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「相馬くん」

副部長の声が大きかったので、そちらへと視線が集まる。2回目で打ち解けたのか、2人の間には和やかな雰囲気が漂っている。

「今日もよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

相馬は昨日、本当に泣いていただろうかと疑いたくなるほど、ケロッとした顔をしている。けれど、俺と目が合った途端に目に動揺が走り、耳が赤く染まる。それを見て、あぁ夢じゃなかったんだなと思えた。

「相馬。ちょっと」

チア部の部長が腕を組んだままで名前を呼ぶ。せっかくの笑顔が、少し歪んで苦虫を噛み潰した顔になる。副部長は2人を見て、含んだ笑顔と、何もかも分かったような「じゃあ、僕は邪魔だと思うから」とはけて行くのを、同時に観察する。

また、いつもの非常口へと消えて行くのを、気づかれないように追いかけた。悪いとは思いつつ、会話へと聞き耳を立てる。

「今日は、大丈夫なんだよね?」

「はい」

「前みたいな出来だったら、途中でも帰るから」

困るのは君なんだよ、と言っているのが分かる。けれど相馬の目から光は消えていなかった。

「練習は足りてます。後は俺が、役目を果たすだけなんで」

「当たり前でしょ」

そう言い捨てて、非常口が開く。思っていたよりすぐに終わったせいで、隠れるタイミングを失い、チア部の部長と目が合った。

「……あ、吹部の」

「どうも」

気まずい空気が流れるのと同時に、彼女も聞かれたことへの罪悪感があるらしい。ゆらゆら瞳が揺れてから、焦点が合った。

「今日も、よろしくお願いします」

悪い人ではないんだろうな、と思う。彼女も相馬に押し付けたい訳じゃない。ただ、文句を言う相手が、相馬しかいないだけで。

「よろしく、お願いします」

軽く頭を下げる。それから彼女は背中を向けてチア部の集団へと混ざりに行く。

分かっている筈なのに、つい呼び止めていた。

「あの」

「……え?」

口の端をぎゅっと噛んでから、口を開いた。

「すみません。正直、吹奏楽部は部員間でも、落選組の仕事だって言って、片手間に演奏をしていました。応援団もチア部も、必死に練習しているのに」

「それは構いません。我々にとっての晴れ舞台がどこにあるかの違いですし。むしろ吹部の人には、手伝ってもらえるだけで有り難いので」

「手伝いじゃないです。こっちも必死に練習しないといけなかったと反省してます」

そう言ってから、副部長を指差す。

「あの人、応援団の団長に感化されて、練習量を増やすようになったんです。ずっと落ちこぼれ扱いされていたから、やっと自分たちの意味が見出せて嬉しいんです。それは、僕らも同じなんで。……だから、線引きせずに、聞いて欲しくて」

「……」

「相馬君のおかげで、今年の応援合戦はより良いものになると思ってます。それだけ、言っておこうと思って」

じゃ、自分はこれで。と足早に去る。柄にもないことをしたせいで、心臓の音がバクバクとうるさい。少しは先輩っぽい事ができたかもしれない。

そう思えば、羞恥心だって小さくする事ができる。

**

合同練習は予定通り始まった。
楽譜を見る延長線で、ちらりと視線を向ける。団員の何人かが、バランスを崩して膝を地面につく。その顔には苦笑い。あぁ、これが昨日、相馬が言っていた奴か、となんの反省も見えない団員の顔を、遠目から睨む。

相馬は優しい。優しいから、部が締まらない。後輩だから。普通科だから。あげればキリが無いほど、あいつには舐められる要因があり過ぎる。

ふっ、と両手が下にさがった。相馬がくるりと向きを変えて、振りを間違えた団員の方へと歩いて行く。その一歩一歩をじっと見守る。

皆が彼の行動を確かめようとしていた。

「……先輩。そこの振り、昨日も指摘ありましたよね」

「たまたまだよ」

「俺が言った居残り練習、ちゃんとやりましたか?」

子供を諭すような口調だ。これでは逆撫でするんじゃ無いかとヒヤヒヤする。

「相馬。お前焦ってんのは分かるけど、チアと吹奏楽部止めてまで、ここで怒るのは違うだろ。……見せしめにして、辱めるのが団長の仕事か?」

こういえば、相馬は大人しく引き下がる。というマニュアルでもあるのか、スラスラと言い訳と文句が同時に出てくる。相馬はこういうのに耐えてたんだな、と苦しげな横顔を見た。

「先輩。何で俺が団長になったのか、ずっと考えてました。俺に出来ることは何なのか。普通科で特別目立った成績も持たない俺が、どうやったら威厳を持てるのか。……答えは、あれです」

すっと指差す先は、ついさっきまで相馬が立っていた場所だった。

「俺の仕事は、応援団の先頭に立つことです。1番目立つ場所。ミスの許されない場所。応援団の顔です。見せしめっていうのは、先輩じゃなくて、俺みたいな奴に言うのだと思います。いくら先輩が失敗しても、こうして注意をしたって、本番同じミスをしても大ごとにはなりません。なぜなら、団長は俺だから。先頭の人間が1番注目される。周りの人間をカバー出来る。裏を返せば、他は目立たない。だから」

