研究室のパソコンモニター画面を睨んで心春はうなる。
 結局あのあと、又治は一度も目を覚ますことがなかった。猫店長も猫のままだった。解決策はまったく思いつかない。
 はああ、わたしはどうしたらいいのかなあ。

「枝幸さん、前回発注をお願いしたバイアル瓶なんですけど、型番ってわかりますか?」

 不意に紋別から声をかけられ、心春は「うわ、はい」とあわてて姿勢を直した。
 いけない。仕事中だった。しっかりしないとまたミスしちゃう。気を引き締めてエクセルで検索をかけ、ヒットした物品を「これですか?」と紋別へ示した。

 紋別は心春の手元へ視線を向けていた。モニターを見ていない。「紋別さん?」と心春が声を出すと、紋別は目を閉じ、意を決するように息をはいて心春へ顔を向けた。

「枝幸さん、今夜お時間ありますか?」
「え?」
「よかったら夕飯を食いにいきませんか? おごります」

 へっ、と面食らう。とっさに周囲を見渡す。部屋には紋別しかいなかった。
 えっと、あの、と視線を泳がせると、紋別は気まずそうに首の後ろへ手を当てる。

「……唐突すぎましたよね。すみません。お時間あるときを教えてください。旨いものを食いにいきましょう」
「えっと……どうして?」
「え? あー……っと、その、いつもお世話になっているし、それに──枝幸さんと二人でゆっくり飯を食いたいなって思って」

 紋別は真っすぐな眼差しだ。からかっているようではなさそうだ。

「今日では急なら、いつがいいですか? やっぱり金曜かな。どうでしょう」
「えっと、その」
「……彼氏さんがいらっしゃるとか?」
「それは……ないですけど」

 ……どうしよう。悪い人じゃないけど。
 心春の困惑に気づいたのか、紋別は「あの」と照れ臭そうに鼻の頭をかく。

「すみません。おれ、せっかちってよくいわれるんです。でもね。いつも山ほど出張案件を抱えていても逃げ出したりしないで、ひとつひとつ丁寧に対応してくださる枝幸さんをすごいな、いいなって思っていたんです」
「いえ、そんな。わたし、文句をいってばっかりです。わからないことだらけで何度も事務へ同じことを聞いちゃうし。それに……仕事ですし」
「人に聞けないで事案をこじらせる人もたくさんいます。教授の無茶な発注依頼だってそうですよ。先週のポンプ修理、あれ、教授が業者に見積もり依頼を出すべきでしたよね。それを枝幸さんに押しつけたりして。枝幸さん、わからなくて当然ですよ」

 鼻先がじわりと熱くなる。そっか。紋別さん、気にしてくれていたんだ。

「……こういう話、食事をしながらいおうと思っていたんですけど」

 どうでしょう、と紋別は柔らかい口調になる。

「枝幸さんともっと話がしたいな。食事をしながら。いかがですか?」

 えっとえっと、と心春は身を縮める。お誘いは嬉しいけど、でも……だけどわたし、いままで紋別さんをそういう目でみたことがなかった。
 それに、と視線を伏せる。いまは猫店長のことで頭がいっぱいで、紋別さんを気づかう余裕がない。こんな状態で受けるのは失礼じゃないかな。

 そのとき、プルルルル、と音が響いた。
 内線電話だ。……助かった。

「あ、じゃあ、あとにします。考えておいてください」

 紋別は残念そうな顔をすると、片手をあげて部屋を出ていった。

 呼吸を整えて受話器を上げると、会計からの書類不備の連絡だった。何十件と同じ業務をやっているのに、わたしってば、まだこんなところでミスをする。自分にウンザリしながら、大急ぎで書類の作り直しだ。

 なんとか不備なく書類の提出を終えて、紋別への返事をどうしようと思いながらとぼとぼと居室へ戻ると、今度は学生の斜里が部屋の前に立っていた。心春は小走りで「どうしました?」と斜里に駆けよる。

「出張のときの航空機の半券を持ってきてくれたとか? ありがとうございます」

 どうぞ、斜里をうながし居室へ入る。斜里は黙って後に続き、こわばった顔つきで心春を見た。「半券は?」と首をかしげても斜里は黙ったままだ。
 斜里はそっと部屋の中を見回す。誰もいないことを確認したのか、「……さっき」と声を出す。

「紋別さんから食事に誘われていましたよね」
「聞いていたんですか?」
「……半券を渡そうと部屋のドアを開けたら紋別さんがいて。それで話が聞こえてきて」

 それで、と斜里は口を尖らす。

「いかないでください」
「え、っと?」
「っていうか、誰とも二人っきりなんかで食事にいかないでください」
「斜里さん?」
「紋別さんって三十過ぎているんですよ。そんな年上の人じゃなくてもいいでしょう? いますぐに結婚したいとかそういう願望があるんじゃなければ、僕のほうが歳だって同じだし。そりゃ僕はあの人みたいに金はないけど、でも同世代だからわかる話もあるし」

 えっと、と心春はますます目をしばたたく。
 それって、どういう意味だろう。それから、そっか、学生だっていっても斜里さんは大学院生だから、わたしと同じ歳なんだ。旅費手続きしていたときに生年月日を見たはずだけど、そこを気にする余裕はなかった。

「野外調査へいくとき、枝幸さんがつけてくれた『気をつけていってらっしゃい』付箋に僕がどれだけ励まされたか。調査船の中でどんなに紋別さんからムカつくことをいわれても、あの付箋を見て頑張ろうって思えたんだ」

 そして斜里は心春の手をつかむ。

「好きです。僕とつき合ってください」

 心春はキュッと唇を噛みしめる。涙目になる。
 今日はいったい──なにが起こっているの?