なにをしても駄目なときってある。
たとえばいまだ。
そんなときは──『吾輩カフェ』へ直行だ。
「店長―」
表通りをひとつ奥へ進んだ先のビルの一階。木製扉を開いて、心春は店先で寝ていたキジトラ猫をぎゅうっと抱きしめた。
「助けて猫店長―。研究室の教員も事務の会計もいいたい放題なの。こんなに頑張っているのに、なにひとつ解決しないし。それどころか頑張れば頑張るほど駄目が増えていくの」
「心春、苦しい」
「わたし、どうしたらいいんだろう。駄目なところが多すぎて、なにから手をつけたらいいのかわかんないよ」
「苦しいって」
「お願い猫店長。肉球を触らせて。ぷにぷにさせて。そうじゃないとストレスで圧死しちゃう」
「僕は──いま圧死しそうだよ」
猫店長は、シャアアッ、と低く威嚇音を出すと激しくもがいた。鋭い爪で心春の額をひと掻きする。「うひゃっ」と心春は手を離す。
はあもうまったく、と猫店長は床へ飛び降りて、ブルブルと背中を震わせる。そして人間へと変身をした。
「心春は毎度毎度にぎやかだね。抱きついてくれるのは歓迎だけど、手加減をしてほしいな」
身長百七十五センチくらい、バランスのとれた長身細身の体格で、スタイリッシュな白いシャツに黒のスラックス姿。アンニュイな面影の二十代前半男子の姿かたちだ。
毎回のことながら、惚れ惚れするほどの変わりっぷりだ。
「それにさ。なんどもいうけど、僕に愚痴られてもどうすることもできないよ」
「猫店長が聞いてくれるだけでも十分なの。肉球に触れたら幸せだし。いつだってわたしは猫店長のおかげで頑張れているんだよ」
「僕の肉球にそこまでのパワーがあったとは。嬉しいな」
「それだけじゃない。猫店長、お腹すいたよー。猫店長のご飯が食べたいよー。オムライスが食べたいよー」
「唐突だね。えっと、ライス、あったかな」
「ザンギ(北海道版からあげ)が食べたいよう」
「え? どっち? 両方とか?」
「大盛りの、もりもりカレーも食べたいよう」
「……心春、そんなに食べられないでしょう。一番なにが食べたいの?」
「お腹すいたよー」
「もう……子どもじゃないんだから。しょうがないなあ」
はああ、とため息をついて青年猫店長は立ちあがる。流れるような仕草でエプロンを身にまとうと厨房へと入っていった。
ほどなくバターの香ばしい匂いが漂ってきた。リズミカルな包丁の音に、玉ねぎを炒めるジュウジュウという音が続く。心春はうっとりと目を閉じる。まるで夢の中のような時間だ。いつまでも続くといいのに。そんなことを思いながら目を開けると、「はい、お待たせ」とカウンターテーブルに湯気の立つ皿が載った。
「カボチャとタラのクリームグラタンだよ。熱いから気をつけてね」
わあ、と心春の目が輝く。「いっただきまーす」とフォークを手に取る。本当に熱い。はふはふと熱を逃さないと口の中を火傷するほどだ。
でも手は止まらない。
ほっこり濃厚な味わいのカボチャに、ホクホクのブロッコリー。臭みのまったくないタラは、表面はカリッと中はふわふわだ。ベシャメルソースはあっさりとしていて、表面の濃厚なチーズを引き立てていた。いくらでも食べられる味わいだ。
「……おいひい(美味しい)」
口を開けて熱を放出し、心春はうっとりと半眼になる。
ああ……これだよ。力がみなぎるこの味わい。このおかげでわたしは毎日頑張れている。涙が出ちゃう。
「大げさだなあ」と青年猫店長は笑う。「ほら、これもお飲み。温まるから」とショウガとシナモンの効いたホッとココアをグラタンの脇へ置いた。
「あのね、心春。ウチはドリンクメニューがメインのカフェだよ。わかっているよね? 毎回スペシャルオーダーをされると困るんだよ」
「ごめんにゃさい(グラタンが熱くてちゃんと発音できない)」
「……で? 今日はどうしたって?」
心春は、そうだった、と我に返る。青年猫店長は心春の隣へ座る。その青年猫店長へ、「聞いて聞いて」と心春はフォークを持ったまま身体を向けた。
