吟遊のリンネ ~魔力ゼロのはぐれエルフっ娘が俺様天才魔導士に弟子入りしたら、勇者と魔王の戦う世界を変えることになった件~



世界の中心。
そのちょっとはずれ。


* * *



 奴隷商人が重厚な金属の扉を押し開けた。
 重い扉が動いた拍子に砂埃が舞い上がり、薄暗い地下牢の視界をことさら悪くさせる。
 商人に導かれた黒衣の男はフードを口元まで引き上げ、砂漠にある奴隷市場の洗礼を軽減しようとした。だが、黒曜石に紫を溶かし込んだような瞳は、地下牢に囚われているものをしっかりと見つめていた。

「こちらが……例の、エルフの少女にございます」

 奴隷商人は腸詰肉のように肥えた指を組み、せっせと揉み手しながら、黒衣の男に媚びた笑みを向けた。
 頑丈な格子の向こうでへたり込むように膝を抱えているのは、長い耳の金髪の少女。
 先端に独特の尖りを帯びた、人間よりも長いその耳は、地上では滅びゆく運命にある古代種族エルフの純血である証拠だった。
 彼女はその中でも、世界樹を守る使命に就く、この世のエルフ族で最も高貴なハイ・エルフの末裔だ。その事実を、細い肩にかかった長く豊かな黄金の髪が物語っている。
 少女は、囚われの身を憂うように目を伏せていた。埃っぽく光も差さない地下牢の空気の中で青い瞳はすっかり曇っている。
 黒衣の男は、黙ってその姿を見つめた。
 吟味しているのか、あるいはなんの魅力も感じていないということなのか。無感情とすら思える冷たいまなざしは、その男の顔立ちをより鋭く、端整なものに引き立てる。
 その視線に、商人は内心で焦りを膨らませた。
 なにせ、男の持つ商品の中で一番特別な価値を持つのがその少女である。
 ここで「買った」の一言を引き出せなければ、男の商売はあがったりだ。
 最近、この砂漠の都市エスメラのブラックマーケットで名を馳せる黒衣の男は、合法非合法を問わずレアアイテムを金に物を言わせて蒐集する好事家だった。しかも、男が悪名高いのは金遣いが荒いからではなく、気に入らない商品を見せてきた相手の店に魔法で火をつけるからだ。
 男はどうやら名うての魔導士らしい。誰も聞いたこともない呪文を唱えて、マフィアが後ろ盾についているような大店を次々と燃やしていったとか。
 そして、ついに男はこの奴隷商に金貨を握らせて特上の商品を見せるよう要求してきた。
 売り込みが成功しなければ、商売を潰される。そこで奴隷商は切り札を出すことにした。
 それがこのエルフの少女だ。

「エルフですが、魔法の使えん無能です。瘴気に満ちつつある世界樹の森では生存できないと放逐された、はぐれエルフというやつですな。群れの中で一番幼い子でした。どう見ても十才そこらですが、恐らく百才近いでしょう。ですが、ヒヒッ、群れでは子ども扱いだったようで……。どうぞ、こちらを何色に染めるのもご主人様次第と……フヒヒッ」

 卑しい笑みを伴って、セールストークを展開する。
 その言葉に、男は商人を神経質そうに横目で見た。
 商人はここぞと揉み手をしまくり、「後は言わんでもわかるでしょう」とばかりにしつこく目配せを送る。
 そして、その粘っこい視線を檻の向こうに向けると――、

「ほれッ! おめぇのご主人様になるかもしれねぇお人だ! めいっぱい愛想振りまいて、お買い上げいただくんだよッ! このメスガキ!!」

 口端から泡を飛ばし、少女を脅かす奴隷商。
 その浅ましい怒声を聞いて、黒衣の男の流麗な眉が静かにしかめられた。
 だが、彼が不快感を露わにする前に、少女の足首を繋ぐ鎖がじゃらん、と大きく響く。

「いーーーーーーーーっだ!!!! 人さらいの言うことなんか聞くかバーーーカ!!!!!」

 少女は身を乗り出すと、格子の中で口の端に指をひっかけ、大きく舌を出す。
 悲愴に見えた青い目はどこへか、今はぐりんぐりんと絶え間なく眼球を動かして白目を剥き続け、キーキー喚いて奴隷商人を嘲っている。さっきまでの、囚われの清楚な美少女といった面影はかけらも残っていない。

「べろべろべろ~~ん!! この世界一可愛いリンネちゃんは誰のものでもありましぇ~~~ん!! ハイ残念でした~~~!! 残念な人は残念村の残念なおうちにお帰りくださ~~~い!!!」

「………。」

「こ、ンッの!! メスガキエルフがぁ!!!」

 全力の変顔で罵倒された奴隷商の顔はみるみる真っ赤になった。
 怒りに駆られた男は、懐から小さく怪しげな宝玉を取り出すと、何事か呟いた。
 その瞬間、犬のようにべろべろと舌を振り回し、眼球をぐるぐる回し、サルのような奇声を発していた少女の身体に電流の鞭が走った。
 ビクンッ!と細い肩を震わせ、その場に蹲る少女。
 足枷は彼女の自由を奪うだけでなく、そこに彫られた呪文で身体さえ蝕む。

