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「フォンダンショコラって不思議ですよね。チョコの中からチョコが溶け出していくんですよ。なんで同じ温度で焼いているのに、中だけが液体になるんですかね」

「俺も詳しくは知らないけれど、焼き加減によって変わるんじゃないのか?」

「さすが先輩。お詳しい」

「何だよ、その前置き。……まさか、フォンダンショコラ買ってきたのか?」

「まさかと思うでしょ?ところが残念、俺の薄い財布では買えませんでした。普通の板チョコとアポロとグミチョコです。安上がりですみません」

「何で1回、自分でハードル上げたんだよ」

まあまあ、と笑いながら半透明のビニール袋を渡して来る。中を見ると宣言通りの内容物。しかし、一つだけ違うものが紛れ込んでいた。部活中、何度も何度も目にしている紺色の箱に、つい声が漏れた。

「リード?なんで」

「だって千田先輩、楽器屋さんでそれをじっと見てたじゃないですか。番号の意味はよく分からなかったので、店員さんに聞きました。薄さによって音が変わるって。細かい事は分からなかったけれど、詫びの気持ちと思って受け取って下さい」

リードは見た目以上に値段が高い。フォンダンショコラのワンホール分と同等ぐらいはするだろう。

「……サプライズのつもりか?」

「格好つけたかっただけです。シンプルに俺からのプレゼントだと思ってくれれば」

「ちょっと感動したわ」

「お、それは嬉しい。千田先輩が褒めてくれるのは2回目ですね」

「そうだな」

すると、相馬の笑みが少し歪む。耳をかいてから、一呼吸置いた。

「先輩。何か今日、やけに素直ですね」

 褒めるのは上手いのに、褒められる事には弱いらしい。相馬の耳の先が赤く染まっていく。こうして人間味を帯びていく度に、相馬への好奇心が積もっていく。手を伸ばし、赤くなった耳をぎゅっと掴んでやった。

「何ですか、先輩。あんまり揶揄わないで欲しいんですけど」

こいつの目の色が好きだ。迷いがなく素直で綺麗で透き通っている。ただじっと見つめているだけで、その熱でじゅわっと中身が溶けていく。

「相馬はさ」

「はい」

俺が女子だったら良かったのに、って思うか?

そう言いかけて、止めた。徐々に正気が戻って来る。一時的な感情の昂りで、最も言ってはいけないことを口にしそうになった。

手を離してから、唇を軽く噛む。「やっぱ、いいや」と何でもないフリをして顔を上げる。

けれど相馬の顔は、さっきよりもずっと赤く染まっていた。

「顔真っ赤だぞ、お前」

「え?あ、いや。なんて言うか。……はは、今日駄目だな、俺。先輩に恥ずかしい所ばっかり見せちゃってるんで」

「……言いたいことあるなら、言えよ」

「怒らないで下さいよ。先に保険かけときますけど」

「おう」

「可愛いな、とはずっと思ってたんです。先輩の顔。だから、あんまり至近距離で見つめられると、照れるんです。すんません」

急に声を失ったように、喉が動かなかった。動揺で視線が定まらず、一歩身を引く。それが避けていると捉えられたらしく、相馬の乾いた声が漏れ出た。

「けど、それは俺の好みの話で、先輩を女の子扱いしている訳じゃないです。好きとか言われても、嫌でしょ。そういうのじゃないから、無視してくれて良いですよ。……って言っても、気持ち悪いですよね。後輩の男に可愛いとか言われたら。自分から言ったくせに、ちょっと後悔してます」

相馬がそう考えるのは、当然だろう。俺がずっと女扱いされることを毛嫌いしてきたのを知っているから。でも、可愛いと言われるのは嫌じゃなかった。男か女かで判断しない相馬から言われるなんて、むしろ嬉しい。

