***
「それ、俺にやらせて下さい」
手を挙げて立候補した途端、顧問の目が大きく見開いた。静寂に包まれ、全員が俺の顔をじっと見つめていた。
事の発端は、体育祭当日だった。本番を迎えて士気が更に高まる部室の雰囲気を、一瞬で切ってしまう悲しいお知らせ。副部長が風邪で休みの連絡が入ったのだ。
「指揮なら代理立てられるけど、問題はソロだな」
いつのまにか副部長のソロが、演奏の最大のパフォーマンスになっていた。指揮者が途中で楽器に持ち替え、演奏を披露する。アルトサックスの華やかなで迫力のある演奏が、より演奏に厚みを持たせる。そう言って顧問も納得していた。
でも副部長がいないのなら、ソロパートを追加する前の楽譜に戻さなければならない。でも、部の雰囲気的に落胆の色は拭えなかった。
気づくと、手を上げて立候補していた。何となく、相馬に背中を押された気がした。
「それ、俺にやらせて下さい」
周囲の反応は鈍かった。顧問は俺を見てから、半笑いで首を横に振る。
「クラじゃ音圧が足りないだろ。第一、練習もしてないし」
楽譜をチラリと一瞥する。連符が続くし難しいパートだ。同じサックスパートか、トランペットが吹く選択肢もある。けれど、サックスには他に一年しかいないし、トランペットでこの連符は厳しいだろう。
「音なら毎日聞いていたから覚えてます。音圧も問題ないです」
「いや、技術とかそういう問題じゃなくて」
「じゃあ何ですか」
眉毛をぐっと上げて見る。その目には小動物でも見るような、憐れみに似た色が見えた。
「なんか、顔についてます?」
口をつぐんだのを見て、部室から出た。わざとガニ股で歩き、肩がぶつかっても無視して走り出していた。苛立ちがあふれ出たせいで、周りがこちらを見ては、避けて道をあけていく。
顧問のあの目が憎らしい。技術力が足りないと訴えるのと、小さな女子供のように見るのは、別物の筈なのに。握った拳は徐々に震え始める。怒りの裏にあった、緊張が首筋を通っていく。
全員の前で見栄を切った手前、本当に俺に出来るのだろうかと、突発的な行動を取ったことへの不安が押し寄せてきていた。
「あ、千田先輩」
呼び止められて振り向く。金の刺繍が入った詰襟に、長ランと白い手袋。貫禄あるその姿に、いつもの相馬とは何か違う空気を感じた。前髪を上げているせいだろうか。大人びた雰囲気が濃くなる。
「そ、相馬か。良いじゃん、学ラン。すげー似合ってる」
「ありがとうございます。それよりどうされましたか、ものすごい剣幕で走ってましたけど」
引きつる笑顔に、筋肉が弛緩する。ダサい姿を見せたくないと思い、首を横に振った。
「何でもねーよ。ちょっと鬱憤を晴らしていただけだ。色々とちょっかい出してくる奴が多いからな。見た目だけで弱っちいって思われてよ。……まあ、普段から、靴箱にラブレター入れられたりとか、男なのに彼女になって欲しいとか、毎日のように言われているぐらいだしな。俺なんて、ちっぽけなもんだよ」
今になって愚痴ることではない。けれど、もう口に出したら止まらなかった。
「千田先輩。それはちょっとじゃないです。重大な事です」
両肩を掴まれ、相馬と真正面から目が合った。
「そういうの、許しちゃ駄目です。千田先輩は、こんなにも強くてかっこよくて、誇れる人なのに、表面しか見ないような奴に、耳を貸しては駄目なんです」
「……ちょ、ちょっと待て。今それを、ここで言う?」
「だから、女扱いして良いなんて言わないで下さい。先輩は、先輩のままでいて欲しいので」
光る色に見とれてしまう。秋の日差しを吸い込み、目の色が変化する。まるでチョコレートが溶けていくようだ。
「ずっと思ってました。なんで先輩って、じっと人の目を見るのかなって。俺の目、すごい見ますよね。のぞき込んで来る時、正直怖いんです。何を思っているのか、分からないから」
「……俺はただ」
「ただ、何ですか」
「……女扱いしても良いって言ったのは、相馬に恋愛対象として見て欲しかったからで」
「…え?」
「少しでも、意識して欲しいって思ったんだよ」
目を合わせるのが怖くて、左へと視線をずらす。すると、みるみるうちに、相馬の耳が赤くなっていく。それが頬へと伝染し、額に巻いたハチマキの白が、より映えて見えた。
