***
「その番号ってなんですか?」
店員に楽器を見て貰っている間、暇だったので、ぼんやりとリードの箱を眺めていると、相馬が不思議そうな顔をして聞いてくる。薄さが違うんだ、と説明したところで、楽器を触ったことのない奴には伝わらないだろう。言うのを諦めて、興味を別へ引きつけようと試みる。
「そういえば、応援団の練習。抜けて来て良かったのか?」
「平気です。あいつら気が抜けたのか、どうにもだらけてばっかで。ずっとスマホでショート動画ばっか見てるんです。注意する側としては心を鬼にしないといけないんですけど、人に怒るのはどうも苦手で頭が痛くて。むしろ、抜け出す口実ができて良かったっす」
「気が抜けた?本番近いのに」
「実は、前任の応援団長が、突然辞めたんです。つい1週間前に。しばらくは憶測が飛び交ってたんですけどね。彼女ができたとか、警察沙汰になる事件に巻き込まれたとか。……でも、偶然職員室で先生たちの会話が聞こえて。応援団長なんて、もう意味がないって放り投げちゃったらしいです」
笑っているけれど、言葉は乾いている。
「団長は体育科だから、大学推薦を狙っていたらしいんです。応援団長に立候補したのも、推薦書の評価に入れば良いって言っていました。でも、大会での成績が思うようにいかなくて、スランプ陥って自暴自棄。だったら応援団なんて、練習しても無駄だと思ったんでしょうね。そうやって放り捨てられたから、部の士気も下がっちゃって。気づけば伝染して、部員みんな、今までの事がどうでも良くなっちゃったんです。今年はもう良いかって感じで」
「じゃあ、なんで相馬が応援団長してるんだよ」
「誰もやりたくないからです」
「……責任を押しつけられて、引き受けたのか。お前、都合の良い奴になろうとしてるんじゃないか」
「都合の良い奴。そうかもしれません。でも、それは美化してます。ただ揉め事をこれ以上増やしたくなかっただけです。現状、うちの応援団は、例年のようには機能してませんから」
変だな、と思った。
相馬のことを、人に愛される力を持つお人好しで、誰からも好かれる典型的なタイプだと思っていた。けれど、表面の皮が捲れた途端に、別人の顔が見えてくる。
無理して平気な顔をしている姿を見ると、なんだこいつも同じ人間だったのかと理解した。
「……くくっ」
「……笑いました?人が悩んでるのに」
「別に馬鹿にしたんじゃない。……ふっ」
我慢できずにまた笑う。不満げな相馬を宥めているうちに、店員から声がかかった。
「お待たせしております。修理代の見積もりが終わりましたので、こちらへどうぞ」
店員は俺たち2人を交互に見る。これはまずいと思い、ぽんと相馬の肩を軽くこついた。
「お前は外で待っててくれ」
「なんでですか」
「いいから」
「今日は弁償するつもりできたんです。俺がここで財布の口を開かないで、何の役に立つんですか」
「金巻き上げるために連れて来たんじゃねーんだよ」
「じゃあなんで」
「それは……」
言いかけて辞める。店員さんがぽかんとしていたので、居た堪れなくなった。「すみません、楽器の所有者は自分なので」と、その場を収める。相馬は不満げな顔をしていたが、大人しく店の外で待たせることに成功した。
ウインドウの外を見やると、相馬は腕組みをして、片方の足に体重を乗せた状態のまま、じっとこちらを睨んでいた。楽器の修理費は高額だ。数万円はかかると知れば、更に責任を押し付けることになる。俺が恨んでいたら話は変わるが、別にあいつに弁償させたいわけではない。
「お待たせ」
「……レシート、見せて下さい」
「しつこいな。お前って帰りは電車?駅までなら送るよ」
「……千田先輩。好きな物なんですか」
「急に何だよ。お前から貰っても喜ばねーけど」
「どこまで捻くれてるんですか。そこは素直にありがとうで良いじゃないですか」
慣れて来たのか、口調が砕け始める。こちらの方が話しやすくて良い。
「義理堅いのは良いけど、そういうの嫌いなんだよ。女扱いされてる気分だから」
「……それ、ずっと言ってますね。女扱いするなって。俺別に、女とか男とか、性別で自分の行動に制限かけないです。ただ好きだと思った人には、良い奴でありたいと思ってるだけで」
「好き?」
「あ、もちろん恋愛的な意味じゃないです。友愛的な意味です」
「分かってる」
「でも千田先輩、ここの線引きちゃんとしてとかないと、また怒るでしょ」
