小鳩洋菓子店の純愛

「オレ、先輩のことが好きです」
 目の前に座るモデル雑誌から抜け出たようなイケメンが真剣なまなざしでそんなことを言ったので、オレは思わずその端正な顔を三度見した。先輩。先輩って誰だ。オレのことかそうなのか。
「オレのことが……好き?」
「はい」
 おそるおそる確認すると眼前の彼は一切の迷いなくうなずいた。言い間違いでもなければ聞き間違いでもなかったようだ。そっか、えーと、でもあのねオレの勘違いじゃなければね。
「あなたが好きです。オレの恋人になってくれませんか、小鳩(コバト)トウマ先輩」
 ここは放課後の体育館裏でもなければメッセージツール上の親密なやりとりでもなくて。

 アルバイトの採用面接の真っ最中のはずなんですが。



 私鉄駅の改札を出てから徒歩五分。駅前の一等地に陣取る銀行やファミレスやコンビニを横目に見ながらしばらく歩いて、小さな花屋の角を曲がったすぐ右手側に『小鳩(コバト)洋菓子店』はある。
 営業は火曜から土曜の十時から十八時。四つ葉のクローバーをくわえたハトをかたどった銅製の看板を見上げてレトロなオーク調デザインの扉を押し開けると、目に入るのは色とりどりの洋生菓子が並ぶ二段の冷蔵ショーケース。目を引く一番人気はやっぱり赤いイチゴのショートケーキで、定番のモンブランやフルーツタルトやチーズスフレ、蒸しプリンやエクレア、それに壁際の棚をいろどるサブレやマドレーヌなんかの焼き菓子も根強い人気だ。今の季節は、初夏らしく柑橘類やマスカットを使ったケーキも機を逃さずといった風情で色鮮やかに並び始める。
 テレビや雑誌にしょっちゅう取り上げられるような派手な店構えではないけれど、地元のタウン誌にはときどき取材を受けて掲載されたりもする。近隣住民が子どもの誕生日ケーキを注文するならここ。仕事帰りのビジネスマンが自分へのちょっとしたご褒美に立ち寄るならここ。お盆に仏壇にお供えする焼き菓子の詰め合わせを調達するならここ。そんな地元密着型のささやかで小さなケーキ屋さん、それがここ『小鳩洋菓子店』だ。そしてオレはこの店のひとり息子で、店舗兼住宅のこの建物の二階に母さんとふたりで住んでいる。

 十年前に先代のオーナーパティシエだった父さんが急死して、製菓学校の同期で自身も菓子職人だった母さんは店を続けるかずいぶん悩んだらしい。土地家屋はテナントではなく自分たちのもので借金というほどのものはなかったけれど、二馬力だった今までと違って自分の腕一本で果たして経営をやっていけるのか。店をたたんでどこか別の店に職人として就職した方が安定するのではないか。思い悩む母さんに決断させたのは、当時七歳のオレの言葉だったらしい。
「オレ大きくなったらママと一緒にお店やる。だからそれまでこのお店を守ってほしい」
 そのセリフに背中を押されて、母さんは店を続けることを決意した。そしてそれから早十年。高校二年生になったオレは、その約束を果たすべく今日も店の手伝いに奮闘している。

 ケーキ類をはじめとする洋生菓子の製造は母さんが全面的に担当していて、厨房とドア一枚でつながっている売り場には夕方までは近所の主婦コバヤシさんがパートで入ってくれている。そしてオレが帰ってきてからはオレが売り場担当だ。今日も授業が終わるなりダッシュで帰宅して、店の裏口から入り二階の自室に駆け込んだ。手を洗って顔も洗って、それから高校の制服を脱いで店の白い制服に手早く着替える。コバヤシさんのパートは十六時までだから交代はいつもぎりぎりで、オレは二階から階段をまっすぐ駆け下りて店の売り場に飛び込んだ。厨房で白く光る生クリームをたっぷり絞ったホールケーキをナイフで手際よくカットしている母さんに「ただいま!」と叫ぶと、母さんは「おかえり」とマスクの下で笑ってビニール手袋に包まれた右手をガラスの壁越しに振った。
「あら、トウマぼっちゃん。今日も時間きっちりですね。感心ですけどそんなに急がなくても、アタシは十分や二十分の残業はオマケしますよう」
 駆け足ですべりこむように到着したオレを見て、丸顔のパート主婦コバヤシさんは目を細めて豪快に笑った。
「ぼっちゃんはやめてってば、コバヤシさん」
 不本意な呼び名に苦笑いしていると、厨房から「こらこらコバヤシさん。トウマが遅刻したら残業分はきっちり付けてくれなきゃ私が困るわよー」という母さんの笑い声が飛んできたので、オレは憤然と言い返す。
「遅刻なんてしたことないから」
「でもほら、ぼっちゃんだってお年頃ですから。放課後に友達や彼女と遊びたい日もあるかもしれないでしょ」
「ないってば。友達とは学校で会えてるし。彼女は別にいらないし」
「あらま、もったいない。ぼっちゃんイケメンなのに」
「そんなこと言ってくれんのコバヤシさんだけだよ」
 日本人男性の平均からするとやや小柄な164センチの身長と母さん似の童顔。『かわいい』とからかわれたことはあっても『かっこいい』と言ってもらえた記憶はほとんどない。そんなオレを『イケメン』の範疇に入れてくれる唯一の人コバヤシさんは、「アタシの娘がまだ小学生じゃなけりゃお嫁さん候補にするのにねえ」なんて軽口をたたきながらさくさくと引き継ぎを済ませた。壁の鳩時計を見上げて「じゃあそろそろ」と挨拶をしてスタッフルームに消えていく。よし、ここからはオレのターンだ。ショーケースの中に宝石のように並ぶつやつやしたケーキをざっと見て今日のラインナップを把握してから、レジ周りを軽く掃除する。そうしていたらカランと乾いた音を立てて、扉につけたカウベルが鳴ったのでオレは顔を上げた。
「いらっしゃいませー!」
 元気な声を投げると、レトロな手動のドアを開けて顔を覗かせたのは思いのほか若い男だった。同世代、高校生かなと思いながら営業スマイルをキープしたまま見ていたら、長身を滑り込ませるように店の中に入って来たのはやはり制服姿。しかもオレと同じ高校の制服だ。行き帰りに時間がかからず、店の手伝いをするのに好都合だからという理由だけで選んだ地元の公立高校はここから歩いて数分程度。だからうちの高校の生徒がこの店に立ち寄ること自体は不思議というほどではない。けれどクラスメイトや友人たちはこういうテイクアウト専門のケーキ屋ではなく、駅前のチェーンのドーナツ屋かファミレス、ファーストフード店なんかに居座り目当てで行くことが多いようだから珍しいといえば珍しい。
 見慣れた紺色のブレザーにグレーのスラックス。そしてネクタイの色が赤ということは一年生か。オレは二年生だから一学年下の後輩にあたる。まあもし同じ学年なら知らないはずがないなと思ったのは、その彼が一度見たら忘れられないほどに綺麗で整った顔立ちをしていたからだ。
 少し色の薄い茶色の髪。長身に見合う長い手足。そして大きくて目力の強い瞳がまっすぐにオレをとらえたかと思うと形のいい唇が開かれた。
「お電話した鷲沢(ワシザワ)イツキです。バイトの面接に来ました」
「へ? バイト?」
 淡々と言われて目を丸くしていると、厨房から母さんの慌てた声が飛んでくる。
「あっそう! そうなのよ! いらっしゃい鷲沢君。そこの椅子に座って少し待っていてくれる?」
「はい」
 母さんの言葉に素直にうなずいて、鷲沢イツキと名乗った彼は店の隅に置かれたテーブルつきの椅子にすとんと腰かけた。地方配送を希望するお客さんに伝票を書いてもらうための席だけど、鷲沢イツキは制服のスラックスに包まれた足が長すぎてテーブルの下で持て余しているようだった。年下のくせに身長が180センチはありそうで、その低体温気味な落ち着き払った態度といい、なんか全体的に生意気そうな奴だなとオレは失礼な感想を抱く。
「母さ、じゃなかったオーナー! これって」
「トウマ! ちょっとこっち来て」
「言われないでも行くって。どういうこと」
 絞りかけのクリーム袋をステンレスの作業台の上に置いて、母さんがガラス越しに手招きしている。オレはドアを押して厨房に入った。
「バイト募集なんかいつしてたんだよ。聞いてないんだけど」
「ごめんごめん」
 鷲沢イツキに聞こえないようにと一応声のボリュームを落としながらも、蚊帳の外にされてふくれるオレに母さんは顔の前で申し訳なさそうに片手を立てた。
「うちを時々載せてくれてるタウン誌の記者さんに、サイト広告出せないかって頼まれちゃって。まあ地元の付き合いもあるしお店の宣伝ついでにチラッとバイト募集の広告も出してみたのね。そしたら鷲沢君がすぐに電話してきてくれて」
「バイトなんていらないよ。コバヤシさんとオレがいるのに」
「だってトウマあなた、このままずっと販売やってたいわけじゃないんでしょう」
 腰に手を当てた母さんのセリフにオレは言葉に詰まった。
「今も時間外に焼き菓子の仕込みはやってくれてるけど。売り場に販売専門のバイトさんが入ってくれたら、トウマも私と一緒に営業時間内に厨房入れるじゃない。生菓子教えてあげるわよ」
「……確かに」
 販売ももちろん経営の勉強にはなる。だけどオレの夢は父さん母さんと同じくらい立派なスーパーパティシエになることだから、やっぱりできるだけ厨房に入りたい。厨房に入ってもっといろんなお菓子を作りたい。
「だからって、オレに黙って募集しなくてもさ」
 まだぶつぶつ言っていると、母さんは「トウマに隠すつもりは全然なかったのよ、そんな必要もないし。忙しくて抜けてただけ。ごめんね」と言った。
「仕方ないなあ」
 母さんの『忙しくて抜けてた』はもはや日常茶飯事だからオレも慣れたものだ。
「で、面接って」
「うん私がやる、けど、ああタルトがあと三分で焼けちゃう。どうしよう」
 天井まで届く業務用の馬鹿でかいオーブンに表示されたタイマーを見て慌てる母さんに、オレはため息をついた。
「オレやるよ。いい?」
「ありがとう、助かるわ。あとで私も挨拶に出るから。地元のお客さんでもあるんだから失礼のないようにね。シフトの希望は電話で聞いてていつでも入れるってことだから、あとはあなたとの相性次第かな」
「オレとの相性?」
「だって同世代だし。それに厨房に入りっぱなしの私より、販売もできるトウマとの方が接する機会も多いでしょう」
「まあ確かに」
 腕組みをしてうなずくと、「じゃあよろしく」と言って母さんはオレの背中を強い力でバンとたたいた。