「俺のこと、好きなんですか?」
「そうだよ。文句あるか」
「いえ、全然ないです。え、……あ、まじか。え、あ、待って下さい。整理させて下さい。いや、そんな時間もないか。開会式始まりますもんね。そのすぐ次に応援合戦が始まるし。……どうしよう。俺、集中できないかもしれません」
あまりにも素直過ぎる反応に、こちらまで顔が熱くなってきた。頬を手で隠し、泣いてもないのに目尻を拭う。何かで誤魔化さないと、見られているだけで恥ずかしかった。
「……返事とか、欲しいわけじゃねーから。ほら、団長だろ。もう行かないと、段取りとか確認しないといけないだろ」
逃げたい一心で腕を放そうとするが、力が強くて離れない。そのまま相馬に抱きしめられ、頬と頬が触れた。
「応援団の団長としては、生徒全員を鼓舞するために、やるつもりです。でも、俺は先輩を見てますから。だから、先輩も目を反らさないで見ていて下さい」
お互い頑張りましょうね、と言ってから、唇が額に触れる。小鳥がついばむようなキスに、これがキスで良いのか理解が追いつかない。走って行く後ろ姿を、ただ目で追いかける。あいつはいつも、あんな風に必死に走っている。
気づくとすでに怒りとか不安とか、全部が溶けて消え失せていた。
今の衝撃のせいで、胸の中にあった靄が晴れていく。相馬の何でも吹き飛ばしてしまう笑顔で頭がいっぱいになる。
落選組だから、何だ。普通科だから、何だ。そんなの全部言い訳に過ぎないと、相馬が教えてくれたじゃないか。
楽器を取りに行くと、部員たちが不安な顔をして駆け寄ってきた。
「千田先輩。本当にやるんですか。ぶっつけ本番で」
「あぁ」
心配ない、と言いかけた時に、顧問が間に割って入る。
「所詮応援団の盛り上げ役だ。気負いしなくても良い。コンクールの全国大会でもないんだからな」
倉田先生の手に持っているのは、コンクールの自由曲と課題曲。先生が今ここにいるのだって、強制的に顧問は行事に参加するように、という上からの指示があったからだろう。それでも構わない。
ぎゃふんと言わせてやりたい。無様な顔を見て、すっきりしたい。それは、俺自身も同じだ。
「コンクールでもなければ、ここはホールですらない。でも、本気で吹きます。こんな大勢の前で演奏できる機会なんて、コンクールでも滅多にないですから」
マンモス校ならではの規模感だ。ここが晴れ舞台と言っても過言ではない。
いつもは大人しく、一言返事をするだけだった俺に驚きを隠せないのか、倉田先生は言葉を失ったようだった。もう、その目には見下すような色は映っておらず、目の下のクマがよに濃くなったように見えた。
「本番始まるので、行きましょう」
演奏の席に座ると、応援団の先頭に立つ、相馬の広い背中が見える。すると、整った鼻筋が見え、形の良い瞳がこちらを向く。そして宣言通り、じっとこちらを見てから、にやりと笑った。
「先輩!」
周りの騒々しさをかき消すような大声に、一瞬の静寂が生まれる。
「俺も、先輩のこと、めっちゃ好きです!」
声と声が重なり、上下にうねってざわめきが起こる。突然の告白に、チア部からも応援団からも、黄色い歓声とヤジが飛ぶ。一方で吹奏楽部内では、「今の誰に言ったの?」とさっきまでの緊張の糸が切れて、緩い雰囲気が出てきた。
顧問が見ているので、どこか強ばっていた部内の雰囲気が、今ので一気に砕けた。
見とけよ、この野郎。と、相馬を見る。それからソロ奏者の位置へと移動し、クラリネットを構える。キーに置いた指は軽い。音も良い。
チア部の息の合ったかけ声。応援団の地面から突き上げるような熱気と迫力。そこに突如現れた、クラリネットのソロパート。まるでサックスのような野太い音に、注目が集まる。
俺をどんな目で見ようと構わない。型に嵌めて来る奴も、レッテルを貼って笑う奴も、頼んでもいないのに、心配するフリをして満足する奴も。全部、俺が変わらなければならない理由にはなり得ない。そのままで良いと言った相馬を、大事にしたい。
もう、人の目が怖くない。怯えなくて良い。
お前に出会えて本当に良かったと、心の底から思う。
