類選考通知のお知らせだった。
ええっ、と思わず立ちあがる。
生まれて初めての書類選考通知のお知らせだ。面接は翌日でいいかとの問い合わせも付いていた。異論があるはずない。
こんなことがあるのかな、と震えつつ翌日、指定された大学の研究室へ向かうと、研究室正職員一同が待っていた。それも講義室の教壇部分に心春が座り、ほかスタッフは学生席へ座っての面接という異様さだ。
なにをしゃべったのかも思い出せないくらい緊張をして、呆然としつつ帰宅する途中で、採用の電話が入った。
えええっ。本当に? こんなことってある?
あんなに、何年もずっとずっと欲しかった『採用』の言葉。
こんなにあっさり手に入るなんて。
だがしかし。
ここで喜んではいけなかったのだ。
ここまで迅速にされる理由、それがあったのだ。
***
初出勤日、割り当てられたデスク前に立って心春は唖然とした。
デスクの上には書類が山積みになり、マウスやキーボードがデスクから落ちかかっていた。背後のシュレッダーは紙屑があふれ、床のそこかしこにゴミが落ちていた。
「枝幸さんですよね。お待ちしていました。僕は助教の紋別です。ウチは予算を獲得してくる教員が多いので大変かと思いますがよろしくお願いします。早速ですが、これとあれとそれの発注をお願いします。えっと、毎日顔を出してくれる業者さんがいて、彼に頼むと楽ですよ」
それからあれやこれや、それにこれも──、とあいさつを返す暇もないほど紋別はまくし立てた。
どうやら大学秘書というのは企業秘書とは異なって、ほぼ事務処理を行うらしい。大学ルール、部局の事務会計総務ルールにのっとって、実験機器・用具の購入手配、各教員が獲得してきた科研費や寄付金の使用管理に、その予算を使っての旅費届け出や旅費申請業務が主たる業務なのだ。
来客へお茶を出し、教授のスケジュール管理を行い……、というのはほぼ必要ない、とのことだ。
そっか、だから大学公式のウエブサイトでは『秘書』ではなくて『事務』だったんだ。
後日、心春は吾輩カフェで猫の猫店長を撫でながら訴えた。
「必要ない、というか、そんな余裕がないのよ。毎日もう必死なのよぅ」
ゆえにシュレッダーから紙があふれても、床にゴミが散らかっていようと、前任者に片づける時間はなかったのだ。かなりいい渋られたものの、あとから聞いた話では前任者は一か月で「もう無理」と出勤拒否をしてリタイアしたという。
「わたしだって、こうして猫店長のあつあつグラタンを食べてメンタルリセットしていなかったら、とっくに辞表を出していたもん」
世の中にはブラック企業が山ほどあって、大学秘書の仕事がこの上もなくホワイトな仕事であることはわかっている。残業もないし、というか、させてもらえないし。参加する気持ちの余裕はないけれど、昼休みには研究室を越えて有志によるテニスやバレーボール活動もしているという。
そもそも楽な仕事など存在しない。
世の中の大人は誰でもつらい気持ちをぐっとこらえて仕事をしているのだ。
だけど、でもね、わぁん、と心春は猫店長へ頬ずりをする。
「もう嫌になっちゃう。やってもやっても、次から次へと仕事やトラブルが入るのよ。どうしたらいいのよぅ」
わかっている。わたしは超絶──甘ちゃんだ。
これがなかったら心春は引きこもりになっていたかもしれない。少なくとも仕事はやめていただろう。
なにしろ心春の就職活動は散々だった。
冗談のようだが本当に百社以上に振られ続けた。人間性と靴底を削られる日々だった。かろうじて卒論だけは提出して、無事に大学を卒業したものの春になっても職はなかった。
なにがいけないんだろうなあ。文系女子で新卒正社員が駄目なのかなあ。世間は「人手不足」って嘆いているのに。だったらわたしを雇ってよぅ。
涙で枕を濡らして四月を過ごしたゴールデンウイーク明けだ。
いつもは腫れ物を扱うような態度の母親が、鼻息あらく心春へ新聞の切り抜きを差し出した。
「ちょっとあんた、ここを受けてみなさいよ」
「いまどき新聞の求人欄?」
「大学の研究室秘書だって。契約職員らしいけど、フルタイムだし悪くないでしょ」
「わたしが? 大学の秘書? 無理無理無理。できっこないよー」
「だったらなんならできるのよ」
痛いところを突かれて心春は黙る。
そうなのだ。自分にはこれといったウリがない。ありきたりな資格しかないし、トークに秀でているわけでもないので営業や企画を希望する意欲もない。
とりあえず押しつけられた新聞の切り抜きをもとにネット検索をしてみた。