「……鷲沢イツキ、さん。十六歳。燕里(ツバメザト)高校一年生」
「はい」
 小さな丸テーブルをはさんで向かい合って座り、差し出された履歴書を見て確認するように言う。面接なんて初めてだけど、普通に良識があることさえ確認できればそれで十分だとオレは気楽に考えていた。仕事内容は正直難しくないから教えれば全然済むだろうし。
「えっと、オレも同じ高校生だから。緊張しなくて大丈夫だよ」
 緊張してるのかしてないのか、いまいち判然としない整った顔を見ながら一応気遣いとしてそう言った。そして真正面から見ても本当に綺麗な顔立ちだとあらためて変な感心をする。小作りの顔の上にほとんど左右対称に配置された目鼻口。線を引いたようなくっきりした二重まぶたに生えそろったまつげが長い影を落としている。柔らかそうな茶色い髪のかかる耳たぶには、左側だけ小さなピアス穴が空いているのが見えた。
「あの、埋めますから」
「へ?」
 一瞬オレを埋めるのかと思ってびっくりしたけれど、すぐにピアス穴のことだと思い至る。オレの視線が左耳に向いたことを敏感に感じ取ったようだ。
「ピアスホール。今日は面接だからピアス外してきてて、バイト決まっても仕事中は外すつもりなんですけど、もし穴自体ダメなら埋めるんで。あと髪も茶髪ダメだったら黒に染めてきます」
「え、いやいや!」
 勝手に物静かなタイプだと思っていた鷲沢イツキが突然たたみかけるように言ってきたので、オレは焦って顔の前で手を振った。
「ピアスはうちは大丈夫、派手すぎるのじゃなければ。髪もそのままで平気だよ」
 似合ってるし、と言いかけてこれは男同士とはいえセクハラかもしれないと思って口をつぐむ。でも実際、軽やかなアッシュベージュの髪色は彼の持つ垢抜けた雰囲気にとてもよく似合っていた。
「そうですか」
 ホッとしたように息をついて、鷲沢イツキははにかむような笑みを浮かべた。笑った。それだけで周囲の空気がパッと華やかに色づいたみたいで、オレは(ま、まぶしい)という口から出かけた感想を無理やり飲み込む。イケメンの笑顔の破壊力、半端なくすごい。これは売り場に立ってくれるだけで相当な客寄せになるのではないか、そんな不埒な打算がつい脳裏をよぎってしまうほどだった。
「シフトの話は母さ……オーナーとしてるって聞いてるけど、入れる曜日と時間を一応確認させてください」
「放課後から閉店まで毎日入れます。学校が休みの日は終日OKです」
「え、本当に?」
「はい」
 ハキハキと答える鷲沢イツキにオレは驚いた。学校以外バイトに全振りか。オレじゃあるまいし、なにか家庭の事情があるのか、それとも特別に買いたいものでもあるんだろうか。うちはそこまで時給がいいわけでもないけどなと少し疑問に思ったけれど、ピアスも髪色も必要なら変えると言い切ったことといい、かなり真面目にバイトに取り組んでくれるつもりのようだ。うちとしては文句が出ようはずもなく、これは採用決定かなと思いながらオレは口を開く。
「分かりました。じゃあ最後に一応、志望動機とあと質問があればなんでも」
「あ、じゃあ質問から先に」
「はい」
 軽く挙手する仕草をして、鷲沢イツキはオレの顔をまっすぐに見て言った。
「先輩は恋人いますか」
 ……はい?
 聞き間違いかとオレは目をぱちくりさせて固まった。これはアレだ。もしオレが、面接者の方がやったら絶対にNGなそれこそセクハラのお手本のような質問だ。それくらいは高校生のオレでも分かるぞ鷲沢イツキ。
「いないけど……なんで?」
 おそるおそる問い返すと、鷲沢イツキは「そうですか」となにやらホッとしたような顔をしている。いいから質問に答えなさいって。
「じゃあ志望動機なんですけど」
「お、おう」
「オレが先輩を好きだからです。小鳩トウマ先輩」



 セクハラどころの話じゃなくなってきた。オレはとっさに肩越しに振り向いて厨房の様子を伺ったけれど、母さんはガラス張りの壁の向こうで焼き上がったタルトに忙しくフルーツを乗せている。会話が聞こえている様子はない。
「……鷲沢イツキくん」
「はい」
「冷やかしなら帰ってください。お出口はあちらになります」
 オレが半目になってつい十分前に彼が入って来た扉を差すと、鷲沢イツキはオレをキッとにらんで身を乗り出してきた。
「冷やかしじゃありません。オレ本気です。オレは本気で小鳩先輩のことが」
「ちょ、ちょっと待って! シー!」
 幸か不幸か今すぐ客が来る気配はなかったけれど、オレは焦って鷲沢イツキの勢いを両手で押しとどめた。
「だからオレは小鳩先輩を」
「わかった、わかったから!」
「えっ、わかってくれたんですか」
「いやわからん! なんもわからんけれどもちょっと静かに」
 オレの言葉に鷲沢イツキは見るからに不満そうな顔になった。けれど浮かせていた腰をしぶしぶ椅子に着席させてくれたので、履歴書が置かれたテーブルを挟んでオレはあらためて向かい合う。なんなんだこの場は。バイトの面接じゃなかったのか。
「オレのことが……好き?」
「はい。オレの恋人になってくれませんか」
 沈黙。目を白黒させながらオレは現実逃避的に今日の夕飯のことを考えていた。久しぶりにコロッケがいいな。キッチンにじゃがいもあったかな。なかったらチラシをチェックして買い物に行かなきゃな。云々。そしてオレは一度頭を振って白昼夢から現実に戻ってくる。とにかく今はこの目の前のトンチキ規格外イケメンをなんとかしなくては。
「えっと、いろいろ聞きたいことはあるけどさ」
「なんでも聞いてください」
 にっこり笑ってみせられてオレは頭がクラクラした。アイドル雑誌の表紙をピンで飾って本屋に並んでいてもおかしくない完璧な笑顔。額縁に入れて鑑賞することにすら値しそうな美しい造形。このとんでもないキラキライケメンがオレのことを好きって言ってる? 職人になってこの洋菓子店を継ぐことだけしか頭にない平々凡々なオレのことを?
「……鷲沢君はさ」
「イツキでいいですよ」
「イツキはオレのことどこで知ったの? 同じ高校だと思うけどごめんオレはきみを知らない。会ったことある?」
「あ、なれそめですか」
「付き合ってないのになれそめとか言わない」
「ごめんなさい」
 ぺこりと素直に頭を下げられてしまった。物腰も柔らかくて声も綺麗で、客観的に見れば非の打ちどころのない好青年なんだよなとオレは思う。ただ本当にオレへの下心を持って面接に来ているのか、そこはしっかり確認しておかなければならない。
「オレが先輩を知ったきっかけは内緒です。大切な思い出なので」
「面接で内緒とかないから」
「面接だったんですか? 今も?」
 きょとんと首をかしげられてしまってオレは返事に窮した。面接? お見合い? いやいや後者は違うぞ断じて違う。
「彼氏面接ならオレ受けて立ちますよ。合格したら先輩はオレと付き合ってくれるんですか」
「待て待て待て!」
 言質を取ろうとでもいうのか、途端に前のめりになる鷲沢イツキにオレは思いきりブレーキをかけた。大人しいタイプかと思ったらとんでもない、意外とぐいぐい来るな年下のくせに。
「ええと、イツキは男が好きってこと?」
 失礼かと思いながらもオレが半分ヤケクソになって尋ねると、鷲沢イツキは特に気にした様子もなく首をかしげた。
「そんなこともないと思いますけど。オレ今まであんまり恋愛に興味なくて、告白とかされてもよく分からなかったんですよね」
 こいつの顔面なら、それはもう日々告白の嵐にさらされているだろうことは容易に想像できる。自慢気な風でもなく淡々と言う様子が、告白というオレには縁のないイベントが彼にとっていかに日常茶飯事なのかを表していた。いやたった今オレにも発生したな、告白イベント。まさか男から食らうとは思ってなかったけど。
「だから先輩は特別な人なんです。先輩、オレの恋人になってくださ」
「不採用」
 食い気味のド低音でぴしゃりと言い切ると鷲沢イツキは見るからに残念そうな顔になった。その悲しげな表情に、言い切っておきながらオレはなんだかすごく悪いことをした気になってしまう。
「男じゃダメってことですか?」
「うーん……悪いけど考えたことないかも。オレ恋愛経験ないからさ」
 あらためて問われると答えに困る。今まで当たり前に女の子をかわいいと思い、男子は友達枠だと考えてきたけれど。
「じゃあ可能性はゼロじゃないんですね」
「いやない! ないんだけど!」
「トウマ、鷲沢君、おつかれさま」
「ぎゃっ」
 急に背後から声がして、オレは椅子から数センチ飛び上がった。振り向くと厨房から出てきた白いコックコート姿の母さんが笑顔で立っている。
「ずいぶん盛り上がってたわね。気が合いそうで良かった」
 言いながらテーブルの上の履歴書を手に取った母さんは、しげしげと眺めて感心したように言う。
「字が綺麗なのねえ。丁寧で読みやすいわ」
「書道やってました」
「あら素敵。お客さんに伝票を書く場面もあるから字が綺麗なのに越したことないわね」
「い、いや母さん待って」
「うん。採用」
「母さん!」
「なによトウマ」
 腰に手を当てて見下ろされて、オレは答えられなかった。鷲沢イツキは確かにバイトとしては申し分ない人材だ。彼が売場に入ってくれれば嫌らしい話お客ウケもいいだろうし、接客も問題なくできそうではあるし、オレも念願の菓子製造にもっと携われるし、言うことはない。ただひとつ、鷲沢イツキがオレを恋愛対象として見ているという点を除けば。けど今ここでそれを己の母親に暴露する勇気はオレにはなかった。
「いいわね? じゃあ鷲沢君、いつから来られるかしら」
 母さんの言葉に、鷲沢イツキは鑑賞物としては百点満点超えの完璧な笑顔で答えた。
「オレはいつでも。明日からでも」