「それ、俺にやらせて下さい」
手を挙げて立候補した途端、顧問の目が大きく見開いた。静寂に包まれ、全員が俺の顔をじっと見つめていた。
事の発端は、体育祭当日だった。本番を迎えて士気が更に高まる部室の雰囲気を、一瞬で切ってしまう悲しいお知らせ。副部長が風邪で休みの連絡が入ったのだ。
「指揮なら代理立てられるけど、問題はソロだな」
いつのまにか副部長のソロが、演奏の最大のパフォーマンスになっていた。指揮者が途中で楽器に持ち替え、演奏を披露する。アルトサックスの華やかなで迫力のある演奏が、より演奏に厚みを持たせる。そう言って顧問も納得していた。
でも副部長がいないのなら、ソロパートを追加する前の楽譜に戻さなければならない。でも、部の雰囲気的に落胆の色は拭えなかった。
気づくと、手を上げて立候補していた。何となく、相馬に背中を押された気がした。
「それ、俺にやらせて下さい」
周囲の反応は鈍かった。顧問は俺を見てから、半笑いで首を横に振る。
「クラじゃ音圧が足りないだろ。第一、練習もしてないし」
楽譜をチラリと一瞥する。連符が続くし難しいパートだ。同じサックスパートか、トランペットが吹く選択肢もある。けれど、サックスには他に一年しかいないし、トランペットでこの連符は厳しいだろう。
「音なら毎日聞いていたから覚えてます。音圧も問題ないです」
「いや、技術とかそういう問題じゃなくて」
「じゃあ何ですか」
眉毛をぐっと上げて見る。その目には小動物でも見るような、憐れみに似た色が見えた。
「なんか、顔についてます?」
口をつぐんだのを見て、部室から出た。わざとガニ股で歩き、肩がぶつかっても無視して走り出していた。苛立ちがあふれ出たせいで、周りがこちらを見ては、避けて道をあけていく。
顧問のあの目が憎らしい。技術力が足りないと訴えるのと、小さな女子供のように見るのは、別物の筈なのに。握った拳は徐々に震え始める。怒りの裏にあった、緊張が首筋を通っていく。
全員の前で見栄を切った手前、本当に俺に出来るのだろうかと、突発的な行動を取ったことへの不安が押し寄せてきていた。
「あ、千田先輩」
呼び止められて振り向く。金の刺繍が入った詰襟に、長ランと白い手袋。貫禄あるその姿に、いつもの相馬とは何か違う空気を感じた。前髪を上げているせいだろうか。大人びた雰囲気が濃くなる。
「そ、相馬か。良いじゃん、学ラン。すげー似合ってる」
「ありがとうございます。それよりどうされましたか、ものすごい剣幕で走ってましたけど」
引きつる笑顔に、筋肉が弛緩する。ダサい姿を見せたくないと思い、首を横に振った。
「何でもねーよ。ちょっと鬱憤を晴らしていただけだ。色々とちょっかい出してくる奴が多いからな。見た目だけで弱っちいって思われてよ。……まあ、普段から、靴箱にラブレター入れられたりとか、男なのに彼女になって欲しいとか、毎日のように言われているぐらいだしな。俺なんて、ちっぽけなもんだよ」
今になって愚痴ることではない。けれど、もう口に出したら止まらなかった。
「千田先輩。それはちょっとじゃないです。重大な事です」
両肩を掴まれ、相馬と真正面から目が合った。
「そういうの、許しちゃ駄目です。千田先輩は、こんなにも強くてかっこよくて、誇れる人なのに、表面しか見ないような奴に、耳を貸しては駄目なんです」
「……ちょ、ちょっと待て。今それを、ここで言う?」
「だから、女扱いして良いなんて言わないで下さい。先輩は、先輩のままでいて欲しいので」
光る色に見とれてしまう。秋の日差しを吸い込み、目の色が変化する。まるでチョコレートが溶けていくようだ。
「ずっと思ってました。なんで先輩って、じっと人の目を見るのかなって。俺の目、すごい見ますよね。のぞき込んで来る時、正直怖いんです。何を思っているのか、分からないから」
「……俺はただ」
「ただ、何ですか」
「……女扱いしても良いって言ったのは、相馬に恋愛対象として見て欲しかったからで」
「…え?」
「少しでも、意識して欲しいって思ったんだよ」
目を合わせるのが怖くて、左へと視線をずらす。すると、みるみるうちに、相馬の耳が赤くなっていく。それが頬へと伝染し、額に巻いたハチマキの白が、より映えて見えた。
