弧月に予知のことを伝えられていないと知ったのは、完全に日が落ちてからのことだった。
どうやら時雨からもたらされた情報はすぐに対処しなければいけないことだったらしく、あの後彼は都を出たのだそうだ。
鬼をも上回る力を持つ最強の妖狐である弧月ならば、やるべきことが終わればすぐに都に戻って来られるとのことだったが……。
「申し訳ございません。私の風に声を乗せる術の伝達では、都の中が限界でして……」
目に見えて落ち込んでいる小夜に、美鶴は慌てて首を横に振った。
「謝らないで、もとはと言えば私が弧月様にお会いしたときしっかりお伝えしていなかったのが悪いのだから」
そうだ、確実に伝えられたはずの時間だったというのに、帝の仕事に遠慮して伝えなかったのは自分の落ち度だ。
何よりも大切な、愛しい我が子の危機だというのに。
いつも凛としている小夜が、自責の念故か表情を硬くしている姿を見るとより申し訳なくなる。
だが、落ち込んでいても状況は変わらない。千鬼丸を守るための行動をしなくては。
(まずはできる限り早く弧月様に伝えること。あとは、千鬼丸をあの木に近付けないことが大事だわ)
切り替えた美鶴は思考を巡らせ今できることを決めてゆき、小夜や灯、香たちに指示を出していった。
だがその夜、危惧していたことが起こってしまう――。
皆が寝静まってしまう夜は、常に千鬼丸の様子を見ていることが難しい。
大人同様朝までぐっすりと眠ってくれるのならば問題ないが、赤子は夜泣きをするのだ。
生まれたての頃に比べると千鬼丸の夜泣きは随分と落ち着いたが、それでも一晩に一度か二度は目を覚ます。
今までは夜中目を覚ましても弘徽殿から出ていくことはなかったが、今は美鶴の予知がある。弧月に予知の内容を伝えることができていない今はより慎重にしなければいけなかった。
なので、しばらくは小夜と灯、香が交代で起きていて千鬼丸を見てくれることとなったのだが……。
「も、申し訳ありません! 私が樋殿へ行かなければ……」
「いいえ! 私が香が戻ってくるまでしっかり御子様を見ていればよかったのです」
夜更けに小夜に起こされ、静かに、しかし焦りを含ませた声で千鬼丸の姿が見えないことを知らされた。すぐに探しに行くと決断した美鶴は、上に着るものを小夜に用意してもらいながら詳しい状況を灯と香から聞いていた。
どうやら、千鬼丸を見守る役割を交代するときに事は起こったらしい。
灯と交代した香は用を足しに場を離れ、灯は千鬼丸の御襁褓を替えたのだという。
千鬼丸は御襁褓を替えた後はまた目を閉じ眠った様子だったため、灯は汚れた御襁褓を御簾の外へ置きに少しだけ千鬼丸から離れた。そして戻ってきたころにはいなくなっていたとのことだった。
「本当にっ、申し訳……ひっく」
「ごめんなさいぃー……」
灯も香も、狐の耳としっぽをふるふると震えさせ涙をぽろぽろと零し始める。
「落ち着いて二人とも。香、樋殿に行くのを耐えるのは良くないわ。それに灯だって千鬼丸の御襁褓を処理していただけなのでしょう?」
責任を感じて泣き続ける二人を落ち着かせながら、美鶴は小夜に用意してもらった単衣を重ねたものを着せてもらう。
これだけではまだ寒いが、千鬼丸を探すために動き回るのだ。あまり厚着してしまうと動きづらくなる。
「とにかく、灯と香はもう一度弘徽殿の周囲を探してちょうだい。私と小夜は……あの木のところに行ってみるわ」
夜にいなくなったとなれば、やはり気になるのは朝見た予知だ。
千鬼丸の危機として視た予知ならば、一番危険なのはあのもみの木の近くだろう。
指示を出し終えた美鶴は、すぐに小夜と紫宸殿の方へ向かった。
「小夜、弧月様は都に戻られたかしら?」