軽く笑う相馬を睨みつける。こいつの眉が少しだけ上がったのは気のせいだろうか。口を手で多い、嘘っぽい咳をしてから向き直る。
「じゃあ、相馬は俺の顔を見て、一発で男だと分かったか?」
「え?」
「今まで、俺を女だと見間違えたことはなかったか?」
「はい。だって学ラン来てるし、歩き方も喋り方も、男らしいじゃないですか」
即答するのが余計怪しく思えて来る。気を遣って言っているのか、それとも本心なのか、今の一瞬では判断できなかった。
「俺は質問に答えました。じゃあ次は先輩の番ですね」
ぐっと顔が近づく。
「何が好きですか。これじゃ先輩の後ろついて来ただけで、サボりの口実にも使えないので教えて下さい」
圧に押されて、ぽろっと言葉が溢れた。
「チョコレート」
「チョコレート?何チョコレートですか」
「何でも好きだけど、トリュフチョコとか、フォンダンショコラとか。あと、ドバイチョコも」
「へぇ、おしゃれな名前ばっかりですね。どれもピンと来ないので、後で調べてみます」
カチカチ、とスマホでメモを取ってから、「じゃあ任務達成したんで帰ります」と背中を向けて行ってしまう。
「おい、駅まで送るって」
「道は覚えているので平気です。女性扱いしなくて大丈夫ですよ」
ひらひらと手を振るのにつられて、間抜けな顔で振り返してしまう。やっぱり変な奴だ。何をどうすれば、俺を好きの分類に割り当てるのだろう。悪態しかついていない筈なのに。
甘い物が好きだなんて、誰にも言ったことがなかった。口にした瞬間、あぁやっぱりね。口では反抗しても、そういう事なんだ。と、心の中で笑われるのが目に見えていたからだ。
ポケットに手を入れるとふにゃりと柔らかい感触が伝わる。そういえばマシュマロをもらったんだった、と袋を開く。
口に含むとじゅわーっと優しく溶けていく。舌全体に甘みが広がり、相馬が顔に触れた時の体温を思い出す。なぜか胸の奥が酷く苦しくなり、すぐに考えるのを辞めた。
**
体育祭が近づくなか、ついに応援団との合同練習が始まった。文化部と運動部で、見えない大きな隔たりがあるので、最初に必ず儀式として両者の挨拶から始まる。
チア部、応援団、吹奏楽部。それぞれの長がテントに集まる。相馬は直角90度のお辞儀をしてから、「よろしくお願いします」と最初に頭を下げた。あまりの声の大きさに、「さすが体育会系だね」と、争いを遠くから眺める貴族のように、部員内でひそひそと呟きが生まれる。
「あの応援団長の子、2年らしいね。普通科の人で団長って珍しくない?」
「余程人望があるか、実力があるんでしょ。顔からエネルギー出てるもん」
まあ、そうなるよな。と小声で話している女子の話を聞き流す。応援パフォーマンスはチアと応援団長が花形だ。俺たち奏者は裏方に徹する部分が強いだろう。
キーを押して、軽く指の動きを確認する。落選組の仕切りは副部長が行なっているので、挨拶をするのは彼の仕事だ。快活で愛想の良い相馬に、自ら話しかけに行く。
「今日は宜しくお願いいたします。すみません、うちは副部長の俺しかいなくて」
「わざわざありがとうございます。足引っ張らないように頑張ります」
副部長の表情は、分かりやすく緩んでいた。あの人、腰が低い割にプライド高いからな、と遠目から眺めてみる。
相馬は誰に対しても愛想が良く爽やかで、相手の目線に合わせて会話する。それが全て出来すぎていて、どうにも嘘っぽく感じる。
やっぱりあいつ、無理しているんじゃないか。と、別に友達でも部の先輩でもない立場から考える。相馬の目はいつと澄んでいて真っ直ぐだけれど、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。
一歩、前に出る。列からわざわざ外れた自分を見て、他の部員が「どうかした?」と、声を掛けてきたが聞こえないふりをする。その小さなざわつきに気づき、相馬の視線も俺の方へと向けられた。
カチリと目が合った瞬間、ふにゃりと眉が下がり、小さくお辞儀をしてきた。
じわりじわりと胸の奥が温かくなる。やっぱり、相馬の目は綺麗で好きだ。何の偏見も通さない、凛とした瞳に嬉しくなる。
それと同時に、また自己嫌悪が重なった。俺は女じゃない。女じゃないのに、媚びるような態度を取るのは変だ。楽器を持つ手に自然と力が入り、すぐに列へと戻った。