「昨日、ガスケットの話をしたでしょう?」
「金属の輪っかの話? 商品の品番がわからなくて困っていたってやつ」
「うんそれ。なんとか調べて、今朝発注したの。そうしたら教授が『やっぱりもうひと回り大きいヤツで』っていいだして。もう発注しちゃったっていっても『いまなら取り消せるから』っていい張って」
「取り消せたの?」
「……できたんだけど、わたし会計の人に『大急ぎの注文なんです』って最初にお願いしたの。もともとちょっと特殊な品番だったから、仕様書とかいろいろつけたの。それを取り下げたりなんだりで大騒ぎになっちゃって」
「あちゃ……」
「教授は『使えないものを買ってもしょうがないでしょ』って。そりゃそうなんだけど。注文変更より、新規に注文したほうのがはるかに楽なのに。さほど高額な商品じゃなかったし。……楽とかそういうことじゃないっていうのはわかるんだけど。なんだかなあって。急ぎの航空機手配とか旅費概算請求とかも立て続けにあったから、お昼ご飯も食べ損ねちゃった」
「だから腹ペコさんだったんだね」
「どうして必要なものを自分で発注しないのかなあ。自分でやれば確実なのに」
「心春のことを信頼しているんじゃないかな」
「面倒くさいだけじゃないかな」
「なんだ。理由はわかっているんでしょ」
「……猫店長って、ときどき容赦ない」
「猫だからねえ」
ふんだ、と頬を膨らませて心春はグラタンを頬張る。その心春の頬を「心春はいつも頑張っているねえ」と青年猫店長が撫でた。人間の指ではなかった。指先だけ猫に戻った肉球の手だ。
ふにふに、ふわふわとした感覚で、こりゃもうたまらん、と心春は目尻をさげる。
「……完敗です」
猫店長はさすがだなあ。
こんなに簡単にわたしのもやもやを吹き飛ばしちゃうんだもんなあ。
心春はふにゃりと身体を崩して、猫の姿へ戻った猫店長の顔へ頬ずりをした。
***
こんな素敵カフェを見つけたのは、十一月下旬だ。
出会いは──ゲリラ豪雨だった。
たとえばいまだ。
そんなときは──『吾輩カフェ』へ直行だ。
「店長―」
表通りをひとつ奥へ進んだ先のビルの一階。木製扉を開いて、心春は店先で寝ていたキジトラ猫をぎゅうっと抱きしめた。
「助けて猫店長―。研究室の教員も事務の会計もいいたい放題なの。こんなに頑張っているのに、なにひとつ解決しないし。それどころか頑張れば頑張るほど駄目が増えていくの」
「心春、苦しい」
「わたし、どうしたらいいんだろう。駄目なところが多すぎて、なにから手をつけたらいいのかわかんないよ」
「苦しいって」
「お願い猫店長。肉球を触らせて。ぷにぷにさせて。そうじゃないとストレスで圧死しちゃう」
「僕は──いま圧死しそうだよ」
猫店長は、シャアアッ、と低く威嚇音を出すと激しくもがいた。鋭い爪で心春の額をひと掻きする。「うひゃっ」と心春は手を離す。
はあもうまったく、と猫店長は床へ飛び降りて、ブルブルと背中を震わせる。そして人間へと変身をした。
「心春は毎度毎度にぎやかだね。抱きついてくれるのは歓迎だけど、手加減をしてほしいな」
身長百七十五センチくらい、バランスのとれた長身細身の体格で、スタイリッシュな白いシャツに黒のスラックス姿。アンニュイな面影の二十代前半男子の姿かたちだ。
毎回のことながら、惚れ惚れするほどの変わりっぷりだ。
「それにさ。なんどもいうけど、僕に愚痴られてもどうすることもできないよ」
「猫店長が聞いてくれるだけでも十分なの。肉球に触れたら幸せだし。いつだってわたしは猫店長のおかげで頑張れているんだよ」
「僕の肉球にそこまでのパワーがあったとは。嬉しいな」
「それだけじゃない。猫店長、お腹すいたよー。猫店長のご飯が食べたいよー。オムライスが食べたいよー」
「唐突だね。えっと、ライス、あったかな」
「ザンギ(北海道版からあげ)が食べたいよう」
「え? どっち? 両方とか?」
「大盛りの、もりもりカレーも食べたいよう」