「先輩のそばにいられて嬉しいです」
 オレと同じデザインの白い制服を着て、隣に立ってにこにこと笑っている鷲沢イツキをオレは思いきりにらみつけた。
「言っとくけど採用したのオレじゃねえから」
「わかってます。でもオレが嬉しいんです」
 邪気のない笑顔を向けられて言葉に詰まった。イツキが向けてくる好意は純粋でまっすぐで、もしオレが女だったら即落ち2コマで陥落していたかもしれない。まあそうじゃないから問題なんだけど。
(これでいいのか鷲沢イツキ)
 無双レベルの顔面を持ちながら、なんでよりにもよってオレなんだ。その素朴な疑問が解消されないまま面接の日から今日で一週間が経っていた。一応試しに着てもらったオレの制服の予備はイツキの足には丈がまったく足りなかったので(ぐぬぬ)、彼サイズの新しい制服が届くのを待って今日からイツキのバイトが始まったのだ。初日である今日は研修としてオレが一緒に販売に入ることになっていたけれど、学校のHR後にイツキがわざわざ二年の教室までオレを迎えに来てしかも満面の笑顔で「トウマ先輩!」と叫んだおかげで、オレはクラス中のどよめきと好奇の視線を浴びながらいつにも増して猛スピードで教室を飛び出す羽目になった。
「ケーキの種類はだいたいいつも十二種類くらい。あとは焼き菓子が十五種類くらい。お客さんに味を聞かれることもよくあるから、新作は母さ……オーナーが試食させてくれるよ」
「本当ですか」
 明るい声になってイツキが目を輝かせた。「ケーキ、好きなの」と聞くと「あまいもの大好きです」と言ってきれいな歯並びを見せて嬉しそうに笑っている。
「先輩もやっぱりあまいもの好きなんですか」
「まあ。うん」
 オレはあいまいにうなずいた。もちろん好きは好きなのだけど、オレにとって洋菓子の持つ意味はもう少し重くて深いものだ。それは家族のきずなの証みたいなものだから。
 父さんが死んで、遺された店を母さんが継いだ。オレはその母さんを支えたい。その思いの中心にあるのがこの小鳩洋菓子店であり洋菓子そのものだ。母さんが作った生ケーキを、オレが仕込みをした焼き菓子を、入れた箱を抱えて笑顔で帰っていくお客さんの背中を見送るたびにオレの胸はやりがいと温かさで満ちあふれる。この喜びに己の人生を賭けられると確信できる。その価値は自分にとって計り知れないものだし、母さんも、そして父さんもきっと同じだっただろうと思うのだ。その気持ちをそのままイツキに伝えることは、なんだか気恥ずかしくて出来なかったけれど。
「ケーキは、お客さん向けの値札の裏に名前と値段が書いてあるから暗記しなくても大丈夫。取り出すときはこのトングを使って、急がなくていいから落とさないように慎重に」
「はい。わかりました」
 生ケーキの並ぶ冷蔵ショーケースの引き戸を裏から開けて、オレが値札を示すとイツキは腰を折って長身をかがめるようにして覗き込む。一瞬、顔を寄せ合うような体勢になってイツキのニキビひとつない頬が自分の頬に触れそうになって、その近さにオレは不覚にも緊張した。けれどイツキは気にした様子もなく、まじめにショーケースの中を見て値札の裏のカンペを確認している。
(いやいや。オレが意識してどうする)
 仕事中だぞ、とぶるぶると首を振って不埒な煩悩を振り払う。手にしたメモ帳にボールペンを走らせているイツキは、そんなオレの不審な挙動に気づいていないようだ。
「ええと、次にレジの打ち方だけど。レジの経験はある?」
「ないです」
「まあ高一だもんな」
 うなずいてオレがレジ前にうながそうとすると、厨房の扉が開いて母さんが顔を出した。
「トウマ。イツキ君。私が売り場代わるから今のうちにふたりで商品の試食しちゃって。とりあえず今日出てるケーキ十二種類、そこに並べて取ってあるから」
「十二種類全部?」
「そうよー。それぞれ半分こしてね。高校生の胃なら食べれるわよね?」
 決めつける母さんに苦笑して「オレは大丈夫だけど」と言ってイツキを振り向くと「オレも全然いけます」と言ってうなずいている。心なしか声が弾んでいるようだ。その様子に、お菓子が本当に好きなんだなとオレは少し笑ってしまう。
「じゃあもらうけど、母さんひとりでレジ大丈夫?」
「だ、大丈夫よ! 失礼な子ね!」
 パティシエールとしての腕は一流の母さんが、レジ打ちがめっぽう苦手なことをオレは知っている。なのでつい心配して言ったら逆に憤慨されてしまった。まあとりあえず任せるかと思い、オレはイツキを連れて厨房に入り扉を閉める。売り場と厨房を仕切るガラス張りの壁向こうで、母さんがちょうど入って来たお客さんとやりとりを始めるのが見えた。
「左から四種のベリーのタルト。甘夏のタルト。フランボワーズの二層ババロア。パンナコッタ。シュークリーム。完熟いちごのショートケーキ」
「先輩ちょっと待ってください速いです」
 作業台の上の長皿にスイーツビュッフェのように一列に並んだケーキを見てすらすらとオレが言うと、イツキは焦った顔になってポケットからメモ帳を取り出した。その様子がなんだか可笑しくて、意地悪心を出したオレはあわてるイツキを無視して紹介を続ける。
「レアチーズケーキ。バスクチーズケーキ。天使のミルフィーユ。悪魔のガトーショコラ。レモンとダージリンのパイ。なめらか蒸しプリン」
「先輩!」
 たまりかねて叫ぶイツキを見てオレは思わず吹き出してしまった。からかわれたのが分かったのだろう、イツキは頬をふくらませてオレをにらむ。
「先輩、意外といじめっ子ですね」
「そうだよ。早くオレに幻滅しな」
「それはないんですけど」
 軽口をたたいたつもりが想像以上に重く返されてしまった。作業台に並ぶケーキを前に、隣に立つイツキの顔を見上げると少し怒ったように眉間にしわを寄せている。
「オレは、生半可な気持ちで先輩に告白したわけじゃありません。本気で好きなんです。どうしたらわかってもらえますか」
「悪かった。今のはオレが悪かった」
 話が深刻になることは望んでいない。オレはイツキから目をそらして作業台の下からナイフを取り出すと、ケーキをそれぞれ半分ずつにカットした。
「なんとなくでいいから味、覚えて」
「はい。いただきます」
 まじめに両手を合わせてから、イツキはオレが渡したフォークを受け取って端のベリーのタルトを口に運んだ。一口食べたかと思うと、目を丸くして口を押さえている。
「どうしたどうした」
「いや、美味しくて。感動しました」
「母さん喜ぶよ。ていうかうちのケーキ初めて?」
 なぜかご相伴に預かってしまったオレもありがたくケーキを口に運びながら聞くと、イツキはさっそく次の甘夏タルトにフォークを入れながらうなずいた。
「生菓子は初めてです。フィナンシェは食べたことがあるんですが」
「フィナンシェ?」
「あ、しまった先輩に大ヒントを与えてしまった」
「は?」
「オレが先輩を好きになったきっかけです」
「フィナンシェが?」
 焼き菓子の定番フィナンシェはうちの常設商品で、今も店の壁際でカゴに入って置かれている。しかし彼とオレを結ぶ接点としてはまったく心当たりがない。首をかしげていると、イツキが「ほら、早く食べてオーナーと交代しないと」とか話題をごまかすように急に真っ当なことを言いだして、タルトの最後のひとかけらを飲み込んだ。



「閉店時間だから今日は上がっていいよ。おつかれさま」
 鳩時計の針が午後六時を指して、小さな仕掛け細工の鳩が六回鳴いて引っ込んだ。ちょうど店内にお客さんが途切れたタイミングでもあったので、オレはイツキに声をかける。
「スタッフルームで着替えたら出るのは裏口から。タイムカード忘れずに切ってね」
 スタッフルームは、売り場の脇にある納戸に毛が生えた程度の小さな支度用の部屋だ。オレと母さんは二階の自宅で着替えるからこの部屋を使うのはこれまでパート主婦のコバヤシさんだけだったけれど、そこに今日からイツキも加わることになった。
「先輩は?」
「オレは売り場を片付けて、そのあとは買い出しと夕飯作りかな」
 扉の鍵をかけながらオレが何気なく言うと、イツキが「すごい」とつぶやいた。
「先輩、料理もするんですか」
「するよ。母さん忙しいし」
 母さんは閉店後はそのまま明日の仕込みに入るから、平日に二階の家で夕飯の支度をするのはオレの役目だ。料理は嫌いじゃないし食べたい献立にできるのも悪くない。そう言うとイツキは感嘆したようなため息をついた。自分の中では当たり前だったことを褒められて、なんだかむずがゆい気持ちになっていたらイツキが口を開く。
「買い出し、オレも行っていいですか」
「え? なんで?」
「先輩と離れがたいだけです」
 思わず聞き返すとイツキは真顔でそう言った。それこそ地図の上は北で下は南、というくらい当たり前のことのように。
「でも待たせるよ」
「オレも片付け手伝います」
「だめ。その分はバイト代出ないし、おまえにタダ働きさせたらオレが母さんに叱られる」
 それを聞いたイツキはみるみる悲しそうな顔になった。それはまるで冷たい雨のなか捨てられてしまった子犬みたいで、はからずもイツキの背後にそんな哀れな幻覚を見てしまったオレは息をついて言葉を付け足す。
「だから、スタッフルームで待ってな」
「……はい!」
 捨てられた犬から拾われた犬に見事に羽化したイツキが、うつむかせていた顔を上げて明るい返事をした。
(なんか、懐いてくるわんこみたい)
 そんな失礼な連想をして一人で笑っていたら、タイムカードを切ったイツキに不思議そうな顔をされる。「どうかしましたか」と首をかしげるイツキに「なんでもないよ」と言って、オレは笑いをこらえながら首を振った。