足早に進みながら、小夜が宿直の者に子細を伝えたと報告してきたので聞いてみた。
弧月が都に入っていれば、小夜の風の伝達でこのことを報告できる。知ったならば、弧月は文字通り急ぎ飛んでくるだろう。
だが、小夜は形の良い眉を困ったように下げた。
「主上には真っ先にお伝えいたしましたが、何分私の伝達は一方通行のため……主上へ届いているかは分からないのです」
だから都に戻っているのかも分からないと小夜は告げる。
予知のことを知らせるために人を使わしてはいるが、そちらもどこで接触できるのかは分からない、と。
「そう……」
美鶴はできる限り焦燥を隠すよう短く返した。
運命をねじ伏せるという弧月を介さなければ予知は変えられない。美鶴は予知の内容が今でなければいいと、節に願った。
だが、願いはすぐに砕け散ることになる。
紫宸殿の廊についてすぐに見えた南庭の端にある灯り。例のもみの木があった場所が、赤い光に包まれていた。
見覚えのある色にまさかと考える美鶴の耳に、小夜の呟くような声が届く。
「なぜ? このような時刻に火を点けるわけがないのに」
都にとって火は危険だ。木や紙でできている建物や調度品が多いため、すぐ燃え広がる。だからこそ、取り扱いには注意を払う。
このような、宿直の者以外が寝静まっているような時刻に、遠目でも分かるような火を灯すことなどありえない。
嫌な予感に更に足を速めた美鶴は、履物も履かず南庭へ出た。
「っ! 千鬼丸!」
思わず、絶望に近い思いで叫んだ。
なぜなら、目の前の光景は予知で視たものそのものだったのだから。
赤い火に包まれた木の下で、無邪気に笑う愛らしい赤子の姿。
なぜ千鬼丸がここへ来たのかは分からない。
なぜ点いているはずのない、木に括り付けられた蝋燭に火がついているのかも分からない。
なにもかも分からないが、美鶴の行動だけははっきりしていた。
(木から、離さなければ)
大事な我が子を守るため、美鶴は走った。
そんな美鶴の側を風が駆け抜ける。
「美鶴、千鬼丸!」
声に少し遅れて、愛しい人の姿が見えた。
どこかで伝達が届いたのだろう。美鶴の夫であり、千鬼丸の父である弧月がそこにいた。
「弧月様!」
千鬼丸を助けようと、美鶴より先を走るその背を見て安堵したのも束の間。
バキリ、と枝の折れる音が響き、蝋燭のついた枝が千鬼丸めがけて落ちてきた。
「っ――」
悲鳴が喉元までせり上がり、息が止まる。
予知の内容を弧月に伝えるのが、ここまでぎりぎりになったことはない。
今回は、間に合ったと言えるのだろうか。
美鶴はその瞬きひとつほどの短い間に、間に合っていて欲しいと強く願った――のだが。
「だーぁう!」
弧月や、美鶴の後について来た小夜が千鬼丸を助けるために何かをする前に、その千鬼丸が落ちてきた蝋燭のついた枝を見上げ、小さな手を上げた。
その手を軽く振った次の瞬間、そこから赤い炎が現れ枝に向かっていき、当たった枝は軌道が逸れ、炎に焼かれ燃えながら別の場所へと落ちてゆく。
「……は?」
誰かの呆気にとられたような声が聞こえた。
もみの木の灯りを見ながらきゃっきゃとはしゃいでいる千鬼丸以外が沈黙する中、そんな声を漏らしたのは誰だったのだろう。誰なのか分からないほど、美鶴も『は?』と声を出したいくらい呆けていた。
そんな中から一番早く気を取り直したのは小夜だ。
「素晴らしいですわ、御子様。早くもお力を使えるとは」
小夜の明るい声にはっとし、同時に理解する。
そうだ、今の光景はまさに千鬼丸が妖力を使ったという状況ではないか、と。
(……でも、早くはないかしら? 以前小夜は、妖の赤子は三つから五つの頃に力を使い始めるのだと言っていたような?)
