「先生、今日はお酒買ったんですね」
「うん。なんか飲みたい気分だったんだ。明日休みだし」
「俺は夜勤ですし、ゆっくり飲めますね」
 南がスーパーで買ったものを袋から取り出しながら口角を釣り上げる。なんか良からぬ事を企んでるのか? と勘ぐりたくなってしまった。


「南って酒強いの?」
「結構強いほうだと思います。先生は?」
「俺は下戸だよ」
「え? じゃあなんでビール買ったんですか?」
「いつも一本飲みきれないんだけど、取っておくわけにはいかないし、捨てるのも勿体ないじゃん? でも今日は南がいるから残しても飲んでくれるだろ? ……ん? なんだよ?」
 隣でニコニコ嬉しそうにしてる南にびっくりしてしまう。
「なんでそんなにニコニコしてんだ?」
「だって、先生が南って呼んでくれるようになったから……」
「あ、ごめん」
 南に言われて初めて彼を呼び捨てにしていたことに気付く。いつからだろう。あまりにも自然な変化で全く気づかなかった。
「俺はむしろ嬉しいです。先生と仲良くなれた気がして」
「あぁ、そうかよ」
 フニャリと目尻を下げる南から、思わず視線を背けた。
「くだらないこと言ってないで、早くじゃがいもの皮剥いてよ。俺は人参切るから」
「はいはい。って、えぇ!? 先生カレーの具材そんなにデカく切るんですか?」
「カレーの具はデカいほうが美味いだろう?」
「それにしてもデカすぎます!」
「これでいいんだよ」
 俺の手元を覗き込んで文句を言う南。でもこんなくだらないやり取りが楽しく感じる。心が擽ったくて……胸が、柄にもなく甘く締め付けられた。
「これからも俺とカレーを食べたいなら、デカい具にも慣れなさい」
「え? は、はい! 俺、デカい具のカレーも大好きです!」
「プハッ! 都合良すぎだろう」
「俺、先生とまたカレー食いたい。だから人参丸ごと入れてもいいですよ」
 やっぱり南は大きな犬だ。尻でシッポがブンブンと揺れているように見える。頭をクシャクシャッと撫でてやれば、嬉しそうに目を細めた。
「こんなんじゃ、北川さんから教わった隠し味……忘れちゃいそうだよ」
 自然と上がってしまう口角をキュッと結んで、包丁を握り直した。


「なぁ、これ本当に全部入れていいのかな?」
「でも、有名なホテルのシェフが言ってたんですよ? 絶対美味しくなるに決まってます」
「なんか混ざりきらなくて分離して……沼みたいになりそう……」
「そんな、沼って……」
 二人して北川さんの教えてくれた隠し味を見て呆然としてしまう。
 本当に大丈夫かな……と、考えを巡らせていれば、南が意を決したように口を開いた。
「もう、入れちゃいましょう!」
「え、ちょっと南!」
「ほら、先生も入れてくださいよ」
「う、うん!」
 少し躊躇ってから隠し味を次々に鍋に放り込む。まるで魔法薬を作っている魔女の大釜みたいで笑えてきた。
「あははは! 変な色になってきた!」
「マジで先生、北川さんに失礼ですから!」
 カレーを作るだけでこんなに楽しいだなんて、本当に頭がイカれてる。
 でも楽しくて仕方ない。
 ふと、子供の頃に買ってもらったお菓子を思い出した。様々な色の粉末に水を混ぜて更にトッピングして、色が変わって……あの時みたいにドキドキする。
 大の野郎二人が何やってんだよ、って思うけど。久しぶりに腹の底から笑った気がした。
 あー、涙が出てくる。


 リビングの床に二人で並んで座る。目の前のテーブルには湯気をたてている出来立てのカレー。南が美味しそうなサラダまで作ってくれた。
「いただきます」
 こうやってきちんと挨拶をする南に好感がもてた。きちんとご両親が躾をしてくれたのが伝わってくる。いい子だな、って思えた。
 恐る恐るパクッと一口カレーを頬ばれば……言葉を失ってしまった。
「美味い! 南、これめちゃくちゃ美味いぞ!」
「本当だ! マジで美味いですね」
 お互い顔を見合わせて笑ってしまう。あんなに疑ってしまった北川さんに申し訳ないようだ。
 ビールを開けて乾杯すれば、更にカレーが美味しく感じられる。
 腹が減ってるからカレーがこんなに美味いのかな?
 それとも……。
 目の前では南が笑いながら色んな話をしてくれる。その穏やかな声色が心地いい。
 幸せだな。こんな時間がずっと続けばいいのに……。


「先生」
「ん?」
「先生、酔っ払ったんですか? 顔が真っ赤」
「え、だ、大丈夫だよ」
「もう駄目です」
 照れ隠しにビールを口に含もうとした手を、南にギュッと掴まれてしまう。
「これは没収です」
 顔を覗き込んでくる南も相当酔っているのかもしれない。目元が赤く染まり、切れ長の目にうっすら涙が浮かんでいる。その色気にクラクラと目眩がしそうだ。
「このビールは俺がいただきます」
「え?」
 俺からビールを奪い取るとゴクゴクと勢いよく飲み始める。ビールが喉を通る度に動く喉仏が男らしくて、体がどんどん火照り始めた。
「ふふっ。間接キス、ですね……」
「みな、み……」
「俺、先生とキスしたい……」
 ペロッと自分の唇を舐めた後、フワリと南の長い指先が俺の唇に触れる。そのまま輪郭をなぞられて……髪の毛が逆立つほど気持ちが高揚してしまった。


「先生、好き。ねぇ、好きです」
「南、お前のが酔ってるじゃん!」
「だって楽しかったから。先生と一緒にカレー作って、お酒飲んで……幸せだった」
 その言葉に胸がキュッと締め付けられる。
 幸せだって思っていたのは、俺だけじゃなかったんだ。
「先生……」
「おい、こら! 調子に乗りすぎた!」
「ふふふッ」
 甘えたように体を寄せてくる南を引き離そうとしたけど、あまりにも馬鹿力で抱きついてくるものだから諦めた。
 本当にこいつは大きな犬だ……。
 もう一度頭を撫でてやれば気持ちよさそうに目を閉じた。
「先生、膝枕して……」
「こら、寝るならベッド行け! ベッド使っていいから」
「ここがいいです。先生の膝枕がいい……」
「お前が良くても俺は……はぁ……」
 俺の言葉なんて全然聞いてない。南はスースーッと穏やかな寝息をたてながら眠ってしまった。
「こいつ、起きたら文句言ってやる。足が痺れて大変だったんだぞって」
 でも……。
 美味しいカレーができてよかった。