 片付けを終えて二階で着替えたオレは、イツキと連れ立って裏口を出た。薄明というのか、夕暮れ時にもかかわらず初夏の空はまだ明るくて淡い夕焼け空がビルの谷間に挟まるように覗いている。駅前にあるスーパーを目指して歩く途中、イツキは弾んだ声で話しかけてきた。
「先輩の隣を歩けるなんて夢みたいです」
「大げさ」
「大げさじゃありません。今日だけで致死量の先輩を浴びて胸が苦しいです」
「致死量の先輩ってなんだよ」
 電車が到着するたびに改札口から吐き出される人々の間をぬって進んでいくと、なんだかちらちらと視線を感じる。衆目を集めているのは言うまでもなく隣にいるイツキだ。日々こんなに見られて疲れないのかなと夕日に染まる横顔を見上げたけれど、本人は気にした様子もなく上機嫌な顔で歩いている。今にも鼻歌を歌いだしそうな表情だ。
「先輩なに作るんですか」
「いつも簡単なのばっかだよ。今日はからい気分だから豚キムチ炒めかな。あと味噌汁で野菜とって、米炊くだけ」
「すごいですね。栄養まで考えて」
「適当だよ。でも職人は体が資本だから」
「かっこいいです」
「おだてるじゃん。食いたいの?」
 会話の流れで何気なく言ったら「え」と声を上げて驚かれたのでオレの方が驚いた。まさかの図星だったのか。
「あ、食いたくて褒めたわけじゃないです。でも先輩の料理を食べてみたいのは確かです」
「でもおまえ家に飯あるだろ」
 目を輝かせて言われてオレは戸惑った。作るのは構わないけど別に今日じゃなくても、と言いかけたところでイツキの方が先に口を開く。
「飯はありません。だから弁当とか買って帰ろうと思ってて」
「……なにか事情が?」
 当然のように言うイツキに、オレは迷いつつも口を開いた。知り合って間もない他人の家のことだ、用心深く尋ねるオレにイツキはあっさり首を横に振ってみせる。
「父子家庭の一人っ子なだけです。親父は仕事忙しくて帰るのは毎日深夜だし、掃除洗濯は家事サービスに頼んでるけど料理は対応してないからいつも夕飯はオレひとりで」
「わかった。食ってけ」
「え?」
「飯、作ってやるから食ってけ。うちはいつでもOKだから」
 力強く主張するオレにイツキは圧倒されたようだったけれど、やがて「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んでうなずいた。別に同情したわけじゃないしイツキにしたって同情なんかされたくもないだろうし、そうじゃない、そうじゃなくて、とりあえず料理の手間に二人前も三人前も大差はないんだ。だったらひとりで過ごす夜なんて、ひとつでも少ない方がいいじゃないか。



 イツキと駅前のスーパーで買い物をした。豚肉と牛乳と食パンとトイレットペーパー。そしてまた連れ立って家に帰りキッチンに並んで夕飯の支度をする。味噌汁に入れるキャベツをきざむイツキの包丁さばきは危なっかしいことこの上なくてオレはハラハラしたけれど、学校やお菓子の話をしながら料理をするのはいつもと違ってなんだか楽しい。
「おまえ料理苦手なんだ」
 野菜を煮込んだ鍋に真剣な手つきで味噌を溶かし込んでいるイツキに聞くと、困ったような顔をされた。
「はい、普段自分のためだけに飯作るとかしないし。だからお菓子作りなんて想像のはるか上です。先輩のこと本当に尊敬します」
「だから大げさなんだって」
 オレは苦笑しながらおたまで味噌汁をすくって小皿に入れる。イツキの目の前に差し出した。
「味見」
「あ、はい、失礼します」
 一瞬あわてた顔になったイツキが、腰をかがめてオレが差し出した小皿に口をつけた。自分で持たないのかと少し可笑しく思いながら、目を伏せて待つイツキの顔にゆっくりと小皿を傾けてやる。
「どう? 味薄い?」
「美味しいです。というかエプロン姿の先輩と並んで料理できるなんて、胸がいっぱいで正直味がわかりません。天国にいるみたいです」
「おまえそういうセリフ頭の中にストックしてんの?」
 味見役としてはなはだ不適任なイツキにあきれて、オレは自分で同じ小皿に味噌汁を入れて飲んだ。普段より具材が多めで心配したけれど、いつもの味の範疇だと安心する。後ろでイツキが「間接キスだ……」とかつぶやく声がしたけれど、聞こえないふりで無視しておいた。



 小鳩洋菓子店でイツキがバイトを始めてから二週間が過ぎた。
 イツキは面接時の宣言通り、平日は学校の放課後から閉店まで、そして学校が休みの土曜日は開店から閉店までシフトに入った。勤務態度はまじめで熱心。勘が良くてレジ打ちや接客も問題なくこなしていて、オレが隣でつきっきりでいたのは初日の研修の日だけだった。イツキが仕事にすぐに慣れてくれたおかげで、オレはバイトの半分は母さんと厨房に入り、半分はイツキと一緒に販売に入るというリズムを作れるようになった。これにはオレも母さんも正直とても助かっている。
「イツキ君が来てくれて本当に良かったわあ」
 母さんはそう言って、生ケーキに余りが出た日はバイト終わりのイツキに箱に入れて持たせたりしている。イツキも喜んでそのおすそ分けを受け取っているし、パートのコバヤシさんはもはや完全にイツキのファンになっているし、イツキが来てからの小鳩洋菓子店は今まで以上に上手く回っているようだった。……オレの胸中のモヤモヤを除いては。

「あれ、忘れ物」
 ある日の夜のこと。ボールペンを取ろうと二階の部屋から降りてきてスタッフルームに入ったオレは、テーブルの上に数学のノートが放置されているのに気がついた。表紙の端に『1-1 鷲沢イツキ』とあって、手に取ってめくると最後のページに宿題らしき計算式がイツキの綺麗な字で書かれている。今日は確か一年生だけ教員研修で短縮授業だったはずだから、早めに店に着いたイツキがここで宿題をやっていたんだなとオレは想像した。そしてそのノートを置き忘れて帰ってしまったらしい。
「仕方ない。明日の朝届けてやるか」
 無くしたと思って困っているかもしれないから、メッセージくらい送っておこう。そう考えてスマホを取り出したところで、オレはイツキの連絡先を知らないことに気がついた。知り合ってもうすぐ一ヶ月、ほぼ毎日顔を合わせているにも関わらずそもそもイツキから聞かれてもいない。もしオレが誰かを本気で口説き落とそうとしていたら、きっとその手段は外さないだろうと思うのに。
(あいつ、本当にオレのこと好きなのかな)
 学校からは結局毎日一緒に帰ってきているし、並んで売り場に立てば手の空いた時にくだらない話で笑い合ったりもする。夕飯も今日までに三回ほど食べにきていて仕事上がりの母さんを喜ばせていた。だけど。
 あの初バイトの日以来、イツキはオレに『好き』とか『つきあって』とかいう言葉を投げてこなくなっていた。やっぱりあれはただの気まぐれで、でもバイト自体はケーキももらえるし続けるつもりで、だからオレへの告白はこのまま黙って無かったことにするつもりなんだろうか。そうかもしれない。きっとそうだ。だってそもそもがイレギュラーだったんだから。
(いいんだよな。これで。普通に)
 オレは後輩の男に迫られるという悩ましい状況から苦労なく解放されて、ただただ優秀なバイト君だけが残った。なんだ最高の状況じゃないか。最高の。
(なのにこの虚無感はいったい)
 今まで洋菓子ひとすじでモテなさすぎたから熱烈に言い寄られたのが実はまんざらでもなくて、だから一方的に逃げられて今さら虚しくなっているんだろうか。最初から何も手に入れていないくせに、まるで失ったような気がして。だとしたらなんとも浅ましく恥ずかしい話じゃないか。
「考えるの、やめよ。オレには向いてない」
 誰もいないスタッフルームでひとりつぶやいて、オレは心なしか乱暴にイツキの数学ノートを握る指に力を込めた。