目に力が入る。こめかみに皺が寄っていた。

「辞めましょう。不名誉なことで目立つのは、俺だけで十分です」

矢面に立つとは、こういう事だ。損な立ち回りを強いられ、それに抗う事ができずに、チア部からも部員からも冷たい目で睨まれる。

相馬は良い奴だ。太陽みたいだ。でも、その光に慣れてしまい、周りが当たり前のように扱ってしまうのはいけない。誰かが気づいてやらないといけない。

ミスをした先輩部員は、まだ不服そうだったけれど大人しく口を閉じた。多分、あの人は体育科の人だ。しょうもない事で問題を起こしたく無いのは、互いに一致しているのだろう。

チアの方を見ると、部長の鋭い視線がいつもよりも和らいで見える。

その後は何事も無かったように、合同練習は終了した。いつもは穏やかな雰囲気なのに、相馬の意外な一面が垣間見えたせいか、空気がピリッとしていて、副部長も「俺たちも行くか」と早めに撤収して行った。

相馬に声を掛けたかったけれど、姿はどこにも見当たらなかった。体育館にも非常口にもいない。通りがかった応援団の1人を呼び止める。

「あの、相馬どこ行きました?」

何も気にせず呼び止めたが、俺の顔を見て表情に気味の悪さを感じる。吟味するような、好奇心が渦巻いた顔だった。

「えっ、吹部の子?めちゃくちゃ可愛いんだけど」

しまった、と自分の服装を見下ろす。部活の練習中は体操服なので、知らない人からだと、女に間違われるのだ。いつもなら、こうならないよう気をつけていたのに、油断していた。

時間をロスしたくなくて、「知らないなら良いです」と無視する。けれど咄嗟に二の腕を掴まれた。

「待って、待って。名前は……千田さんか。何年何組?」

「……離せよ」

「めっちゃ声掠れてるな。無理して声低くしてんの?」

股間に蹴りでも入れてやろうかと、ふくらはぎに力を入れる。でも、次の瞬間、体がふわっと軽くなった。二の腕から手が離れ、自由になる。

見上げると、相馬が間に立っていた。

「吹部の先輩を口説かないで下さい。ほら、さっさと撤収しましょう」

「げ、お前かよ。……俺らを侮辱して、今までの当てつけか?なんか嫌な奴になっちまったな、相馬」

舌打ちして去って行くのを待ち、ぎゅっと手を握る。その大きな手の温もりに安心感を覚えるが、すぐに気づいた。震えている。ずっと小刻みに指先から振動が伝わってきた。

「相馬。お前、大丈夫か」

「……大丈夫じゃないんで、一旦どこかに避難して良いっすか」

すぐには人のいない場所が見つからず、昨日いた器具庫の中へと入る。少し薄暗いので、相馬の顔があまり見えなかった。

「頑張ったな。先輩にちゃんと、言いたい事言えて」

「全然です。むしろ、心を鬼にできない自分の弱さに嫌気がさします」

せっかく一皮剥けたと思っていたのに、相馬の手応えは良くないらしかった。繊細な部分に触れる時は、理解しようとしてはいけない。人の心を全部解明することなんて出来ないのだ。

体育座りで座り込み、ぽんと頭を撫でた。

「さっきは、さんきゅ。助かったわ」

「……今になって、ようやく千田先輩が俺を警戒していた意味が分かった気がします。めちゃくちゃ男に狙われてるんですね」

「お前は例外だけどな。他のやつと全然態度違うし」

「……やっぱり優しいっすね。先輩は。俺なんて好青年をやっているだけの狡い奴なのに」

「演じるのにも、才能がないと無理だろ」

「その褒め方はやだなぁ。もっと別の方法で慰めて下さいよ」

ははっ、と軽い笑い声が響く。慰めるって言っても、今まで散々励ましたり慰めたりして来たつもりなのだが。悩んでいると、まだ手を握ったままである事に気がついた。

「じゃあさ」

「はい」

「俺の事、今だけ女扱いして良いぞ」

「……はい?」

「俺の顔好きなんだろ。彼女にはなれねーけど、フリぐらいならしてやる。今だけ」

「めっちゃ擦りますね。俺の失言」

「どうなんだよ。慰めになるか?」

 半分は冗談のつもりだった。落ち込む相馬を、元気づける為の、ちょっとした遊び心だった。けれど次の瞬間、体重が前に倒れ、胸の中へと顔を埋める形になる。柔軟剤と制汗剤が混ざった匂いがした。それがあまりにリアルで、息の仕方を少しの間忘れてしまう。

 耳元に息が当たって、くずぐったかった。

「……死ぬ程嫌がってたじゃないですか、女の子扱いされる事。それじゃ、先輩への嫌がらせになります」

「良いよ、別に。相馬なら」

これは本心だ。取り繕ってなんかいない。

「お前なら、嫌じゃない」

すると、握っていた手に力が入る。体制を変えて、正面からまっすぐ見つめられた。

「それは、どう言う意味ですか?揶揄ってます?それとも気を許してもらえたって素直に喜べば良いですか?」

声がいつもより擦れて聞こえる。なんとなく、怒っている気がした。

「相馬?」

「すみません。それは、出来ないです。……でも、ありがとうございます。気持ちだけ貰いますね」

手が解けて相馬が先に立ち上がる。「ほら、もう帰りましょう」と先を行く。

言葉を間違えたと思った。そんなつもりで言ったんじゃないのに。俺への誤解を解きたい一心だったのに、どんどんと違う方向へ加速する。

相馬は殻を破るために踏み出したのに、俺はまだ自分の本心を伝えられていない。

男の俺を好きになって。と、言いたいのに。それだけが、どうしても言えない。