大学ウエブサイトのトップページ下部だ。その採用情報に詳細が出ていた。あやしい求人ではなかったようだ。
あらためて求人詳細のファイルを見ると、応募資格は短大卒業以上でパソコンの基本ソフトができればいいだけだった。
日給はさほど高くはないものの、諸手当がしっかりしていて、残業はほぼなさそうだ。気になる点といえば、新聞での募集タイトルは『大学秘書』であったのに対し、大学のウエブサイトでは『事務補佐員』の募集だったことだ。なんど読み直しても同じポジションの募集のようだ。
そして……うん、応募資格条件だけなら、わたしも満たしている。
応募書類がエントリーシートやウエブエントリーではなく市販の履歴書とあったのに少し戸惑ったが、大学三年から履歴書を書き続けてきたので慣れたものである。添付写真画像もバッチリだ。
さっそく丁寧に書類を作成し、ポストでは心配だったので郵便局の窓口で発送手続きをした。募集要項によれば、書類到着してから書類選考通過者に限り、1週間以内に面接日を連絡とある。
ならひと休みできるよね、と久々にホッとして、前から気になっていた配信ドラマを観ようとパソコンを立ち上げると、メール着信のポップアップがあがっていた。書類選考通知のお知らせだった。
ええっ、と思わず立ちあがる。
生まれて初めての書類選考通知のお知らせだ。面接は翌日でいいかとの問い合わせも付いていた。異論があるはずない。
こんなことがあるのかな、と震えつつ翌日、指定された大学の研究室へ向かうと、研究室正職員一同が待っていた。それも講義室の教壇部分に心春が座り、ほかスタッフは学生席へ座っての面接という異様さだ。
なにをしゃべったのかも思い出せないくらい緊張をして、呆然としつつ帰宅する途中で、採用の電話が入った。
えええっ。本当に? こんなことってある?
あんなに、何年もずっとずっと欲しかった『採用』の言葉。
こんなにあっさり手に入るなんて。
だがしかし。
ここで喜んではいけなかったのだ。
ここまで迅速にされる理由、それがあったのだ。
***
初出勤日、割り当てられたデスク前に立って心春は唖然とした。
デスクの上には書類が山積みになり、マウスやキーボードがデスクから落ちかかっていた。背後のシュレッダーは紙屑があふれ、床のそこかしこにゴミが落ちていた。
「枝幸さんですよね。お待ちしていました。僕は助教の紋別です。ウチは予算を獲得してくる教員が多いので大変かと思いますがよろしくお願いします。早速ですが、これとあれとそれの発注をお願いします。えっと、毎日顔を出してくれる業者さんがいて、彼に頼むと楽ですよ」
それからあれやこれや、それにこれも──、とあいさつを返す暇もないほど紋別はまくし立てた。
どうやら大学秘書というのは企業秘書とは異なって、ほぼ事務処理を行うらしい。大学ルール、部局の事務会計総務ルールにのっとって、実験機器・用具の購入手配、各教員が獲得してきた科研費や寄付金の使用管理に、その予算を使っての旅費届け出や旅費申請業務が主たる業務なのだ。
来客へお茶を出し、教授のスケジュール管理を行い……、というのはほぼ必要ない、とのことだ。
そっか、だから大学公式のウエブサイトでは『秘書』ではなくて『事務』だったんだ。
後日、心春は吾輩カフェで猫の猫店長を撫でながら訴えた。
「必要ない、というか、そんな余裕がないのよ。毎日もう必死なのよぅ」
ゆえにシュレッダーから紙があふれても、床にゴミが散らかっていようと、前任者に片づける時間はなかったのだ。かなりいい渋られたものの、あとから聞いた話では前任者は一か月で「もう無理」と出勤拒否をしてリタイアしたという。
「わたしだって、こうして猫店長のあつあつグラタンを食べてメンタルリセットしていなかったら、とっくに辞表を出していたもん」
世の中にはブラック企業が山ほどあって、大学秘書の仕事がこの上もなくホワイトな仕事であることはわかっている。残業もないし、というか、させてもらえないし。参加する気持ちの余裕はないけれど、昼休みには研究室を越えて有志によるテニスやバレーボール活動もしているという。
そもそも楽な仕事など存在しない。
世の中の大人は誰でもつらい気持ちをぐっとこらえて仕事をしているのだ。
だけど、でもね、わぁん、と心春は猫店長へ頬ずりをする。
「もう嫌になっちゃう。やってもやっても、次から次へと仕事やトラブルが入るのよ。どうしたらいいのよぅ」
わかっている。わたしは超絶──甘ちゃんだ。