 一年生の教室は校舎が違う。イツキのクラスの時間割なんて知らないから、数学の時間が来る前にと親切なオレは翌朝のHR前に一年生の教室が入っている南校舎に向かった。渡り廊下を通って靴箱を抜けて去年まで自分が通っていた校舎に入ると、『1-1』の教室はすぐに見つかる。オレは二年生だけど、それでも赤ネクタイだらけの一年生の教室に来ると視線を感じてなんとなく緊張するから、イツキの奴よく毎日毎日二年の教室にオレを迎えに来れるよなとふと思う。ある意味感心しつつ引き戸から教室の中を覗き込むと、薄いカーテンが降りた窓際に立つイツキの姿はすぐに見つけられた。
(いた)
 長身でスタイルがいいせいで何もしていなくても目立つのだ。イツキ、と声を投げようとしたけれど、廊下側のドアから窓までは当然ながら教室ひとつ分の距離がある。ざわつく朝の教室のなか声を届けられる自信がない。こっち見ろよととりあえず目に力を込めて視線を送っていると、イツキの隣にいた男子が誰かに呼ばれたようでふと離れていった。するとそれを待ち構えていたように三人ほどの女子が一人になったイツキを囲むようにして話しかけ始める。当たり前だけれど、クラスの女子に人気があるようだ。
 イツキを取り囲む女の子たちはみんなスカートが短くて伸ばした髪が朝の光のなか綺麗に光っている。その中の一人が、イツキに何かを話しかけながら自分の長い髪の一房をつまんで見せるような仕草をした。最近傷んじゃってさ。ちょっとさわってみてよ。遠くて声は聞こえないけれど、そんなセリフが勝手に脳内生成されてアフレコのように当てはめられる。それを聞いたイツキは、少し戸惑うような表情をしながらも指を伸ばして女子の髪に触れた。途端に「キャー」という悲鳴のような歓声のような高い声が、ここだけは現実の音としてオレの耳に響く。
(……あれ)
(なんだこれ)
 きっとあるだろうと分かっていても見たくなかった光景を、自分からわざわざ見に来てしまった。そんな心持ちだった。心臓が急にドクドクと音を立てて動き始めて、そのやかましい音が周りに漏れ聞こえてしまうんじゃないかと心配になって胸の上でこぶしを握りしめる。うつむかせた視線の先、自分の上履きのくすんだ汚れが急に目についてなぜだか無性に恥ずかしくなった。
「あの、大丈夫ですか」
 声をかけられて我に返ると、赤ネクタイの小柄な女子が心配そうな顔でオレを見ている。教室に入ろうとしていたからきっとイツキのクラスメイトだろう。
「……大丈夫。悪いけどこれ、鷲沢イツキに渡しといてくれるかな」
「え?」
 急に言われて驚いたようにまばたきしたその女子に、オレはイツキの数学ノートを差し出した。戸惑いながらも受け取ってくれたので、そのまま黙って足早に一年生の教室を後にする。背後で「鷲沢君のノート預かったの?」「やば。超ラッキーじゃん」「渡してきなよ」とかいうはしゃいだ声が聞こえてきたけれど、振り返る気にもなれなかった。



「先輩、今朝オレのクラス来ましたよね」
「行ってません」
「なんで嘘つくんですか」
 いくらオレがモヤモヤムカムカしようがバイトの時間はやってくる。洋菓子のことさえ考えていれば幸せだったはずなのに、はなはだ自分らしくない感情の波立ちに腹が立つ。だから今日はすべての元凶たるイツキの顔を見ずに厨房に引きこもって無心にお菓子と向き合いたい気分だったのに、こんな日にかぎって母さんが「今日は雨だから製造おさえたいの。トウマあなたもイツキ君と一緒に販売とお掃除お願い」とか言ってくる。あからさまな不満顔になるオレに母さんは「明日はデコレーションケーキの飾りつけ任せてあげるから」となだめるように付け足した。オレがそれで機嫌を直すと思っているのだ。まあそれは正解なんだけど、今日のオレの不満の原因は厨房に入れないことじゃなくてイツキと一緒にいなければならないことだから、その気遣いは残念ながら少しずれている。
「ノート。ありがとうございました」
「なんのことでしょうか」
「なんでさっきから敬語? 怖いんですけど」
 徹底して目を合わさずに壁際のディスプレイをハタキでばさばさ叩くオレのあとを、イツキがずっとついてくる。一応、口だけじゃなく除菌シートを持った手も動かしているからサボっているわけではないけれど、それにしたって。
「ずいぶんおモテになるようで」
 棘のあるセリフにイツキが掃除の手を止めた。そしてオレはすぐにしまったと思う。なにいきなり当て付けみたいなこと言ってるんだオレは。
「なんでもない。今の忘れて。消せ。記憶から抹消しろ」
「もしかして、オレがクラスの女子と話してるの見てたんですか?」
「ちがいます」
「だからなんで敬語。先輩ウソ下手ですね」
 鼻から息が抜けるような変な音が聞こえて横を向くと、イツキが肩を震わせながら笑いをこらえている。オレはカッとなって怒鳴りつけた。
「なにがおかしいんだよ笑うな!」
「おかしいんじゃないです。嬉しいんです」
 顔を赤くして怒るオレにそう言って、イツキは晴れやかな笑顔で言葉を続けた。
「オレ今日はケーキ買って帰ります。もちろんここの」
「は? ケーキ? なんで」
「先輩がオレに嫉妬してくれた記念日だからです」
「そんなわけないだろ自惚れんな」
「照れてます?」
「照れてません」
「抱きしめたいんですけどいいですか?」
「いいわけねえだろバイト中だぞ」
「バイト中じゃなかったら抱きしめていい?」
「変な解釈するな」
 ことさらに冷たい言葉を返すオレにイツキは「ううう」と変なうなり声を上げた。「先輩のけち」とかいうつぶやきは聞こえなかったふりをする。
「先輩」
 イツキとふたりで壁面の掃除を進めて、店をほぼ一周したところでポツリと呼ばれた。振り返るとイツキがやたらまじめな顔でこちらを見ている。
「オレ、先輩に謝らなきゃいけないことがあるんです」
「なんだよ」
 オレが上の棚からかけたハタキを下にもかけようと膝を折ってしゃがみこむと、合わせるようにイツキも隣にしゃがんできた。内緒話をするように顔を寄せて小声でささやいてくる。
「数学のノートのことなんですけど」
「ああ、おまえがスタッフルームに忘れたやつ」
「あれ、わざとなんです」
「は?」
 オレは声を上げてイツキを見た。すると思いのほか近くにその綺麗な顔のアップがあったので反射的に上半身をのけぞらせて身を引く。イケメンは顔面の圧が強くて困る。
「わざと忘れたってこと? なんでそんな」
「先輩がオレのために教室まで来てくれたらいいなって。ごめんなさい期待しました」
 神妙な顔でうなずいて、イツキはものすごく申し訳なさそうに目を伏せる。
「オレ、先輩と一緒にバイトできて正直すごく浮かれてて。でもあんまりしつこいと嫌われるかもって反省して好きとか言うの控えてたんです」
「控えてたのか」
「はい。でもその反動で、オレがいつも先輩を迎えに行ってるみたいに一度でいいから先輩の方から会いに来てくれたらって思っちゃって」
「……なるほど」
「騙すようなことしてごめんなさい」
 イツキは長身を折りたたむようにして、しゃがんだ体勢のまま頭を下げた。イツキの考えたその健気な作戦は、オレを教室に召喚するところまでは順調だったようだ。オレは黙って立ち上がり窓際の棚に移動すると、除菌シート片手についてくるイツキにぼそりと言った。
「なら悪かったな。ちゃんと手渡しできなくて」
 オレのぶっきらぼうな言葉に、イツキはちぎれて吹き飛ぶんじゃないかってくらい首を横にぶんぶんと振った。
「全然いいです。結果オーライです。直接渡してもらえなかった理由が嫉妬だったなんてご褒美でしかないです。一生擦ります」
「やめろ恥ずかしい」
「恥ずかしがる先輩も好きです」
「やめろ恥ずかしい!」
 オレの怒った顔を見てイツキは黙った。しばらくお互い無言で掃除の手を進めて、やがてオレの方から口を開く。
「イツキ」
「はい」
「またこういうことあった時のために、連絡先交換しときたいんだけど」
「えっ」
 オレの言葉にパッと顔を上げたイツキは、ただでさえでかい目を見開いて驚愕したような声を上げた。
「先輩の連絡先?」
「そう」
「絶対教えてくれないと思ってました」
「おまえの中のオレは鬼悪魔か。必要なら普通に教えるって」
 それを聞いたイツキは心底嬉しそうに目をキラキラさせてうなずいた。「バイト終わってからな」と釘を刺すように言ったオレは、気を抜くと笑いそうになる口元をイツキに見られないように背中を向けてごまかす。朝から抱え込んでいたモヤモヤもムカムカも結局イツキと話しているうちに洗い流したようにきれいに消え去ってしまって、オレはなんだか前よりもスッキリした気持ちで右手に握るハタキを軽快に振った。



