二か月ほど前のことだ。

「──これは困ったなあ」

 駆け込んだテナントビルの店先で、心春は土砂降りの雨を眺めた。
 11月下旬で、みぞれまじりの冷たい雨だ。仕事帰りの途中で降り出した雨は、すぐに前が見えなくなるほどの雨脚になった。うひゃあ、と心春はこうして目についた店先に逃げ込んだのだが──。

「やむどころか、弱まりそうにもないなあ。傘も持っていないし」

 まいったなあ、と心春は肩を落とす。
 踏んだり蹴ったりって、こういうことをいうのかもなあ。
 はああ、と心春は大きく息をはく。

 今日も失敗ばかりの一日だった。
 頼まれていたリマインドメールも忘れていたし。業者さん対応ももたついちゃったし。よくわかんない英語のメールをあとまわしにしておいたら、実はすごく大切なメールだったし。紋別(もんべつ)さんが助けてくれなかったら大事になるところだった。そしてこうしてゲリラ豪雨にばっちり当たっている。ちゃんと天気予報を見ていれば傘を忘れずにいられたのに。

「……なにもかもうまくいかないなあ。嫌になっちゃうなあ……泣きたいなあ」

 うつむいた心春の前髪から雫が垂れて、ぽたぽたと足元を濡らしていく。
 そのときだ。

「あの……よかったら中に入りませんか? そこだともっと濡れちゃいますよ」

 すらりとした長身の青年が背後のドアから声をかけていた。セミロングの柔らかそうな髪に切れ長の瞳。……うわ、かっこいい、じゃなくて、と心春は我に返る。

「す、すみません。お店の邪魔ですよね。いますぐに退きますから」

 その心春の言葉が終わらないうちに、雨脚はさらに強くなる。「きゃ」と心春は身を縮めた。

「ご遠慮なさらず、どうぞ」

 青年が扉を大きく開けて、「えっと、じゃあ、お言葉に甘えて」と心春は恐る恐る店へと入る。

「わあ」

 木目で統一された店内はカフェのようだった。
 目を引く大きなカウンターテーブルに細いフレームのスツール椅子だ。窓際には数脚のテーブル席があり、北欧調とでもいうような味わいの照明が店内を柔らかく照らしていた。
 とても落ち着く雰囲気だ。それだけでなく、身体が浄化されるような空気だ。

「タオルです。使ってください」
「なにからなにまで。……すみません。お借りします」
「寒かったでしょう。あったかいものでも入れますね。サービスですからお気になさらず」
「いえそんな、おかまいなく」

 そう声をかけたけれど、青年は爽やかな笑みを残してカウンターテーブルの裏へとまわる。カチャカチャと食器のこすれる音にガス調理器をつける音がして、やがて甘くスパイシーな香りが漂ってくる。

「はいどうぞ。ジンジャーココアです。ミルクを多めにしました。あたたまりますよ」

 わあ、と心春は遠慮を忘れてカップを手に取る。たっぷりと甘くて、それからショウガの風味が身体に染み渡り、やがて手の先がぽっぽっとあたたかくなってきた。

「すごく美味しいです。落ち着くしあたたまります」

 目尻をさげたときだ。今度は心春のお腹が、きゅるるる、と鳴った。かあっ、と顔が熱くなる。

「ご、ごめんなさい。気にしないでいただけたら……」

 いやだもう、消えたい。心春は目いっぱい身を縮めたけれど、青年はなぜか嬉しそうな顔をすると、奥の厨房へ入っていった。リズミカルな包丁の音と、なにかを炒めるジュウジュウという音が聞こえた。
 やがて「はい、どうぞ」と差し出されたのが──あつあつグラタンだった。

 ほっくほくのジャガイモに表面はカリッと、中はふっくらなタラ。火傷しそうなほど熱いのにフォークを止められないベシャメルソース。こんがり焼き目のついたチーズなど芸術的ですらある。
 夢中で平らげ、ほうっと息をはいて、ぼうっとしてしまうほどの美味しさだった。