「い"っ…………っ!!」

「ふん、痛いのが嫌ならおとなしくするんだな、バカめ」

 自身の金髪の中に顔を埋めた少女は、首を振って悶え、痛みを堪えようと必死だ。
 最小限のうめき声だけで、命乞いの悲鳴すらあげない。人間で言えば十才ほど。まだエルフとしても未成熟で、先ほどの悪態のつき方を見ていると、苦痛に耐えきれず、喚き散らしていてもおかしくはない。
 だが、少女は己を守る勇気をすでに持っていた。
 一連の虐待を見ていた黒衣の男は、つまらなそうに目を細めると、ゆったりとローブを翻した。

「この商品を買う気はない」

 吐いて捨てるような響きの台詞に、奴隷商人は動揺もあらわに聞き返した。

「そ、そそ……そんな、旦那さまぁっ!! あのエルフでございますよっ! 魔法で反抗もできない、弱くて無能な、処女のメスガキでございます!! こんな逸品、エスメラどころか帝国の一流奴隷商だって――……」

「お前のセールストークは壊滅的だな」

 黒い外套に取りすがるような勢いで近づく男を、黒衣の美丈夫は倦厭するように一瞥すると、薄い唇でとどめの言葉を放った。

「それから……俺は倹約家でな。奴隷なんて、まともに金を出して買うやつはただの馬鹿だ」

「は……っ!?」

 急に商売を全否定され、うろたえる奴隷商。
 黒衣の男は歩きながら突然片手を宙に掲げた。彼の長く硬質な指には多様な宝石の指輪が嵌っていて、彼はそれを反対の指でひとつ、もぎ取った。
 赤い血の凍ったようなルビーをつまみ、何かを唱えた。それは人の言葉ではない。〝石の言葉〟だ。
 奴隷商が悲鳴をあげた。男が手にした宝石が狂ったようにかがやきを放つと、跡形もなく砕け散り、男の太い指を傷つけ血を流させた。
 かちり、と少女の足首に嵌っていた枷が鍵もなく外れる。
 彼女は不思議そうに頭を上げ、格子の向こうを見た。
 すると、鉄格子は炉に入れられたかのようにぐにゃぐにゃと形を変え、少女に頭を垂れるように折れ曲がった。
 自由を前にして、少女はきょとんとまばたきをする。
 かたわらでは手から血を流し、蹲る奴隷商。さらに前方に目をやると、夜のように黒い外套に身を包んだ、魔術師の男がこちらを見ている――。

「外に出るぞ――〝リンネ〟」

 突然自分の名を呼んだその男に、リンネは一瞬かすかに臆したような顔色を浮かべた。
 だが、その顔はすぐにむっと反抗的な表情に変わる。折れ曲がった格子を、小鹿のような軽やかな足で乗り越え、呻く奴隷商をわきに、彼の背中を目指して、歩き出す。

「ほかの捕まってる人たちも解放しなきゃ、ついてかない!」

 黒衣の男は舌打ちした。

「……普通に買った方が手っ取り早かったかもな……」

「あーっ! やっぱりお前も人でなしなんだっ! わたし、人でなしになんかついてかない!!」

 二度目の舌打ち。

「どうせ最後は火をつけるつもりだった。順番が変わっただけか……まったく」

 そう呟いて、男は今度はルビーに向けて一言ささやいた。
 堅牢な石でできた砂漠の建造物は、その指輪に飾られた宝石の意のままだ。
 地響きが鳴って、巨大な地下牢が縦に横に揺れる。地下の天井の上から、岩が崩れる音がひっきりなしに続いた。
 あちこちから悲鳴が起きて、同時に、叛乱を知らせる怒声が響き渡る。
 だが、どれだけ建物が崩落しても、ルビーの守りによって黒衣の男と少女の身体には石の礫ひとつ飛んでこない。
 鋼の厚い扉を抜けて、整列したままの階段を上っていくふたつの足音。
 天井から降ってきた岩に退路を塞がれ、今度は自らが地下牢に囚われの身となった奴隷商は、血を流したまま茫然とその姿を見送っていた。
 それは、もはや並みの魔術ではなかった。あんな術を使う魔導士は見たことがない。
 かつて、強大すぎて滅ぼされたと言われる古代魔術か、魔性と取引して禁忌の力を得た外法の魔導士か――。
 だが、聞いたことがある。十年前、魔王を倒した勇者のもとに、ひとりの魔術師がいた。故あって勇者は罪人として裁かれたが、魔術師は出奔したのち、どこの国にも留まらず裏の社会で暗躍しているとか。

 まさか……あの男は……。

 崩落する地下牢の中で、男は息を呑んだ。
 すべては地響きとともに崩れ去る。
 これが砂の都市、エスメラが誇る最大の奴隷市の迎えた最後の夜だった。