そこまで考えてから、気づく。きっと、こいつは、俺が同性愛を嫌がっているのだと思ったのだと。

本当は逆なのに。

 女の子みたいに可愛くて。身長も低くて小柄で。甘い物まで好きなんでしょ。じゃあ、女の子扱いしたって問題無いよね。

 それを否定すると、必然的に尾びれがつく。「じゃあ、恋愛対象は、女の子なんだ」と。
矛盾している感情の中で、ずっとせめぎ合ってきた。全部の理屈が裏返しになり、自分に返って来る。これをどう説明したら良いのかも分からず、背中を向けていってしまう相馬を止める事はできなかった。

**

次の日、その次の日も、相馬には会えなかった。応援団の練習に顔を出せば良いものを、相馬の熱に当てられてか、うちの副部長が練習に精を出すようになり、落選組にもかかわらず、毎日遅くまで曲の練習を始めていた。

しまいには、指揮者であるにも関わらず、自分のソロパートまで曲に組み込んできたのだ。アルトサックスを片手に、途中から参戦するつもりらしい。部員から批判の声はあったけれど、実力はある人だ。難しい連符を派手に噛ましてくれるのであれば、やった方がキマる。

副部長の中では、相馬の存在がどんどんと大きくなっているらしかった。練習を始める前、必ず「俺たちがいるから、一軍メンバーも安心して上を目指せる。今日も頑張っていこう」と宣言する。完全に受け売りなのに、我が物顔なところが、ちょっと愛嬌あるんだよなと部員の中でも空気を良くしていた。

「副部長」

教室に1人籠もって練習する背中に声をかける。1年の後輩が、基礎練の楽譜を無くしたらしく、追加でコピーを頼みたかったのだ。

いつもなら二つ返事で引き受けるけれど、今日の彼は違っていた。

「そういう雑務は、今度から1年に任せよう。難しい事でもないしな」

「……あぁ、そうだな」

ずっと副部長の立場でありながら、落選組にいたコンプレックスからか、雑務は俺がすると自ら立候補していた。それが、相馬の一言でこんなにも変わるのか、と驚く。やる気を出すのは良いけれど、あまりに相馬を神格化し過ぎていないかと、少し不安になった。

「あと副部長。次の合同練習なんだけど」

「あぁ。さっき直接両方の部活と話して、明日にやろうって言う話になった」

「随分と急だな」

「チアの部長が、時間取れるのが直近だと明日しか無いってさ。相馬くんの方を見て、じっと何か意思疎通しているようにも見えたけど、可能性はあるなと思ったよ」

「可能性?」

「知らないのか?千田。あの2人ができてる可能性だよ。練習終わりに、よく非常階段で2人きりで話しているのを見かけるって噂があるんだよ。それぞれ先頭を切って走るもの同士、気が合うんだろうなと思ってさ」

「……そうか」

ぽつり、と返事をする。副部長のやる気が上がるのは良い。神格化も勝手にすれば良い。でも、こうして存在しない噂がどんどんと大きくなっていくのは心配だった。

俺だって、一度として女っぽい仕草をした事がないのに、あいつは女子になりたいとか、男に媚び売ってるとか、ひ弱な奴だと言われ続けている。これを止める事はできないんだろうな、と諦めている。

けれど、まだ火種が小さいうちは、対処の方法があると思った。

「その噂、あんまり広げるなよ。本人たちは今必死なんだから」

「え、千田。あの2人と親しいのか?」

「見ていれば分かるだろ。恋愛よりも、本番を成功させようって頑張っているんだから。余計な茶々入れるべきじゃない」

 それだけ言って教室から出て、その足で体育館へと向かった。

扉を少しだけ開けて覗くと、残っているのはチア部だけだった。明日合同練習があるのなら、残って練習してもおかしくないと思っていたけれど。校門の方を見やると、喋りながら自転車で帰っていく集団が、何人もいる。