「……心春、そんなに食べられないでしょう。一番なにが食べたいの?」
「お腹すいたよー」
「もう……子どもじゃないんだから。しょうがないなあ」
はああ、とため息をついて青年猫店長は立ちあがる。流れるような仕草でエプロンを身にまとうと厨房へと入っていった。
ほどなくバターの香ばしい匂いが漂ってきた。リズミカルな包丁の音に、玉ねぎを炒めるジュウジュウという音が続く。心春はうっとりと目を閉じる。まるで夢の中のような時間だ。いつまでも続くといいのに。そんなことを思いながら目を開けると、「はい、お待たせ」とカウンターテーブルに湯気の立つ皿が載った。
「カボチャとタラのクリームグラタンだよ。熱いから気をつけてね」
わあ、と心春の目が輝く。「いっただきまーす」とフォークを手に取る。本当に熱い。はふはふと熱を逃さないと口の中を火傷するほどだ。
でも手は止まらない。
ほっこり濃厚な味わいのカボチャに、ホクホクのブロッコリー。臭みのまったくないタラは、表面はカリッと中はふわふわだ。ベシャメルソースはあっさりとしていて、表面の濃厚なチーズを引き立てていた。いくらでも食べられる味わいだ。
「……おいひい(美味しい)」
口を開けて熱を放出し、心春はうっとりと半眼になる。
ああ……これだよ。力がみなぎるこの味わい。このおかげでわたしは毎日頑張れている。涙が出ちゃう。
「大げさだなあ」と青年猫店長は笑う。「ほら、これもお飲み。温まるから」とショウガとシナモンの効いたホッとココアをグラタンの脇へ置いた。
「あのね、心春。ウチはドリンクメニューがメインのカフェだよ。わかっているよね? 毎回スペシャルオーダーをされると困るんだよ」
「ごめんにゃさい(グラタンが熱くてちゃんと発音できない)」
「……で? 今日はどうしたって?」
心春は、そうだった、と我に返る。青年猫店長は心春の隣へ座る。その青年猫店長へ、「聞いて聞いて」と心春はフォークを持ったまま身体を向けた。
「昨日、ガスケットの話をしたでしょう?」
「金属の輪っかの話? 商品の品番がわからなくて困っていたってやつ」
「うんそれ。なんとか調べて、今朝発注したの。そうしたら教授が『やっぱりもうひと回り大きいヤツで』っていいだして。もう発注しちゃったっていっても『いまなら取り消せるから』っていい張って」
「取り消せたの?」
「……できたんだけど、わたし会計の人に『大急ぎの注文なんです』って最初にお願いしたの。もともとちょっと特殊な品番だったから、仕様書とかいろいろつけたの。それを取り下げたりなんだりで大騒ぎになっちゃって」
「あちゃ……」
「教授は『使えないものを買ってもしょうがないでしょ』って。そりゃそうなんだけど。注文変更より、新規に注文したほうのがはるかに楽なのに。さほど高額な商品じゃなかったし。……楽とかそういうことじゃないっていうのはわかるんだけど。なんだかなあって。急ぎの航空機手配とか旅費概算請求とかも立て続けにあったから、お昼ご飯も食べ損ねちゃった」
「だから腹ペコさんだったんだね」
「どうして必要なものを自分で発注しないのかなあ。自分でやれば確実なのに」
「心春のことを信頼しているんじゃないかな」
「面倒くさいだけじゃないかな」
「なんだ。理由はわかっているんでしょ」
「……猫店長って、ときどき容赦ない」
「猫だからねえ」
ふんだ、と頬を膨らませて心春はグラタンを頬張る。その心春の頬を「心春はいつも頑張っているねえ」と青年猫店長が撫でた。人間の指ではなかった。指先だけ猫に戻った肉球の手だ。
ふにふに、ふわふわとした感覚で、こりゃもうたまらん、と心春は目尻をさげる。
「……完敗です」
猫店長はさすがだなあ。
こんなに簡単にわたしのもやもやを吹き飛ばしちゃうんだもんなあ。
心春はふにゃりと身体を崩して、猫の姿へ戻った猫店長の顔へ頬ずりをした。
***
こんな素敵カフェを見つけたのは、十一月下旬だ。
出会いは──ゲリラ豪雨だった。