合同練習の基本は、演奏とダンス、それに掛け声があっているかを確かめる場なので、演奏のクオリティはほとんど求められない。俺達を例えるならば、指示すれば好きな所から再生できる、音楽プレーヤーみたいなものだ。
「今のところ、もう一回良いですか。チアと応援団の動きが合っていないので」
チアの部長がまっすぐ手を上げて言う。それが10回、20回と続いた。演奏する側は何度も何度も同じ箇所を吹かされて、くたくたになっていた。
「少し休憩にしませんか」
第一声にそう言ったのが、相馬だ。団長の声なら誰も否定はしない。各々が休息をとりにいく中、うちの副部長が相馬に声を掛けに行った。
「演奏の方、大丈夫そうですか?テンポが悪いとか、タイミングが取りにくいとか」
「全然大丈夫ですよ!むしろ物凄い勢いで仕上げて下さって、俺たちの方が焦っているというか」
「例年曲は一緒なので、練習時間が少なく済んでいるだけですよ。うちは一軍メンバーがコンクール近い分、落選組は暇なので」
はは、と後頭部をかいている。自虐も含んでいるが、これが俺たちの本音だ。落選組と呼ばれたら、必然的にこの反応になる。
気を遣わなくて良い、と副部長としては伝えたのだろうが、相馬は首を横に振って否定した。
「その呼び方変ですよ。野球とかでも2軍チームはファームっていうじゃないですか。育成やサポートがないと、本来の実力だって発揮できないんですから、我が物顔で立ってて欲しいです」
そう言ってから、視線がこちらに移る。相馬が何か合図を送って来る。パクパクと口を動かし、「あとで」と言ってから非常階段の方を指差す。
もしかして、俺に言ってる?とジェスチャーすると、コクコクと二度頷いた。
これ、少女漫画できゅんとするやつか。と、脳内で勝手に再生される。狙わずに素ですると、こんなにもウキウキするのかと感心してしまう。
応援団の演奏なんて、正直面倒臭いとしか思っていなかった。部のほとんどはそうだろう。けれど、相馬の前向きな姿勢と、今の言葉で励まされた部員は多いだろう。どれだけ自分で自分を励ましても、やっぱり周りからの素直な言葉が一番の救いになったりする。
下校のチャイムが鳴ったので、この日は練習がお開きとなった。挨拶を交わしてから、それぞれの部活が解散していく。
俺は非常口に行けば良いのか。相馬のあれは、解釈合ってるよな。と、手に力が入る。ドアノブを捻り、開いた隙間から声が聞こえて来る。ストライプ柄のスカートが見えたので、チア部の子が先客でいたらしく、声が聞こえてきた。
「やる気ある?団長」
ずしん、と重みのある声に腰が軽く引ける。さっきの軽やかで華やかな仕草からは想像できないような、芯のある怒りを感じ、自分が言われたわけでもないのに緊張した。
「俺の責任です。すみません。部員にも言っておきます」
「急に大役任されて、プレッシャー感じてるのは分かるよ。でもさ、選んだのは君でしょ?チアにも吹奏楽部にも、迷惑かける集団にだけはならないで」
「すみませんでした」
垂直のお辞儀。ぐっと唇を固く閉じ、何かを耐えている顔だ。相馬の人間らしい一面をまた見てしまった。表向きは取り繕っていても、どうしても感情だけは隠せないよな、とそっとドアノブを閉めた。
正直、今日の練習の何がそんなにまずかったかは分からない。演奏に集中していたのも理由だが、相馬の声もよく響いていたし、途中で流れが止まることもなかった。
「……分からんな、向こうの事は」
「何がですか?」
ふわっとシャンプーの匂いがする。目を上げると、いつもの茶褐色をした瞳で、相馬がニコニコと笑っていた。
「何でもない。ここで待っている間、ちょっと考え事してたんだよ。……それより、相馬。俺に何か用だったんだろ」
「あ、覚えていてくれたんすね。チョコレートを渡す約束してたじゃないですか。外に置いてると溶けるかもしれないんで、部室にあるんです。一緒にきてください」
腕を引かれるけれど、罪悪感がちらついて、体を一歩引く。ちらりと様子を伺った。
「悪い。さっきチア部との会話聞いちまった」
「……あぁ、俺が絞られてるところですか。あれ、もう3回目なんです。ポンコツだから、チアの部長も痺れを切らして。次また無様な所見せたら、今度は怒鳴られるかもしれないですね」
笑う顔に痛々しさはない。でも、その目を見ると分かる。お前、実は怒っているんじゃないか?