千鬼丸は生まれてからまだ一年も経っていない。疑問に思いながらも、美鶴は足を進め千鬼丸のもとへ向かった。
どうやら時雨からもたらされた情報はすぐに対処しなければいけないことだったらしく、あの後彼は都を出たのだそうだ。
鬼をも上回る力を持つ最強の妖狐である弧月ならば、やるべきことが終わればすぐに都に戻って来られるとのことだったが……。
「申し訳ございません。私の風に声を乗せる術の伝達では、都の中が限界でして……」
目に見えて落ち込んでいる小夜に、美鶴は慌てて首を横に振った。
「謝らないで、もとはと言えば私が弧月様にお会いしたときしっかりお伝えしていなかったのが悪いのだから」
そうだ、確実に伝えられたはずの時間だったというのに、帝の仕事に遠慮して伝えなかったのは自分の落ち度だ。
何よりも大切な、愛しい我が子の危機だというのに。
いつも凛としている小夜が、自責の念故か表情を硬くしている姿を見るとより申し訳なくなる。
だが、落ち込んでいても状況は変わらない。千鬼丸を守るための行動をしなくては。
(まずはできる限り早く弧月様に伝えること。あとは、千鬼丸をあの木に近付けないことが大事だわ)
切り替えた美鶴は思考を巡らせ今できることを決めてゆき、小夜や灯、香たちに指示を出していった。
だがその夜、危惧していたことが起こってしまう――。
皆が寝静まってしまう夜は、常に千鬼丸の様子を見ていることが難しい。
大人同様朝までぐっすりと眠ってくれるのならば問題ないが、赤子は夜泣きをするのだ。
生まれたての頃に比べると千鬼丸の夜泣きは随分と落ち着いたが、それでも一晩に一度か二度は目を覚ます。
今までは夜中目を覚ましても弘徽殿から出ていくことはなかったが、今は美鶴の予知がある。弧月に予知の内容を伝えることができていない今はより慎重にしなければいけなかった。
なので、しばらくは小夜と灯、香が交代で起きていて千鬼丸を見てくれることとなったのだが……。
「も、申し訳ありません! 私が樋殿へ行かなければ……」
「いいえ! 私が香が戻ってくるまでしっかり御子様を見ていればよかったのです」
夜更けに小夜に起こされ、静かに、しかし焦りを含ませた声で千鬼丸の姿が見えないことを知らされた。すぐに探しに行くと決断した美鶴は、上に着るものを小夜に用意してもらいながら詳しい状況を灯と香から聞いていた。
どうやら、千鬼丸を見守る役割を交代するときに事は起こったらしい。
灯と交代した香は用を足しに場を離れ、灯は千鬼丸の御襁褓を替えたのだという。
千鬼丸は御襁褓を替えた後はまた目を閉じ眠った様子だったため、灯は汚れた御襁褓を御簾の外へ置きに少しだけ千鬼丸から離れた。そして戻ってきたころにはいなくなっていたとのことだった。
「本当にっ、申し訳……ひっく」
「ごめんなさいぃー……」
灯も香も、狐の耳としっぽをふるふると震えさせ涙をぽろぽろと零し始める。
「落ち着いて二人とも。香、樋殿に行くのを耐えるのは良くないわ。それに灯だって千鬼丸の御襁褓を処理していただけなのでしょう?」
責任を感じて泣き続ける二人を落ち着かせながら、美鶴は小夜に用意してもらった単衣を重ねたものを着せてもらう。
これだけではまだ寒いが、千鬼丸を探すために動き回るのだ。あまり厚着してしまうと動きづらくなる。
「とにかく、灯と香はもう一度弘徽殿の周囲を探してちょうだい。私と小夜は……あの木のところに行ってみるわ」
夜にいなくなったとなれば、やはり気になるのは朝見た予知だ。
千鬼丸の危機として視た予知ならば、一番危険なのはあのもみの木の近くだろう。
指示を出し終えた美鶴は、すぐに小夜と紫宸殿の方へ向かった。
「小夜、弧月様は都に戻られたかしら?」
足早に進みながら、小夜が宿直の者に子細を伝えたと報告してきたので聞いてみた。
