**

次の日。鏡の前で頬に貼ったガーゼにそっと触れた。瘡蓋になって綺麗に傷が消えれば、相馬も罪悪感を抱く必要もない。

なるべく触らないように注意しつつ、自転車に乗って学校に向かった。

楽器はデリケートなので、ケースに入れていても籠には入れずに肩から下げて肌身離さず持っている。

昨日、家に帰ってから確認すると、やはり音を出すための銀色のキーが歪んで押せなくなっていた。素人の手で直せるはずもないので、放課後に楽器屋さんに見てもらわなければならない。

今月の小遣いキツいのにな、と頭の中でお金の計算をしているうちに、校門へと到着した。

体育館の方から声が聞こえる。朝練もやっているのか、と足先が向きそうになり止まる。俺が自分の意思で行かなければ、相馬に会わずに済むのだ。

なら、行くべきじゃない。

自転車を停めてから、靴箱の中を覗いた。まただ。また、ノートをちぎって作った手紙が入っている。中に何が書いてあるかは、開かずとも分かっていた。

視線の感じる先へと目を向けると、パタパタと足音が逃げて行った。何度も何度もこんな事をして、何が楽しいのだろう。

ぐしゃっと小さく丸めてからゴミ箱に捨てた。

「あれ、千田。おはよう」

担任の先生が目の前から現れる。タイミング最悪だな、と心の中で舌打ちしてから「おはようございます」と律儀に挨拶をした。

「前髪長いんじゃないか?先週にも注意しただろ。休みの間に切っとけって言ったのに」

「……すみません」

「そういうのが好きなのかもしれないが、勉強の邪魔になるだろうから。それか、ちょっと巻いても良いんじゃないのか?アイロンとかお前なら持ってるだろ」

この先生から見て、俺はそんなにも女々しく見えるのか。別にスカートを履きたいとか、髪を伸ばしたいとか、相談をした事なんて一度もない。ただ少しでも、そういう素ぶりがあると判断すれば、妙に擦り寄ってくる。肩から下げているクラリネットのケースへと興味が移った。

「それ、重くないか?ずっと提げていると」

「まあ」

「無理するなよ。我慢せずに周りを頼って良いんだからな」

ポン、とさりげなく肩を叩かれたので、埃を落とすように、手で払う。あの目は嫌いだ。どろりと粘っこい黒い液体が見える。それが流れ落ちる度に、不快感が全身を駆け巡った。

**

「体育祭って何が楽しいんだろうな」

隣の席で、窓の外を眺めながら盛り上がる声が聞こえて来る。その声を本を読むふりをしながら聞いていた。

「どうせ体育科の奴にスポットライトが当たるんだ。俺ら普通科なんて前座で消化されるだけの余興だよ」

「あーあ。普通科だけの学校なら、脇役に回されることもないんだろうけど、うちの学校じゃイベントは全部あいつらが主役だ。クソつまらねぇ」

愚痴る気持ちは痛い程分かった。俺のような普通科の人間が、才能で溢れる音楽科の奴らに混ざって、コンクールに出ることなんて出来るはずがないのだ。分かっていた筈なのに、どうしても燻る苛立ちは消えてくれない。

ふと窓に映る自分の目と目が合う。難しい顔をして、口元が歪んでいた。意識的に考えている訳ではない。だけど、こういう何気ない日常会話が耳に入って来るだけで、自分に置き換えてしまう。

そして無意識に卑下してしまうのだ。自分の内にある殻の層が、また一つ増えていく。

落選組が1日練習を休んだところで、叱られることはまずない。楽器の修理に持って行きたいと顧問に伝えると、職員室の椅子に足を組んで座り、コンクールの楽譜をめくりながら、「分かった」と短い返事がかえってきた。その片耳にはイヤホンがある。

軽く一礼してから、財布の中を確認する。昨日貯金箱から取り出した分で、なんとかなるだろう。今月は買い食いを辞めなきゃな、と戒めも込めて、くしゃくしゃのレシートを押し込んでから、ぐっと財布のチャックをきつく締めた。

「先生!」

聞き覚えのある声に息が止まる。その方向を見ると、相馬が窓から職員室へと身を乗り出していた。咄嗟にしゃがみ込んで、机の下から目だけを覗かせる。なんとなく今は顔を合わせたくなかった。

土のついた体操服に汗が染み込み、もう9月なのに真夏のような格好をしている。けれど、独特のむさ苦しさを感じさせないのは、アーモンドの形をした大きな目と、白く綺麗な歯があるからだろうな、と整った顔立ちのあいつを見る。

あんな風に誰が見ても男らしい容姿になりたかった。そしたら、女扱いされなくて済んだのに。

「先生。今日時間ありますか?練習見ていって欲しいんですけど」

彼が話しかけているのは、体育科一年担当の先生だった。運動部顧問は全員、体育科で教鞭を取っている。やっぱり相馬も体育科なのか、と納得する自分と落胆する自分が交互に現れる。期待していたのかもしれない。

「まだ日にちはあるだろ。こっちは忙しいんだよ。新学期始まって色々溜まってるんだ」

「そうっすか。まあ、余裕も無くなりますよね。……あ、余裕といえば、倉田先生ってどうしてます?」

「倉田先生?先生なら、そこにいるけど」

心臓の音が激しくなる。相馬がゆっくりとこっちに近づいて来た。まだ楽譜を睨んだ状態の当本人、吹奏楽部顧問の倉田先生は、相馬の気配に全く気付いていないようだった。

「倉田先生」

「……」

「倉田先生!」

耳につけていたイヤホンを、彼はいとも簡単に取り上げてしまった。突然音が途絶え、先生は驚いて顔を上げる。目の下にはクマができていた。

「これ、貰ってください」

「なんだよ」

「マシュマロです。中にチョコレートが入ったやつ」

「甘いもの好きじゃないんだ」

「脳の疲労取れますって。あ、そうだ」

「まだ何かあるのか」

「千田先輩って今日部活にいますか?」

急に名前が出て来て、肩が上がる。その勢いで机の角に頭をぶつけてしまい、積まれていたノートが崩れ落ちた。手先から血の気が引いて行く。痛みよりも隠れていた事がバレたせいで、首元から徐々に体が熱くなった。