「相馬は声も1番出てたし、振り付けもコールも完璧だった。今日しか見てねーけど、お前一人で全部責任を背負うことないと思うけど」
「いやいや、毎年団長が全部背負ってるんです。これに耐えられなきゃ、失格ですよ。千田先輩の優しさは嬉しいです。でも、案外何ともないんで。さ、早く部室行きましょ。完全下校の時間過ぎちゃうんで」
優しい言葉は届かないか、と諦めた。慰めを連ねたって、学年は違うし部活の先輩でもないし、弱音を吐ける相手でもない。
それでも掛けられる言葉はないのか。
「でもさ、お前……」
「先輩」
頬を手で挟まれる。その指先は少し冷たかった。
「そんな可愛い顔して駄々こねないで下さい」
「こんな時まで、女扱いか」
「はは、その調子です。さ、行きましょ」
伸ばされた手にしがみつき、立ち上がる。相馬の冷たい指先に、少しでも温もりが伝われば良いのに、と無意識に手を握っている自分がいた。
「その番号ってなんですか?」
店員に楽器を見て貰っている間、暇だったので、ぼんやりとリードの箱を眺めていると、相馬が不思議そうな顔をして聞いてくる。薄さが違うんだ、と説明したところで、楽器を触ったことのない奴には伝わらないだろう。言うのを諦めて、興味を別へ引きつけようと試みる。
「そういえば、応援団の練習。抜けて来て良かったのか?」
「平気です。あいつら気が抜けたのか、どうにもだらけてばっかで。ずっとスマホでショート動画ばっか見てるんです。注意する側としては心を鬼にしないといけないんですけど、人に怒るのはどうも苦手で頭が痛くて。むしろ、抜け出す口実ができて良かったっす」
「気が抜けた?本番近いのに」
「実は、前任の応援団長が、突然辞めたんです。つい1週間前に。しばらくは憶測が飛び交ってたんですけどね。彼女ができたとか、警察沙汰になる事件に巻き込まれたとか。……でも、偶然職員室で先生たちの会話が聞こえて。応援団長なんて、もう意味がないって放り投げちゃったらしいです」
笑っているけれど、言葉は乾いている。
「団長は体育科だから、大学推薦を狙っていたらしいんです。応援団長に立候補したのも、推薦書の評価に入れば良いって言っていました。でも、大会での成績が思うようにいかなくて、スランプ陥って自暴自棄。だったら応援団なんて、練習しても無駄だと思ったんでしょうね。そうやって放り捨てられたから、部の士気も下がっちゃって。気づけば伝染して、部員みんな、今までの事がどうでも良くなっちゃったんです。今年はもう良いかって感じで」
「じゃあ、なんで相馬が応援団長してるんだよ」
「誰もやりたくないからです」
「……責任を押しつけられて、引き受けたのか。お前、都合の良い奴になろうとしてるんじゃないか」
「都合の良い奴。そうかもしれません。でも、それは美化してます。ただ揉め事をこれ以上増やしたくなかっただけです。現状、うちの応援団は、例年のようには機能してませんから」
変だな、と思った。
相馬のことを、人に愛される力を持つお人好しで、誰からも好かれる典型的なタイプだと思っていた。けれど、表面の皮が捲れた途端に、別人の顔が見えてくる。
無理して平気な顔をしている姿を見ると、なんだこいつも同じ人間だったのかと理解した。
「……くくっ」
「……笑いました?人が悩んでるのに」
「別に馬鹿にしたんじゃない。……ふっ」
我慢できずにまた笑う。不満げな相馬を宥めているうちに、店員から声がかかった。
「お待たせしております。修理代の見積もりが終わりましたので、こちらへどうぞ」
店員は俺たち2人を交互に見る。これはまずいと思い、ぽんと相馬の肩を軽くこついた。
「お前は外で待っててくれ」
「なんでですか」
「いいから」