 深夜の厨房で、オレはひとり作業台に向かっていた。
 時刻は二十三時すぎ。仕込んでおいた棒状のクッキー生地を冷蔵庫から取り出して台に広げた粒の細かいグラニュー糖の上に丁寧に転がす。砂糖が表面にまぶされたら、今度はナイフで生地を輪切りにカットしていく。整えた厚さはちょうど一センチ。適度な食べごたえを味わえて割れにくいベストな厚みだ。
 朝が早い母さんは二階の自宅でもう眠っている。オレは宿題と風呂を済ませたあと、階段を降りてこの一階の厨房に入った。基本的な焼き菓子の製造を任されて半年、この深夜の時間はオレが厨房を独占してパティシエになれる貴重な数時間だ。
(楽しいなあ)
 マスクの下で鼻歌を歌いながら、カットしたオセロの駒みたいな生地を天板に次々に並べていく。予熱しておいたオーブンに天板をセットしてボタンを押して焼成スタート。作業がひと段落してホッと息をついたところで、不意に厨房の窓が外からコンコンとノックされてオレはびくっと背すじを震わせた。
「え……」
 誰だろう。厨房の電気を付けているから、中に人がいることは外からでも分かるだろうけど心当たりがない。イタズラか、それともなにか音がうるさかっただろうか。ミキサー系などの音の出る機械はこの深夜帯には絶対に使わないようにしているのに。
 金属バットなんてものはここにはないから、一番太い綿棒を選んで武器代わりにつかんだ。こわごわ窓に近づいて思い切って引き戸を開けると、そこにいたのは。
「先輩!」
「イツキ……」
 不審者かそれともクレーマーかと身構えていた体からどっと力が抜けた。キャップをかぶり、窓枠にひじをついて笑顔で手を振るイツキにオレはあきれてため息をつく。
「何してんだよこんな時間に」
「夜の散歩です」
 それはそんなに一般的な趣味なのか。別名徘徊というんじゃないのか。ツッコミたいことは多々あったけれど、先にイツキが話し始める。
「オレ眠れないと時々散歩に出るんですけど、店の前通ったら厨房の窓が明るかったから。もしかしたらって」
「母さんかもしれないだろ」
「オーナーだったら挨拶するだけです。それに二分の一の確率で先輩に会えるならオレは絶対にそちらに賭けます」
 さも当然のようにそう言って、イツキはオレの背後のオーブンに視線を送った。
「いい香り」
「さっき焼けた紅茶のサブレかな。いま冷ましてるとこ」
「先輩、本当に店の焼き菓子作ってるんですね」
「そうだよ。製造許可はこの厨房自体に下りてるから、高校生のオレでも売り物を作る資格があるんだ」
 そう言うとオレは窓から流れ込む夜更けの風を深呼吸するように吸い込んだ。ほのかなぬるさをまとう初夏の空気だ。それからイツキの顔を見て言う。
「暇ならこっち来る?」
「え」
「味見してけば」
「いいんですか」
「いいよ。どうせ明日試食してもらうつもりだったし」
 オレはイツキをうながして、窓を閉めて代わりに裏口の鍵を開ける。ドアを開けて「お邪魔します」と言って入ってきたイツキは、見慣れた制服ではなくTシャツにカーゴパンツのラフな姿だった。スタイルがいい奴はなにを着ても様になるなと感心していたら、イツキが妙に緊張した顔で口を開いてくる。
「あの。オレ先輩のこと好きなんですよ」
「いきなりなに? 知ってるけど」
「そんな奴と夜中に二人きりになっていいんですか」
 オレの後について売り場に入ってきたイツキがまじめな顔でそんなことを言い出したので、オレは吹き出して笑ってしまった。
「やけに大人しいと思ったら。そんなこと心配してたわけ」
「笑いごとじゃないんですよ先輩、もっと危機感を持ってください。男は狼なんだから」
「神聖な店でなにする気だよ。サブレ持ってくるからちょっと待ってな」
「わかりました」
 素直にうなずくイツキを売り場に残して、オレは厨房に入り網の上で冷ましていた紅茶サブレを六枚取った。ベージュ色の焼き色がついた生地に香り高い紅茶の茶葉が綺麗に散っている。我ながら完璧な仕上がりだと内心で自画自賛しながら適当な皿に置いて、ついでに冷蔵庫から麦茶のペットボトルとコップも二つ取り出した。両手がふさがったオレに目ざとく気づいたイツキが、売り場と厨房を隔てるドアを開けて手で押さえてくれる。
「そういうとこ気がきくよな。バイト中も思ってたけど」
 イツキの腕の下を少しだけ頭をかがめて通り抜けながら言うと、イツキは小さく笑ってみせた。
「先輩の前でかっこつけたいだけです」
「またそういうことを言う」
 小さなうちの店にはカフェスペースなんてものはないので、オレは面接の時にも使った小さな丸テーブルにイツキと向き合って座った。コップに麦茶を入れて紅茶のサブレを勧める。
「本当はあったかい飲み物の方が合うんだけど」
「いえ。いただきます」
 胸の前で律儀に手を合わせて、イツキがサブレを一枚取った。そのままかじりつくのかと思いきや、天井の明かりに透かすように捧げ持ってじっと見つめたまま動かなくなる。
「なにしてんのおまえ」
「いや、先輩の手作りお菓子だと思うと感慨深くて。食べるのもったいないです」
「いいから食えって。試食なんだからちゃんと味覚えてよ」
 呆れて苦笑いするオレに、イツキはうなずいて小さなサブレを両手で持つと大切そうに口に入れた。両目を閉じて静かに味わったかと思うとため息を吐き出すように言う。
「すごく美味しい……」
「言うと思った」
「違います本当です。バターと紅茶の香りがしてさくさくで本当に美味しいんです」
「分かった分かった」
 テイクアウト専門のうちの店では、お客の感想をリアルタイムで聞ける機会は少ない。ときどきレジで『前買ったアレ、美味しかったわ』と言ってもらえることはあるし、あとはリピートしてくれることこそが感想だと割り切ってはいるけれど、それなりに苦心して焼いたお菓子をこうして目の前で食べてもらえるのはなかなか特別な喜びだ。いつも焼き菓子の仕込みは深夜に一人で黙々とやっていて、その静謐な時間はオレの宝物に違いないけれど、こうしてそばに人がいるのも悪くないなとふと思う。そしてそれが誰でもいいのかと聞かれたらそれは違うなとも。
(イツキといると、心地いい)
 深夜に陥りがちなセンチメンタルといえばそれまでだ。でもなんだかほんわかした気持ちになってしまったオレも、ついでに休憩しようと麦茶のコップを取って喉を潤す。サブレをつまんでぽりぽりとかじっていると、ふと視線を感じて目を上げた。見れば、先にサブレを食べ終えたイツキがテーブルに頬杖をついてオレの顔をじっと見つめている。
「……なにしてんの」
「好きな人の顔を見てます。幸せです」
「げほっ」
 不意打ちで言われて思わずむせた。胸をたたいて急いでコップの麦茶を飲み干し、イツキをにらむ。
「食ってるときに言うな」
「すみませんつい。ああ先輩、口にサブレのかけらが付いてる」
「え、どこ」
「そこじゃないです」
 椅子から腰を上げて身を乗り出したイツキが、手を伸ばしてオレの口元に触れた。かけらを払うように指先を動かされて、くすぐったさにむずむずしたオレは思わず目を閉じる。
「取れた?」
「まだです」
 言いながらイツキの指がオレの唇に触れた。そのまま指先でなぞられて親指ではさまれて小さく揉まれて、オレは薄く目を開ける。
「……イツキ? なにして」
「先輩」
 少しだけかすれたイツキの声が耳に届いた。オレのあごがそっと持ち上げられて、綺麗な顔のアップが近づいてくる。
(え)
 伏せられた長いまつ毛。静かな店内に小さく響く息遣い。ほんの少しだけ香った汗と制汗剤の甘いにおい。お互いの唇が触れるか触れないかのところでイツキが止まる。オレのあごからパッと手を離して体を引いて、椅子ごとひっくり返るんじゃないかと思うような音を立てて勢いよく背もたれに倒れ込んだ。端正な顔が台無しになるほど真っ赤に染まっている。
「せ、先輩」
「うん」
「ごめんなさいオレいま」
「びっくりした。キスされんのかと思った」
 オレが言うと、イツキは「うわあああ」と意味不明な奇声をあげて両手で顔を覆ってしまった。そのままテーブルに突っ伏して動かなくなる。
「イツキ? 生きてる?」
「生きてません」
「キスしたら生き返る? 童話の姫みたいに」
「先輩の意地悪」
「被害者ムーブやめろ」
「ごめんなさい通報しないで」
「通報もなにも未遂じゃん」
 オレが突っ込むと、イツキはテーブルに伏せていた顔をほんの少し上げた。腕の間から目だけを出して、もそもそとくぐもった声を発する。
「先輩。オレね」
「うん」
「好きな人と毎日一緒にいれて本当に幸せです。幸せですけど」
「けど?」
「こう見えてすごい我慢してるんですよ……」
「我慢ってなにを?」
「言わせようとしないで」
「バレてた」
「先輩の意地悪」
 同じセリフをもう一度繰り返して、ううう、とまたひとしきり奇天烈なうなり声を上げてからイツキはガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。
「オレ帰ります。サブレごちそうさまでした。信じられないくらい美味しかったです」
「あ、うん。ありがとう。鍵は閉めとくよ」
 そう言ったオレにぺこりと礼儀正しく頭を下げて、イツキは裏口のドアに大股で向かっていく。たたきに座ってスニーカーの紐を結び直して履き、そのまま振り向くことなく出て行った。扉がかすかな金属音を立てて閉まる。

 ひとりになった。

 イツキの残した制汗剤の香りと余韻がまだそのあたりに漂っている気がする。しばらく椅子に腰掛けたままぼうっとしてから、オレは指先で自分の唇にそっと触れた。熱を分けてもらえなかった唇は少しだけカサついていて、椅子の背もたれに背中を預けるとあごを上げてぼんやりと天井を見る。
「……マジかあ……」
 ため息とともに声が漏れ出た。あのイツキの必死な顔を見てなお、彼の恋心を疑える人間がこの世にいるとは思えない。本気で恋をしてるんだ、オレに。そしてそれがもし一時の気の迷いでも、たとえば尊敬とか何か別の感情を徹底的に履き違えた勘違いだったとしても、今この瞬間にイツキがオレを本気で好きだというなら、このまま一生勘違いしてていいのに。ふとそう思った。思ってしまった。
「……リップクリーム買うか……」
 無人の売り場でひとりつぶやく。厨房のオーブンが、まるでオレの言葉に賛成するかのように焼き上がりを知らせるアラームを高らかに鳴り響かせた。