「……千田先輩?」

「んだよ」

「そんな所で何してんすか?」

嘲笑する事もせず、本気で心配そうな顔をするので、羞恥心がゆっくりと萎んでいく。折りたたんでいた膝を伸ばし、埃を払って立ち上がった。

「……マシュマロ持ってんの?」

「あ、そうなんです。さっき売店で買って。先輩もいりますか?」

「余ってるなら」

手を伸ばしたのと同時に、相馬の手が頬に触れる。ガーゼの上を指が滑った。

「怪我、痛くないですか?」

その指があまりに繊細で、触れる力が優し過ぎて、耐えられなくなる。

ぱん、とわざと音が鳴るように、手のひらで叩いた。払いのけた瞬間、じんわりと痛みが残る。

「だから、女扱いするなよ」

「してません」

声のトーンが下がったので、言葉に詰まる。さすがに温厚な相馬も、今ので怒ったかと様子を伺うが、眉間に皺は寄っておらず、瞳は変わらず凛としていて、恨めしいほどに真っ直ぐだった。

「俺、先輩に聞きたいことがあったんです。この間、言いかけてやめてしまったので」

そういえば、何か気になることがあると言っていたな。と忘れかけていた記憶を辿って行く。

「クラリネットなんですけど、持っていた時に若干傾いてた気がして。もしかして、俺のせいなんじゃないかと思ったんです」

わざわざ言わなくても。気づきませんでした、の一言で済ませば、スムーズにフェードアウトできるのに。

あ、違うか。こいつは体育科の人間だ。

将来大学推薦を狙うなら、日頃から恨みを買わないように、余計な芽は摘んでいないといけないのか。偽善行為を行われたって、何もありがたくない。

「……気のせいだよ。別に、壊れてない」

「そうですか」

 声に感情が乗っていない。

「信じてないな」

「千田先輩、優しいじゃないですか。俺に気を遣ってません?」

「どこをどう見たら優しいってなるんだよ。そんなんじゃねーから」

「じゃあ俺」

「別に良いよ。ちょっと歪んだけど、単純に自分の不注意だし、そもそも楽器を持っていたのは俺なんだから」

こいつの優しさは甘い。後に残る。深く、深くまで沁み込もうとして来る。そこに溶けてしまいたくなる。

「分かりました、こうしましょう。下駄箱で待っていてくれませんか。5分だけで良いんで」

「は?」

「たしか、靴箱前の廊下に、応援歌とか貼ってるので、暇つぶしに口ずさんでる間だけで良いです。あ、あと校内新聞に俺のインタビュー載ってるんで、それも目を通してて下さい。全部読み終わっても俺が来なかったら、全部無視して帰って良いんで!」

まくし立てるようにそれだけ言って、勢いよく運動場の方へと駆けていく。その小さくなっていく背中を見ているしかできなかった。間近で見るとあんなにがたいが良かったのに、もうあんなにも後ろ姿は小さい。

あいつのペースに合わせてしまえば、それこそ思うツボだ。だったら、面倒に巻き込まれる前に、帰るのが正解だろう。

下駄箱で靴を履き替えようとすると、音もなく白い何かが落ちた。今朝と同じ、ノートの切れ端である。見たくもなかったのに、中身が目に入る。
 
「彼女になって下さい」

ただその一言だけ。名前も学年もない。この手紙は週に3日。多くて毎日入っている事もあった。手に取った時にどんな反応をするのか、面白がる連中がどこかにいるらしい。

担任なんかに相談なんて、出来るはずがなかった。全校生徒2000人から割り出すのも不可能だ。しばらくは気味が悪かったが、ずっと続くと感覚も麻痺してきて、無視するのが一番楽なのだと理解した。

誰かに心を開くのは苦手だ。俺を、どういう目で見ているのか知るのが怖いから。

もう帰ろうかと、紙を破って踵を返した時に、ふと目に入る。

相馬が言っていた応援歌が、廊下の壁に大きく貼られていた。太字のゴシック体で、しっかりとした文字が凸凹と並んでいる。応援団全員が声を合わせる部分だけ赤字で書かれていた。

これを口ずさむなんて、誰がするんだよ。と、心の中でツッコミを入れる。その右隣には、都合良く校内新聞が貼られていた。誰かが引っ掛けたのか、右端が画鋲から外れて、ペらんと下に垂れている。

ちょっとした親切心で画鋲を刺し直す。紙に指を滑らすと、意識が向く。ふと、見覚えのある名前に目が留まった。

相馬皐月。2年。普通科。今年度応援団長。

彼のいつもの爽やかな笑顔の写真。その下に、キャプションで書かれた文字。これが相馬を表す肩書きらしい。

「……普通科、だったのか」

パタパタと廊下を走る音が聞こえて、思わず壁に背を向けた。

「あ、千田先輩。待っててくれたんすね」  

「……いや、別にお前を待っていた訳じゃ」

「でも校内新聞読んでくれていたじゃないですか。ほら、良い写真でしょ」

こいつが本当は何を考えているのか、まだ分からない。でも、こうして親切心を包み隠さず出してくることに対して、あら探しをせずに一度受け入れてみても良いかもしれない。