弧月が都に入っていれば、小夜の風の伝達でこのことを報告できる。知ったならば、弧月は文字通り急ぎ飛んでくるだろう。
だが、小夜は形の良い眉を困ったように下げた。
「主上には真っ先にお伝えいたしましたが、何分私の伝達は一方通行のため……主上へ届いているかは分からないのです」
だから都に戻っているのかも分からないと小夜は告げる。
予知のことを知らせるために人を使わしてはいるが、そちらもどこで接触できるのかは分からない、と。
「そう……」
美鶴はできる限り焦燥を隠すよう短く返した。
運命をねじ伏せるという弧月を介さなければ予知は変えられない。美鶴は予知の内容が今でなければいいと、節に願った。
だが、願いはすぐに砕け散ることになる。
紫宸殿の廊についてすぐに見えた南庭の端にある灯り。例のもみの木があった場所が、赤い光に包まれていた。
見覚えのある色にまさかと考える美鶴の耳に、小夜の呟くような声が届く。
「なぜ? このような時刻に火を点けるわけがないのに」
都にとって火は危険だ。木や紙でできている建物や調度品が多いため、すぐ燃え広がる。だからこそ、取り扱いには注意を払う。
このような、宿直の者以外が寝静まっているような時刻に、遠目でも分かるような火を灯すことなどありえない。
嫌な予感に更に足を速めた美鶴は、履物も履かず南庭へ出た。
「っ! 千鬼丸!」
思わず、絶望に近い思いで叫んだ。
なぜなら、目の前の光景は予知で視たものそのものだったのだから。
赤い火に包まれた木の下で、無邪気に笑う愛らしい赤子の姿。
なぜ千鬼丸がここへ来たのかは分からない。
なぜ点いているはずのない、木に括り付けられた蝋燭に火がついているのかも分からない。
なにもかも分からないが、美鶴の行動だけははっきりしていた。
(木から、離さなければ)
大事な我が子を守るため、美鶴は走った。
そんな美鶴の側を風が駆け抜ける。
「美鶴、千鬼丸!」
声に少し遅れて、愛しい人の姿が見えた。
どこかで伝達が届いたのだろう。美鶴の夫であり、千鬼丸の父である弧月がそこにいた。
「弧月様!」
千鬼丸を助けようと、美鶴より先を走るその背を見て安堵したのも束の間。
バキリ、と枝の折れる音が響き、蝋燭のついた枝が千鬼丸めがけて落ちてきた。
「っ――」
悲鳴が喉元までせり上がり、息が止まる。
予知の内容を弧月に伝えるのが、ここまでぎりぎりになったことはない。
今回は、間に合ったと言えるのだろうか。
美鶴はその瞬きひとつほどの短い間に、間に合っていて欲しいと強く願った――のだが。
「だーぁう!」
弧月や、美鶴の後について来た小夜が千鬼丸を助けるために何かをする前に、その千鬼丸が落ちてきた蝋燭のついた枝を見上げ、小さな手を上げた。
その手を軽く振った次の瞬間、そこから赤い炎が現れ枝に向かっていき、当たった枝は軌道が逸れ、炎に焼かれ燃えながら別の場所へと落ちてゆく。
「……は?」
誰かの呆気にとられたような声が聞こえた。
もみの木の灯りを見ながらきゃっきゃとはしゃいでいる千鬼丸以外が沈黙する中、そんな声を漏らしたのは誰だったのだろう。誰なのか分からないほど、美鶴も『は?』と声を出したいくらい呆けていた。
そんな中から一番早く気を取り直したのは小夜だ。
「素晴らしいですわ、御子様。早くもお力を使えるとは」
小夜の明るい声にはっとし、同時に理解する。
そうだ、今の光景はまさに千鬼丸が妖力を使ったという状況ではないか、と。
(……でも、早くはないかしら? 以前小夜は、妖の赤子は三つから五つの頃に力を使い始めるのだと言っていたような?)
千鬼丸は生まれてからまだ一年も経っていない。疑問に思いながらも、美鶴は足を進め千鬼丸のもとへ向かった。