「お口に合いましたか?」
「あ、ごめんなさい。……ガツガツしちゃって恥ずかしい」
「見ていて僕まで嬉しくなりました。よかったです」
「あの……おいくらですか?」
「押し付けでお出ししました。気になさらずに」
「そんなわけには。ココアもとても美味しかったし」

 そうですか? と青年は考える仕草をする。

「だったら、全部で五百円はどうでしょう。あー、そうだ、キャッシュオンリーでお願いします」
「安すぎでは?」
「じゃあ、またいらしてください。お待ちしています」
「是非。で? えっと、お店のお名前はなんというんですか?」
「名前? あー、そういえば名前はないですねえ」
「へ? ……『名前がない』というお店なんですか?」

「そういうわけでは」と青年は楽しそうに笑った。しまった。またトンチンカンな返答をしちゃった。シュンとしていると、「では、名前をつけてください」といわれた。「わたしが?」と目を丸くする。青年は楽しそうにうなずくばかりだ。

「……じゃあ、『吾輩カフェ』なんてどうでしょう」
「それはいったい?」
「明治の文豪に夏目さんがいるんですけど、その夏目さんの書籍にあやかったんです。ご存知ないですか?」
「不勉強で。ですが、うん、いいですねえ。なんだか僕まで学があるみたいに見えそうだし」

 青年は心春の隣へ座って『吾輩カフェ』、『吾輩カフェ』と呪文のように何度も唱える。それもとても嬉しそうだ。気に入ってもらえてなによりと、心春もホッとした。

 窓に叩きつける雨音が聞こえた。
 それを和らげるようにパネルヒーターのシュウシュウという蒸気音が店内に響く。濡れた髪は暖かい風ですっかり乾いて風に揺れ、一度雨に濡れた身体はその空気に包まれてぼんやりとした心持になっていく。
 カウンターテーブルに頬杖をついていた青年が、目を閉じてうつらうつらと身体を揺らしていた。不用心だなあ。そう思う先からあまりに心地よくて心春もウトウトとしてしまった。

 どれくらい寝てしまっただろう。
 カウンターテーブルへ突っ伏していた心春はあわてて身体を起こした。
 そしてハッとする。
 心春の隣にいたのは、キジトラ猫だった。

「え? あれ? 店長さんは?」

 店内を見回したけれど誰もいない。……ひょっとして、とキジトラ猫を見る。

「あなたが店長さん、だったりして」
「うん、僕ですよ」

 大きく伸びをしながらキジトラ猫が返事をした。
 二度、三度とゆっくり心春はまばたきをする。その間にキジトラ猫は姿勢を直して心春へ向き直っていた。
 不思議な話だが、戸惑ったのはその数秒だけだった。あとは「……そっか」と声になった。どうして猫なのか。どうして変身ができるのか。変身しているのは猫なのか人間なのか。どうしてしゃべれるのか。どうしてかそのすべてが、どうでもよくなった。

 心春はそっとキジトラ猫へ手を伸ばす。そしてそのもふもふの背中をすーっと撫でた。戸惑ったのはキジトラ猫のほうだったようだ。

「……驚かないんですね」
「そういうこともあるかなって」
「さすがすぎるんですけど」
「どういう意味で?」
「あ、いえ」と口ごもるキジトラ猫の肉球を心春は、むにゅっ、と触る。
「あ、ちょ、……大胆ですね」
「うわー、ぷにぷにしている。ぷにぷにー」
「猫ですから」

 こらえきれずに心春はキジトラ猫のお腹を頬ずりする。もっふもふ、だ。「猫店長―」と心春はそのままの姿勢でキジトラ猫──猫店長へ声をかける。

「──また来てもいいですか?」

 猫店長は大きくひとつあくびをする。そしてゆったりと心春へそのつぶらな瞳を向けた。

「うん。待っています」