「今日は弁償するつもりできたんです。俺がここで財布の口を開かないで、何の役に立つんですか」
「金巻き上げるために連れて来たんじゃねーんだよ」
「じゃあなんで」
「それは……」
言いかけて辞める。店員さんがぽかんとしていたので、居た堪れなくなった。「すみません、楽器の所有者は自分なので」と、その場を収める。相馬は不満げな顔をしていたが、大人しく店の外で待たせることに成功した。
ウインドウの外を見やると、相馬は腕組みをして、片方の足に体重を乗せた状態のまま、じっとこちらを睨んでいた。楽器の修理費は高額だ。数万円はかかると知れば、更に責任を押し付けることになる。俺が恨んでいたら話は変わるが、別にあいつに弁償させたいわけではない。
「お待たせ」
「……レシート、見せて下さい」
「しつこいな。お前って帰りは電車?駅までなら送るよ」
「……千田先輩。好きな物なんですか」
「急に何だよ。お前から貰っても喜ばねーけど」
「どこまで捻くれてるんですか。そこは素直にありがとうで良いじゃないですか」
慣れて来たのか、口調が砕け始める。こちらの方が話しやすくて良い。
「義理堅いのは良いけど、そういうの嫌いなんだよ。女扱いされてる気分だから」
「……それ、ずっと言ってますね。女扱いするなって。俺別に、女とか男とか、性別で自分の行動に制限かけないです。ただ好きだと思った人には、良い奴でありたいと思ってるだけで」
「好き?」
「あ、もちろん恋愛的な意味じゃないです。友愛的な意味です」
「分かってる」
「でも千田先輩、ここの線引きちゃんとしてとかないと、また怒るでしょ」
軽く笑う相馬を睨みつける。こいつの眉が少しだけ上がったのは気のせいだろうか。口を手で多い、嘘っぽい咳をしてから向き直る。
「じゃあ、相馬は俺の顔を見て、一発で男だと分かったか?」
「え?」
「今まで、俺を女だと見間違えたことはなかったか?」
「はい。だって学ラン来てるし、歩き方も喋り方も、男らしいじゃないですか」
即答するのが余計怪しく思えて来る。気を遣って言っているのか、それとも本心なのか、今の一瞬では判断できなかった。
「俺は質問に答えました。じゃあ次は先輩の番ですね」
ぐっと顔が近づく。
「何が好きですか。これじゃ先輩の後ろついて来ただけで、サボりの口実にも使えないので教えて下さい」
圧に押されて、ぽろっと言葉が溢れた。
「チョコレート」
「チョコレート?何チョコレートですか」
「何でも好きだけど、トリュフチョコとか、フォンダンショコラとか。あと、ドバイチョコも」
「へぇ、おしゃれな名前ばっかりですね。どれもピンと来ないので、後で調べてみます」
カチカチ、とスマホでメモを取ってから、「じゃあ任務達成したんで帰ります」と背中を向けて行ってしまう。
「おい、駅まで送るって」
「道は覚えているので平気です。女性扱いしなくて大丈夫ですよ」
ひらひらと手を振るのにつられて、間抜けな顔で振り返してしまう。やっぱり変な奴だ。何をどうすれば、俺を好きの分類に割り当てるのだろう。悪態しかついていない筈なのに。
甘い物が好きだなんて、誰にも言ったことがなかった。口にした瞬間、あぁやっぱりね。口では反抗しても、そういう事なんだ。と、心の中で笑われるのが目に見えていたからだ。
ポケットに手を入れるとふにゃりと柔らかい感触が伝わる。そういえばマシュマロをもらったんだった、と袋を開く。
口に含むとじゅわーっと優しく溶けていく。舌全体に甘みが広がり、相馬が顔に触れた時の体温を思い出す。なぜか胸の奥が酷く苦しくなり、すぐに考えるのを辞めた。
**
体育祭が近づくなか、ついに応援団との合同練習が始まった。文化部と運動部で、見えない大きな隔たりがあるので、最初に必ず儀式として両者の挨拶から始まる。