「俺のこと、好きなんですか?」
「そうだよ。文句あるか」
「いえ、全然ないです。え、……あ、まじか。え、あ、待って下さい。整理させて下さい。いや、そんな時間もないか。開会式始まりますもんね。そのすぐ次に応援合戦が始まるし。……どうしよう。俺、集中できないかもしれません」
あまりにも素直過ぎる反応に、こちらまで顔が熱くなってきた。頬を手で隠し、泣いてもないのに目尻を拭う。何かで誤魔化さないと、見られているだけで恥ずかしかった。
「……返事とか、欲しいわけじゃねーから。ほら、団長だろ。もう行かないと、段取りとか確認しないといけないだろ」
逃げたい一心で腕を放そうとするが、力が強くて離れない。そのまま相馬に抱きしめられ、頬と頬が触れた。
「応援団の団長としては、生徒全員を鼓舞するために、やるつもりです。でも、俺は先輩を見てますから。だから、先輩も目を反らさないで見ていて下さい」
お互い頑張りましょうね、と言ってから、唇が額に触れる。小鳥がついばむようなキスに、これがキスで良いのか理解が追いつかない。走って行く後ろ姿を、ただ目で追いかける。あいつはいつも、あんな風に必死に走っている。
気づくとすでに怒りとか不安とか、全部が溶けて消え失せていた。
今の衝撃のせいで、胸の中にあった靄が晴れていく。相馬の何でも吹き飛ばしてしまう笑顔で頭がいっぱいになる。
落選組だから、何だ。普通科だから、何だ。そんなの全部言い訳に過ぎないと、相馬が教えてくれたじゃないか。
楽器を取りに行くと、部員たちが不安な顔をして駆け寄ってきた。
「千田先輩。本当にやるんですか。ぶっつけ本番で」
「あぁ」
心配ない、と言いかけた時に、顧問が間に割って入る。
「所詮応援団の盛り上げ役だ。気負いしなくても良い。コンクールの全国大会でもないんだからな」
倉田先生の手に持っているのは、コンクールの自由曲と課題曲。先生が今ここにいるのだって、強制的に顧問は行事に参加するように、という上からの指示があったからだろう。それでも構わない。
ぎゃふんと言わせてやりたい。無様な顔を見て、すっきりしたい。それは、俺自身も同じだ。
「コンクールでもなければ、ここはホールですらない。でも、本気で吹きます。こんな大勢の前で演奏できる機会なんて、コンクールでも滅多にないですから」
マンモス校ならではの規模感だ。ここが晴れ舞台と言っても過言ではない。
いつもは大人しく、一言返事をするだけだった俺に驚きを隠せないのか、倉田先生は言葉を失ったようだった。もう、その目には見下すような色は映っておらず、目の下のクマがよに濃くなったように見えた。
「本番始まるので、行きましょう」
演奏の席に座ると、応援団の先頭に立つ、相馬の広い背中が見える。すると、整った鼻筋が見え、形の良い瞳がこちらを向く。そして宣言通り、じっとこちらを見てから、にやりと笑った。
「先輩!」
周りの騒々しさをかき消すような大声に、一瞬の静寂が生まれる。
「俺も、先輩のこと、めっちゃ好きです!」
声と声が重なり、上下にうねってざわめきが起こる。突然の告白に、チア部からも応援団からも、黄色い歓声とヤジが飛ぶ。一方で吹奏楽部内では、「今の誰に言ったの?」とさっきまでの緊張の糸が切れて、緩い雰囲気が出てきた。
顧問が見ているので、どこか強ばっていた部内の雰囲気が、今ので一気に砕けた。
見とけよ、この野郎。と、相馬を見る。それからソロ奏者の位置へと移動し、クラリネットを構える。キーに置いた指は軽い。音も良い。
チア部の息の合ったかけ声。応援団の地面から突き上げるような熱気と迫力。そこに突如現れた、クラリネットのソロパート。まるでサックスのような野太い音に、注目が集まる。
俺をどんな目で見ようと構わない。型に嵌めて来る奴も、レッテルを貼って笑う奴も、頼んでもいないのに、心配するフリをして満足する奴も。全部、俺が変わらなければならない理由にはなり得ない。そのままで良いと言った相馬を、大事にしたい。
もう、人の目が怖くない。怯えなくて良い。
お前に出会えて本当に良かったと、心の底から思う。