チア部が額に汗を浮かべ、遅くまで練習しているのを見ると、たしかに熱量の差がありすぎるな、と妙に納得していた。

甲高い掛け声と、軽やかに舞う黄色と白と青。そのふわふわと可愛らしい動きを見て、相馬の言葉を思い出す。

「……可愛いって、なんだよ」

顔だけなのか。体は男だし、いくら小さくても肌は柔らかくないし、甘い匂いもしない。いくら可愛い顔をしたって、結局女ではないのだ。

ふと、視線を感じる。その先には、器具庫で俺をみる相馬の姿があった。けれど、目が合った瞬間に、わざとらしく逸らされてしまい、つい体が動いていた。

靴を脱ぎ捨て、滑りながらも体育館の端を走っていく。バスケットボールの入った籠のそばで、相馬が小さくなって隠れていた。

「お前、まだ残っていたのか」

「うす」

「なんで俺のこと避けてんだよ」

「いやいや、気まずいですよ。その場のノリとはいえ、あんな事言ったんだから」

「別になんとも思ってないから。応援団の練習は終わったのか?」

「まあ、ぼちぼち」

「チア部も部員もあんな感じだと、不満を吐き出せないだろ。色々溜まっているなら、愚痴聞くぞ。ほら、飯でも食って帰るぞ」

相馬の顔は赤かった。まだ照れているのかと、額に軽くデコピンする。今日は元気がないのか、声にも張りがなくて調子が悪そうだった。


**

電灯の光が点滅し、帰り道をうっすらと照らす。アスファルトに伸びる影が、徐々に伸びていく。

「相馬」

「はい」

「チョコ、ありがとな。美味かった」

「え?あ、あぁ。……それは嬉しいんですけど」

その後に、何かもごもごと言ったけど聞こえなかった。

「悪い。もっかい言って」

「……意を決して、今日、部の先輩に言ったんです。俺がコールする前、動きが乱れているから揃えませんかって。そしたら、何無理して頑張ってんのって言われて。お前が団長やっているのは、部の空気を良くするためだろって。自分から空気悪くしてどうするんだって」

そして、最後にか細い声で言う。

「俺の存在って何なんでしょうね」

こうしてちゃんと弱音を吐く姿を見るのは、初めてだった。ちゃんと思っている事、俺に言えるんだなと安堵する。

「相馬。少し前に、俺に何が好きか聞いたよな」

唐突な話に、相馬の目がこちらを向く。

「人からどう見られているか、嫌って言うほど思い知らされてから、何となく自分の好きな物も、口にするのが苦手でさ。でも相馬は馬鹿にしないって分かったから。だから、言っても良いと思った」

ぎこちない笑顔を浮かべてみる。人とこうして腹を割って話すのも初めてで慣れない。

「周りからどう見られているか、どんな風に思われているのか、痛いほど分かっているから、何も言えなくなる。人には言いにくい事。隠している事。……全部出せとは言わねーけど、嫌みの一つぐらい、出しても良いんじゃないか?俺がやっているみたいに」

「それやって、誰が喜びますか?」

「喜ばないけど。強いて言えば、お前自身と、俺も嬉しい」

「……はは、それはさすがに嘘でしょ」

「お前を神様だとか、従順な犬みないに思っている馬鹿な奴らを、ぎゃふんと言わせられる。その無様な顔を見れば、すっきりするだろ」

すると、「なんすか、それ」と声が漏れ出る。

「ありがとうございます。良いっすね、それ。めっちゃ楽しそうじゃないですか」

そう言ってから、ぽたり、と地面に雫が落ちる。雨が降ってきたのかと思ったけれど、相馬の目から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。

部活の内情とか、こいつが何を背負ってきたのかとか、俺は全然知らないけれど、きっといくつもの剣先を素手で受け止めていたんだろうな、と思う。

肩を引き寄せ、少し背伸びして背中をさすってやる。ぎゅっと握る拳の力が強くて、シャツに皺が寄った。でも、そんな事どうでも良い。

「お前は凄いよ」

慰めにも気休めにもならない言葉を吐いてみる。それでも相馬は何度も頷き、嗚咽を漏らした。

チカチカと点滅していた電灯がついに切れ、夜道に静かな静寂が漂っていた。