チア部、応援団、吹奏楽部。それぞれの長がテントに集まる。相馬は直角90度のお辞儀をしてから、「よろしくお願いします」と最初に頭を下げた。あまりの声の大きさに、「さすが体育会系だね」と、争いを遠くから眺める貴族のように、部員内でひそひそと呟きが生まれる。
「あの応援団長の子、2年らしいね。普通科の人で団長って珍しくない?」
「余程人望があるか、実力があるんでしょ。顔からエネルギー出てるもん」
まあ、そうなるよな。と小声で話している女子の話を聞き流す。応援パフォーマンスはチアと応援団長が花形だ。俺たち奏者は裏方に徹する部分が強いだろう。
キーを押して、軽く指の動きを確認する。落選組の仕切りは副部長が行なっているので、挨拶をするのは彼の仕事だ。快活で愛想の良い相馬に、自ら話しかけに行く。
「今日は宜しくお願いいたします。すみません、うちは副部長の俺しかいなくて」
「わざわざありがとうございます。足引っ張らないように頑張ります」
副部長の表情は、分かりやすく緩んでいた。あの人、腰が低い割にプライド高いからな、と遠目から眺めてみる。
相馬は誰に対しても愛想が良く爽やかで、相手の目線に合わせて会話する。それが全て出来すぎていて、どうにも嘘っぽく感じる。
やっぱりあいつ、無理しているんじゃないか。と、別に友達でも部の先輩でもない立場から考える。相馬の目はいつと澄んでいて真っ直ぐだけれど、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。
一歩、前に出る。列からわざわざ外れた自分を見て、他の部員が「どうかした?」と、声を掛けてきたが聞こえないふりをする。その小さなざわつきに気づき、相馬の視線も俺の方へと向けられた。
カチリと目が合った瞬間、ふにゃりと眉が下がり、小さくお辞儀をしてきた。
じわりじわりと胸の奥が温かくなる。やっぱり、相馬の目は綺麗で好きだ。何の偏見も通さない、凛とした瞳に嬉しくなる。
それと同時に、また自己嫌悪が重なった。俺は女じゃない。女じゃないのに、媚びるような態度を取るのは変だ。楽器を持つ手に自然と力が入り、すぐに列へと戻った。
合同練習の基本は、演奏とダンス、それに掛け声があっているかを確かめる場なので、演奏のクオリティはほとんど求められない。俺達を例えるならば、指示すれば好きな所から再生できる、音楽プレーヤーみたいなものだ。
「今のところ、もう一回良いですか。チアと応援団の動きが合っていないので」
チアの部長がまっすぐ手を上げて言う。それが10回、20回と続いた。演奏する側は何度も何度も同じ箇所を吹かされて、くたくたになっていた。
「少し休憩にしませんか」
第一声にそう言ったのが、相馬だ。団長の声なら誰も否定はしない。各々が休息をとりにいく中、うちの副部長が相馬に声を掛けに行った。
「演奏の方、大丈夫そうですか?テンポが悪いとか、タイミングが取りにくいとか」
「全然大丈夫ですよ!むしろ物凄い勢いで仕上げて下さって、俺たちの方が焦っているというか」
「例年曲は一緒なので、練習時間が少なく済んでいるだけですよ。うちは一軍メンバーがコンクール近い分、落選組は暇なので」
はは、と後頭部をかいている。自虐も含んでいるが、これが俺たちの本音だ。落選組と呼ばれたら、必然的にこの反応になる。
気を遣わなくて良い、と副部長としては伝えたのだろうが、相馬は首を横に振って否定した。
「その呼び方変ですよ。野球とかでも2軍チームはファームっていうじゃないですか。育成やサポートがないと、本来の実力だって発揮できないんですから、我が物顔で立ってて欲しいです」
そう言ってから、視線がこちらに移る。相馬が何か合図を送って来る。パクパクと口を動かし、「あとで」と言ってから非常階段の方を指差す。
