目を覚ますと、心春は吾輩カフェのソファーに寝かされていた。
 テーブルの向こうには青年姿の猫店長だ。
 青年猫店長は心春が目を開けたのに気づくと、ホッとしたような笑顔になった。

「猫店長、よかった……変身できたのね」

 青年猫店長はにっこりとうなずく。
 猫店長、わたし……、と続けようとして心春は口を閉じる。
 わたしが『生まれ変わり』? 本当に? 喜びよりはるかに戸惑いのほうが大きかった。
 だってわたし──猫店長が飼い猫だったときのことを、まったく覚えていない。猫店長にはじめてあったときも、素敵な人だなあ、としか思わなかった。……懐かしいとか、思えなかった。

 本当にわたしが生まれ変わりなのかな。
 猫店長の思い過ごしってことはないかな。

 青年猫店長が、コトリ、と目の前のテーブルへカップを置いた。ココアだ。マシュマロがとろりととけている。美味しそう。「ありがとう」と小声で伝えて、そっと青年猫店長をうかがい見た。青年猫店長はとろけるような笑顔を心春へ向ける。青年猫店長の思いに見た『生まれ変わり』へ向けた視線と同じだ。思わずうろたえて視線をそらす。
 
 ──猫店長はこんなに自信満々で接してくれる。猫又になるくらい猫妖力だって強いんだから、間違えるはずはなさそう。それに、そうよ、間違っていたら又治さんが真っ先に指摘するだろうし。
 だったら──わたしが変なのかな。

 青年猫店長が心配そうな顔で心春を見ていた。あ、えっと、と心春はココアのカップへ手を伸ばす。息を吹きかけ、そっとカップへ口をつける。それでも「あちっ」と声が出た。
「にゃっ」と青年猫店長が血相を変えた。「あ、大丈夫」と返してから、ん? と青年猫店長へ顔を向ける。

「……『にゃ』?」
「……にゃあ」
「可愛い猫言葉ごっこ?」
「にゃんにゃにゃにゃにゃいにゃ」
「……『そんなわけない』。え? じゃあ猫店長、今度は人間の言葉がしゃべれなくなっちゃったの? それってひょっとして、無理してわたしを助けてくれたからじゃ?」
「にゃあにゃんにゃにゃ」
「『そうなんだよー』って、そんな悠長な」

 心春は血相を変えたけれど、途中で二人一緒に「ん?」と首をかしげる。わたし、猫店長の猫語がわかる? どうして? 

 そのときだ。
 チリン、と頭の中で鈴の音がした。

 へ? と思う間もなく周囲がかすみ、気づくと吹雪の中でうずくまっていた。
 手の中には雪だらけになったキジトラ猫。ぐったりと目を閉じたその猫をマフラーでしっかり包んで、「……死なないで……頑張って」、そうつぶやいて必死で自宅へ連れ帰る。
 ようやく元気になったキジトラ猫に「外は大変だから、ウチの子にならない?」と提案した。それでも懐いてくれるまでには、随分と時間がかかった。
 指先はすっかりひっかかれた傷だらけだ。それがむしろ愛しかった。
 その傷を舐めてくれるようになったころ、「これはどうかな」と鈴つきの首輪をプレゼントした。

 チリン、チリン……。

 首がかゆいときに脚で掻いて、連打されるその鈴の音。駆け寄ってくるときに聞こえる音。僕はここにいるよの合図。
 おはよう、おかえり、おつかれ、あったかいね、楽しいね、おやすみ。

 そのすべての──『小結(こむすび)』の合図。

 一緒にご飯を食べよう。身体があたたまるご飯をたっぷり。
 ほっくほくのタラとほろほろのカボチャが入った、あつあつのグラタンはどうかな。
 ほら小結、タラをどうぞ。ほっくほくだよ。まだ少し熱いから気をつけるんだよ。塩味はごく薄目にしたから大丈夫だろうけど、どうかな。
 おいしい? うふふ。よかったー。

 心春は両手で顔を覆って泣き崩れた。
 身体が熱くて、泣いても泣いても足りなくて。吠えるような声が出ても、それも止めることができなくて。身体を支えていられずに床へ突っ伏す。喉の奥が痛くて、唇が震えてどうしようもなくて、しゃくりあげる息すら熱い。

 ……そうだ。いつも青年の猫店長が出してくれる、あつあつグラタン。あれは、わたしの得意料理だった。猫店長──小結はそれをちゃんと覚えていて、猫又修行をやった後もこうして忘れずに作ってくれたんだ。
 又治の言葉が頭をよぎった。
 ──兄ィは馬鹿なくらいに一途なんです。わかってますか? ──
 本当だね。なんて、なんて……健気なんだろう。

「……にゃあ」

 青年猫店長の小結が泣きそうな顔で心春へタオルを差し出していた。
 震える指先で手を伸ばし、タオルではなく青年猫店長の両手を取る。

「遅くなってごめんね──小結」

 青年猫店長が目を見開いた。その顔から笑みが消え、唇が小さく震えていく。端正な鼻の先が赤くなって、耳まで見る見る真っ赤になっていき、それから大粒の涙が頬を伝う。
 くしゃりと顔を崩したらもう限界だったのだろう。青年猫店長はブルリと身体を震わせると、キジトラ猫の姿へと──小結の姿へと戻る。

「助けてくれて、ありがとうね」

 心春は小結を抱きかかえ、そして思いっきり小結を抱きしめた。お日様の匂いがした。ああ、小結の香りだ。安堵と切なさと愛しさが一度に押し寄せる。世界で一番大切なぬくもりだ。

 ……紋別さん、斜里さん、ごめんなさい。
 わたし、とても──とてもとてもとても、大切な人がいるんです。何百年たっても、何千年たっても、その気持ちは変わらない。だから、ごめんなさい。お二人の気持ちには応えられない。

 小結、と小さい声で呼びかける。そしてありったけの気持ちを込めた。

「待っていてくれてありがとう。ただいま」

 にゃあ、といつまでも、小結の声が店に響いた。



(了)