 翌日は土曜日で学校は休みだった。学校はなくても店は営業日だから、母さんは朝から厨房に入って開店前の仕込みをしている。そしてオレの方はいつもより少しだけ朝寝坊をして、八時半に自室のベッドから起き上がった。洗面所に入って顔を洗い、鏡の中にたたずむ自分を見て思う。いや目の下のクマすごいな、と。
 昨日は、イツキが帰ったあと焼きあがったサブレをパッキングして厨房を片づけてベッドに入ったのだけど、結局明け方までうまく眠れなかった。ベッドの中でスマホを眺めて、イツキからメッセージが来ていないことを確認する。スマホを握りしめたままうとうとと眠りに落ちかけたところで手の中の振動に起こされて、薄目を開けて画面を見ればまるで関係ない通知に腹を立てる。そんなことをしていたらすっかり寝不足になってしまった。店の開店時刻は十時だけど、オレはもう少し早く一時間前には母さんを手伝って準備を始めるから時間は結構ギリギリだ。
 大あくびをしながら店の制服に着替えてケーキの陳列をしていたら、カウベルが鳴って店の扉が開きイツキが顔を出した。壁の鳩時計を見ると時刻は九時五十分をさしている。
「おはよう」
「……おはようございます」
 イツキの声にいつもの元気がない。大丈夫か、と思いながらスタッフルームに入っていく細長い背中を見送って、やがて制服に着替えて出てきたイツキの目の下にも珍しく薄いクマが浮いていた。隣に来たイツキがケーキを冷蔵ショーケースに並べるオレを手伝いながらぽつりと言う。
「昨日はすみませんでした」
「え、うん、いや」
 あいまいな返事をするオレの顔を見ずに、ケーキを入れ終えたイツキはショーケースの引き戸をカチリと閉める。そして一言「もうしません」と言った。
「あんなこと。もう絶対にしません」
「もうしないんだ」
「先輩?」
「イツキ。オレさ」
 踏み出すようなセリフを自分から言うには勇気がいる。だけど意を決して口を開いたちょうどその時、絶妙なタイミングで店の扉のカウベルが鳴ったのでイツキは「トングとトレイ片付けてきます」とオレの耳元でささやいて厨房に行ってしまった。開店の十時を知らせる壁の鳩時計の鳴き声とともに、オレたちと同い年くらいの若い女性客が店内を見回しながら入ってくる。
「いらっしゃいませ」
 オレの声に会釈を返して、女性客は時間をかけてショーケースからケーキを二つ選んだ。オレは注文されたケーキを箱に入れてレジを打つ。
「……あの」
「はい?」
 千切ったレシートと一緒にお釣りを渡した時、受け取った女性客がおずおずと声をかけてきた。
「これ、アルバイトの鷲沢君に渡してもらえますか」
「イツキに?」
 目の前に差し出されたのは真っ白な封筒だった。反射で受け取ってしまってからオレはすぐに気づく。あ、これ受け取っちゃダメなやつだ、と。
「あの、うちの店ではこういうのは」
 顔を上げて声を発した時にはすでに遅かった。カウベルの乾いた音と共に扉は閉まり、女性客の姿は店内から跡形もなく消えている。足が速い。
「マジかよ……」
 イツキ宛の白い封筒。これはきっと噂に聞くラブレターというやつに違いない。開けばきっとうちの店で出している生菓子も顔負けの甘い言葉がせつせつと綴られているんだろう。連絡先とかも書いてあるんだろう。そんなことを想像して封筒を手にしたままレジ前に突っ立っていたら、後ろからポンと肩を叩かれてオレは思わず飛び上がってしまった。
「ぎゃっ」
「ぎゃっ、は酷いです先輩。……なんですかそれ」
 背後に立つイツキが手元を覗き込んできた。オレは封筒を隠すか見せるか瞬間的に迷って、そしてその一瞬の躊躇のせいで肩越しに伸びてきたイツキの指に封筒はあっさりつまみあげられてしまう。
「手紙?」
「そ、そう。さっきお客さんに渡されちゃって。返そうとした時にはもういなくて」
「先輩なに焦ってるんですか。知ってる人だったんですか。もしかして高校の誰かですか。なにか後ろめたいことでもあるんですか」
 白い封筒を持ったままイツキが額に青筋を立てながら顔面の圧をかけてきたので、オレはとっさに意味を図りかねて目をぱちぱちさせる。
「オレの先輩に手出すとかマジで無い……」
「おまえの先輩ではないけどな」
 反射的に冷たく訂正しながら、オレはもしかしてと口を開く。
「この手紙、オレ宛じゃないけど」
「は?」
 それを聞いたイツキがぽかんと口を開けたのでやっぱりな、と思う。どうやら誤解していたみたいだ。
「おまえ宛。バイトの鷲沢君に渡してくださいだって」
「なんだ。それを早く言ってくださいよ」
「おまえが早とちりしただけだろ。オレはラブレターなんてもらったこともないよ」
 オレの言葉に、なぜかイツキがムッとした顔になった。
「世間は見る目がなさすぎです」
「おまえが物好きなだけだから」
 そう言いながらも、オレはイツキの手の中の白い封筒から目が離せなかった。なあそれ、と言いかけたところでまた扉のカウベルが鳴る。にぎやかに話しながら入ってきた家族連れのお客さんに、オレは気を取り直して「いらっしゃいませ」と声を投げた。



 その日のバイト終わり。スタッフルームに入るイツキの後ろをオレはのこのこついて行った。用もないのに部屋に入って後ろ手にドアを閉めるオレを不思議そうに見ながら、イツキはバイトの制服を脱ぐ。Tシャツ姿のイツキにオレは重い口を開いた。
「あの手紙、読んだ?」
「ああ、はい一応。ラブレターと決まったわけじゃなかったですし」
「ラブレターじゃなかった?」
「いえ。ラブレターでした」
 イツキは小さく息を吐いて言った。
「明日の十時に東公園で待ってます、って」
「行くの?」
「はい?」
 イツキが、どうしてそんなことを聞くんだと言いたげな顔でオレを見返してくる。その不審そうな視線から逃げるように目を逸らしたオレの耳に、イツキの静かな声が届いた。
「先輩はオレに行ってほしいですか」
「え?」
「オレが行きますって言ったら先輩はどうしますか」
「どうするって、それは」
 時間稼ぎのようなつぶやきをしながら、オレは胸の鼓動がどんどん速まっていくのを感じていた。あの子はイツキに告白した。手紙という間接的な手段を取ってはいても、それは勇気ある勇敢な行動だ。だからあの子にはイツキとそういう話をする権利がある。それにひきかえオレはといえば、手紙の行方は気にするくせにはぐらかしてごまかしてずっと逃げてばかりじゃないか。
(それに、イツキはいい奴だから)
(オレじゃなくて普通に可愛い女の子と付き合った方が)
 イツキの幸せなんじゃないか。今ここでオレがあやふやな気持ちのまま駄々をこねてイツキを引き止めて、ちゃんと付き合う覚悟もないくせに思わせぶりな態度でいつまでもイツキを振り回して、そんなの途方もなく間違っているんじゃないか。だったら。
「……イツキが行きたいなら行けばいい。オレに止める権利なんか」
「わかりました」
 言い募るオレの言葉をイツキが途中でさえぎった。ハッとして顔を上げると一瞬だけ泣きそうなイツキの表情が見えた気がして、でもすぐに背中を向けられてしまってそれを確かめることはできなかった。
「イツキ、あの」
「わかりました明日会って来ます。おつかれさまでした」
 言い捨てるような言葉を残して、イツキはバッグをつかんでスタッフルームを出て行く。音を立てて扉が閉まった。



 好きな相手に好きだと伝える勇気。それはすごいことだと素直に思う。オレにはとてもできない。できそうにない。
(でも、それを言うならイツキだって)
 その勇敢な行為を、初めて会った日から何度も何度も繰り返しオレにぶつけてきてくれていた。首を曲げてベッドサイドの置き時計を見る。九時二十分。昨夜はぐるぐる考えているうちにバイトの疲れでいつのまにか寝てしまっていたのだ。イツキはもう身支度をして家を出ただろうか。きっとめいっぱいお洒落してきているだろうあの子と会って、あらためて告白されて、イツキが昨日オレに失恋したと考えているならその真摯な告白に心揺らぐことだってあるんじゃないのか。さっきから頭の中は嫌になるくらいイツキのことばかりだ。
「ああもう!」
 オレはがばりと身を起こして枕をつかむと部屋の壁に思いきり投げつけた。バウンドして床に落ちる哀れな枕に背を向けてベッドに逆戻りして荒い息を吐く。イツキを傷つけた。そうしたいならそうしろだなんて、責任逃れもはなはだしい最低な言葉だ。はっきりと拒絶して突き離してこなかった時点でオレはとっくに傍観者ではなく当事者だったのに。
 デジタル時計の数字が九時三十分を示した時、オレはたまらずベッドから跳ね起きた。