もしかして、俺に言ってる?とジェスチャーすると、コクコクと二度頷いた。
これ、少女漫画できゅんとするやつか。と、脳内で勝手に再生される。狙わずに素ですると、こんなにもウキウキするのかと感心してしまう。
応援団の演奏なんて、正直面倒臭いとしか思っていなかった。部のほとんどはそうだろう。けれど、相馬の前向きな姿勢と、今の言葉で励まされた部員は多いだろう。どれだけ自分で自分を励ましても、やっぱり周りからの素直な言葉が一番の救いになったりする。
下校のチャイムが鳴ったので、この日は練習がお開きとなった。挨拶を交わしてから、それぞれの部活が解散していく。
俺は非常口に行けば良いのか。相馬のあれは、解釈合ってるよな。と、手に力が入る。ドアノブを捻り、開いた隙間から声が聞こえて来る。ストライプ柄のスカートが見えたので、チア部の子が先客でいたらしく、声が聞こえてきた。
「やる気ある?団長」
ずしん、と重みのある声に腰が軽く引ける。さっきの軽やかで華やかな仕草からは想像できないような、芯のある怒りを感じ、自分が言われたわけでもないのに緊張した。
「俺の責任です。すみません。部員にも言っておきます」
「急に大役任されて、プレッシャー感じてるのは分かるよ。でもさ、選んだのは君でしょ?チアにも吹奏楽部にも、迷惑かける集団にだけはならないで」
「すみませんでした」
垂直のお辞儀。ぐっと唇を固く閉じ、何かを耐えている顔だ。相馬の人間らしい一面をまた見てしまった。表向きは取り繕っていても、どうしても感情だけは隠せないよな、とそっとドアノブを閉めた。
正直、今日の練習の何がそんなにまずかったかは分からない。演奏に集中していたのも理由だが、相馬の声もよく響いていたし、途中で流れが止まることもなかった。
「……分からんな、向こうの事は」
「何がですか?」
ふわっとシャンプーの匂いがする。目を上げると、いつもの茶褐色をした瞳で、相馬がニコニコと笑っていた。
「何でもない。ここで待っている間、ちょっと考え事してたんだよ。……それより、相馬。俺に何か用だったんだろ」
「あ、覚えていてくれたんすね。チョコレートを渡す約束してたじゃないですか。外に置いてると溶けるかもしれないんで、部室にあるんです。一緒にきてください」
腕を引かれるけれど、罪悪感がちらついて、体を一歩引く。ちらりと様子を伺った。
「悪い。さっきチア部との会話聞いちまった」
「……あぁ、俺が絞られてるところですか。あれ、もう3回目なんです。ポンコツだから、チアの部長も痺れを切らして。次また無様な所見せたら、今度は怒鳴られるかもしれないですね」
笑う顔に痛々しさはない。でも、その目を見ると分かる。お前、実は怒っているんじゃないか?
「相馬は声も1番出てたし、振り付けもコールも完璧だった。今日しか見てねーけど、お前一人で全部責任を背負うことないと思うけど」
「いやいや、毎年団長が全部背負ってるんです。これに耐えられなきゃ、失格ですよ。千田先輩の優しさは嬉しいです。でも、案外何ともないんで。さ、早く部室行きましょ。完全下校の時間過ぎちゃうんで」
優しい言葉は届かないか、と諦めた。慰めを連ねたって、学年は違うし部活の先輩でもないし、弱音を吐ける相手でもない。
それでも掛けられる言葉はないのか。
「でもさ、お前……」
「先輩」
頬を手で挟まれる。その指先は少し冷たかった。
「そんな可愛い顔して駄々こねないで下さい」
「こんな時まで、女扱いか」
「はは、その調子です。さ、行きましょ」
伸ばされた手にしがみつき、立ち上がる。相馬の冷たい指先に、少しでも温もりが伝われば良いのに、と無意識に手を握っている自分がいた。