 東公園は広い。園内にはテニスコートも屋外プールも陸上競技場もイベントに使われる広場もなんでもある。ふたりがどこで待ち合わせているのか手紙を読んでいないオレには分からない。分かっているのは『東公園のどこかに朝十時』たったそれだけ。
 よく晴れた日曜日の朝で公園の人出は多かった。風船を持った親子連れ、犬の散歩をする老人、ジョギングをするカップル、部活の試合に来たらしきジャージ姿の中高生の群れ。オレはその中にイツキの姿を探して広い公園を駆け回った。大丈夫だ、あいつは目立つ。どんな人波の中にいたってきっとオレはイツキを見つけられる。そんな根拠のない自信を支えに目を凝らしながら走り続けて、だけど。
「いない……」
 イツキの姿もあの子の姿もどこにも見つけられない。走りすぎて息が上がって、膝に手をついて呼吸を整えるオレの脇をアップ中らしき運動部員たちの列が通り過ぎていく。ファイオー、ファイオー、と運動部特有の掛け声が耳に届いてオレは顔を上げた。そうだな、ありがとな、そんな意味のないエール返しを胸中でつぶやいてそして同時に思う。オレはいったい何をしてるんだろうと。
 家でじっとしていることがどうしてもできなくて衝動のままに駆け出してきたけれど、イツキとあの子を見つけたとしてオレは一体どうする気なんだ。あの子に土下座して謝って、イツキに行かないでくれと泣いてすがるんだろうか。公共の場で公衆の面前でそれはさすがに恥ずかしすぎる。オレらしくない。そう言ってオレの理性が殴りかからんばかりの勢いで止めに入ってきたけれど、オレは蒼天を見上げて少し笑った。
(なんかもう、それでもいいかも)
 最後の最後、今際の際になってこんな格好悪い手段しか残されていないのも、きっとイツキの思いをかわし続けてきたオレへの罰だ。恋愛がこんなに格好悪くて恥ずかしくていたたまれないものだなんてオレは知らなかったし、のたうち回るほど向いてないからどうか帰らせてくれと叫びたくなるけれど。
「それでイツキがそばにいてくれるなら、なんでもいい……」
「オレが、なんですか?」
「ぎゃあっ」
 思いがうっかり口から漏れていた。そして背後から突然話しかけられてオレは悲鳴を上げて振り返る。
「イツキ……!」
「はい。イツキですけど」
 きまじめに返す彼の背後につい確認するような視線を送ってしまう、そんなオレの仕草を見てイツキは顔をしかめた。
「誰もいませんよ。オレだけです」
「え、でもあの子は」
「ラブレターっていうのは嘘です」
「は?」
 イツキは上着のポケットから端を切った白い封筒を取り出して、中に入っていた紙をオレに手渡してくる。派手な蛍光ピンク色の細長い帯のような紙が二枚。
「……ライブのチケット」
「友達がバンドでギター弾いてるんです。今度ミニライブに行く約束してて、チケット渡しにきてくれた子はドラマーですね。友達の彼女です」
「なんでおまえに直で渡さないわけ」
「すごくシャイな子なんですよ」
 そう言って、イツキはにっこり笑った。
「チケット、一枚は先輩の分です。ライブ一緒に行きましょ先輩」
「その前に! なんでラブレターだなんて嘘ついたんだよ!」
「なんでだと思いますか」
「質問返しやめろ」
「だって好きな人が手強(てごわ)すぎて全然振り向いてくれないから」
「おまえ結構悪い奴だよな」
「逃げ回るからいけないんですよ」
 ああ言えばこう言う。それを聞いたオレは言葉もなく脱力して深いため息をついた。数学のノートの時といい、イツキはなにかとオレを罠にはめようとしてくる。もっと正々堂々としろよと憤慨したくなったけれどそれは違うか。いくら真正面からぶつかってもオレがはぐらかすものだから、こんなトリッキーなことを企むしかなくなったのか。そもそも告白だってとっくにされてるわけだし、ごめんなイツキ。これに関しては全面的にオレが悪い。
「なあ。おまえの言う好きな人ってやっぱりオレなの」
 ぽつりと問いかけると、イツキはいよいよあきれ返った顔になった。昼の空に見えるのは太陽で夜の空に浮かぶのは月、そんな自明のことをあらためて聞かれたかのような表情で言う。
「オレの好きな人は世界広しといえどもただ一人だけです。小鳩トウマ先輩。まさかまだ伝わってなかったんですか」
「ごめん」
「何度聞かれても答えは変わりませんから」
「うん。そっか」
 ことさらにゆっくりと、言い含めるようなイツキの言葉にオレはうなずき口を開く。
「オレ今まで洋菓子のことしか頭になくてロクに恋愛経験もないんだけどさ」
 オレが何を言いたいのか分からないのだろう。小さく首をかしげながらも次の言葉を待っているイツキの目を見て、オレは言った。
「だけどオレがもし恋愛を始めるとしたら、相手はおまえがいい。ほかの奴じゃ嫌だ。オレは鷲沢イツキと恋愛ってやつをしてみたい」
 口から出してしまった言葉があまりに気恥ずかしくて、うつむくオレの頭の上で少しうわずったイツキの声が聞こえる。
「それは、トウマ先輩がオレの恋人になってくれるって意味で合ってますか」
「……合ってるよ」
「本当に?」
「本当に。だから走ってきたんだし」
 真剣に詰め寄られるとやっぱり照れる。靴先を見ながら答えるオレの目の前で、イツキが糸が切れたようにへなへなと地面にしゃがみ込んだ。そのまま組んだ腕の中に顔を伏せてしまったのでオレは慌てる。
「え、ちょ、イツキ大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょう……先輩がオレの恋人になってくれたんですよ……?」
「そうだな。今日からオレはおまえの彼氏だ。愛してるぞ」
「やめてくださいふざけないで」
 無理もたない心臓もたない。そんなことを小声でわめくイツキの隣にオレも一緒にしゃがみこむ。笑ってやろうと思っていたのに目の前の肩が子どもみたいに小さく震えていることに気づいてしまって、だからオレはその肩に手のひらで触れるとそっと温めるように包みこんでやった。



「先輩にオレの秘密を教えます」
 公園のベンチに腰掛けたイツキがそんなことを言い出したので、隣に座るオレは眉をひそめてその端正な顔を見た。遊具広場の片隅、少し遠くにボールを蹴り合う小学生や砂場で遊ぶ幼児の姿が見える。日差しが少し暑くなってきたので、オレたちは売店でそろって白いソフトクリームを買っていた。そしてお互いのコーンを持っていない方の手、すなわちイツキの左手とオレの右手は今ベンチの上でそっと重ねられている。
「おまえの秘密?」
「はい」
 指に少しだけ力を込めてオレの手を握って、イツキはぽつりぽつりと話し始めた。
「この公園で、このベンチで、オレ三ヶ月前にトウマ先輩に会ってるんです」
「え」
 イツキの言葉に驚いたオレは必死に記憶を探った。三ヶ月前といったら今年の三月、一年生から二年生に進級する合間の春休み。オレは長期休みともなればいつにも増して勇んで店の手伝いをしていたはずだけれど、この公園といえば。
「もしかして青空マルシェ?」
「正解です」
 イツキはうなずいて笑った。青空マルシェはこの公園で年に二回、春と秋に行われる屋外イベントだ。うちみたいな地域の飲食店や個人のクリエイターやワークショップ、フリーマーケットなんかが出店する地域のお祭りで、いつも大変な人出でにぎわうことで知られている。オレも母さんとパートのコバヤシさんと三人で小鳩洋菓子店として出店して、日持ちのするサブレやスコーンやカヌレを販売した。店舗の宣伝にもなるし学校の友人も来てくれて非日常的なイベントを大いに楽しんだ記憶があるけれど。
「オレ、おまえに会ってたの? その時?」
「はい。会話もしたんですよ」
 イツキはそう言ってまぶしい木漏れ日のなか柔らかく微笑んでみせた。
「先輩オレね。その日、死ぬつもりだったんです」



 今年の春、中学三年生だったイツキは第一志望だった私立高校を受験して落ちた。つまり自動的に滑り止めとして合格していた公立高校、つまりオレと同じ燕里高校に通うことが決まっていたのだと言う。
「第一志望っていっても、父親が熱烈に勧めてきてただけで。オレは燕里の自由な校風の方がむしろ気に入ってたんです」
 イツキが落ちた私立高校は、中学受験でも一度挑戦して落ちた学校の高等部だった。負け惜しみに聞こえても仕方ないですけど、と前置きしてイツキは語る。
「オレは中学受験でもうやりきったっていうか、諦めがついてました。でも父親が絶対リベンジしろ、高校から入れ、悔しくないのかってうるさくて。母校だから思い入れがあったんだと思いますけど。オレも一応ちゃんと勉強して、でもやっぱりダメで友達は受かったりとか色々あって。それで父親にまあまあ酷いなじられ方したんですよね」
 中学三年生、反抗期の真っ只中だったこともあり、合否発表後から冷戦状態だった父親とイツキはその日は休日の朝からささいなきっかけで激しい口論になった。そんな不毛な親子ゲンカの末にイツキは家を飛び出したのだという。
「腹は立つし悔しいし情けないしで感情ぐちゃぐちゃで、初めてもう消えてしまいたいって思いました。それで車に何度も轢かれかけながらふらふら通りがかったこの公園で、青空マルシェがやってて」
 とつとつと語られるイツキの話を、オレは黙って聞いていた。レジンのボールを蹴って遊んでいる子どもたちの歓声が少しだけ遠のいたように聞こえている。
「食欲なかったけど、オレあまいものは本当に好きだから目についたお店でなんとなくフィナンシェ買ったんです。そしたら香ばしくて美味しいだけじゃなくてすごく優しい味がして、これは単なる商品じゃない、誰かがひとつひとつ手作りで仕上げた作品なんだって気付いたんですよ。そしたらあんなに生きることに絶望してたはずが急に未練出てきて、恥ずかしいけどぼろぼろ泣いちゃったんですよね」
 オレは少しずつ思い出していた。三ヶ月前の青空マルシェ。ほぼ当日の朝までかけて必死で焼き上げた山盛りのフィナンシェ。苦労の甲斐あってよく売れたからお客さんひとりひとりのことは正直覚えていないけれど、この時のことは。
「そしたらお店から店員さんが走ってきて、大丈夫ですか具合悪いんですかってすごく心配してくれた。違うんです、あんまり美味しくてって泣きながら言ったら店員さんがそれ作ったのオレですって」
「……思い出した。あの人がイツキだったんだな」
 帽子にメガネで、しかもびっくりするくらい泣きじゃくっていたから顔は全然わからなかった。でも背が高くて服装も大人っぽかったから大学生かそれ以上か、とにかく年上だと思いこんでいた。だから今の今まで全く気付かなかった。
「オレが泣きやむまでずっと隣で背中をさすってくれた店員さんのことが忘れられなくて、考えて考えてようやくオレはあの人のことが好きなんだって自覚しました。それで小鳩洋菓子店のこと検索したらタウン誌のサイトにバイト募集って出てたから」
「電話したんだ」
「先輩のそばに行きたくて」
「勢い凄かったもんねおまえ」
 オレは笑って、重ねられたイツキの手を指に力を込めて握り返す。それに気づいたイツキもオレの手指の間に指を絡ませた。
「オレ意地悪だよ」
「先輩は優しいです」
「すごい人間でもないし」
「先輩の作るお菓子は世界一です」
「おまえ本当にオレのこと好きなんだ」
「大好きです。……先輩は?」
 指先から伝わる体温。そのあたたかさに触れながら見上げた初夏の空は澄みきった青さで、細い飛行機雲がどこまでも続くように伸びている。イツキの手を強く握り返したオレは、小さく笑って口を開いた。
「うん。オレも、大好きだよ」