初めて見た。

あいつの目は誰よりも真っ直ぐで、その透き通った虹彩の色は、光に当たると茶褐色に輝いて見えた。

内側にある嫌な感情は、目を見ればすぐに分かる。疑心に満ち溢れた動揺の目。非常識だと相手を蔑む濁った目。それに出会うとげんなりする。

でも、相手を好きだと気づいた途端、柔らかく形が崩れていく。

相馬(そうま)は、他の誰とも違う目をしていた。

**

相馬と出会ったのは、新学期が始まったばかりの9月の上旬だった。

金木犀の香りが鼻腔を通ったので、思わず中庭に目を向ける。ずっと気づかなかったけれど、こんなにも立派な木が生えていたのかと、オレンジの粒たちを見上げた。

 小鳥たちが、羽の毛繕いをしつつきょろきょろと周りを確認する。あれを見ると、まるで自分みたいだと思えてくる。

相手が何を思い、何を考え、どう思ったのか。その全てを瞳の形や色で判断してしまう自分は、人間生活の中で不便な事しかない。

吹奏楽部のチューニングの音が音楽室から聞こえてきた。オーディションに落ちた自分には、関係ない音たちだ。ぐっと持っていた楽器を力一杯握りしめる。

それとは別で、体育館の方から声が聞こえる。その規則的な掛け声に、あぁ今年も始まったのだと理解した。体育祭が、残り1ヶ月を切っている。その声に意識が向いていたせいだろう。

後ろに人がいることに全く気が付かなかった。

ぽん、と肩が当たった瞬間に、視界が歪む。

その勢いで、あっけなくアスファルトの段差に躓いた。せめて楽器だけは守らないと。と、両手を胸の前に抱えて衝撃に備える。しかし体を捻る力が足りず、ゴン、と硬い音と共に鈍い痛みが走った。

痛い。めちゃくちゃ痛い。

「ごめんなさい!大丈夫ですか」

太い腕。額には白のハチマキ。焼けた肌と対照的で、随分と爽やかな顔立ちをしているな、と思った。何よりも、その目の色が、光が入った瞬間茶色に明るく照らされて、珍しい色をしていたのに惹かれた。

「うわっ、どうしよう。顔に傷が……。すぐに保健室で診てもらいましょう」

腕を引かれる。こいつ、体操服の色が緑だから、2年のはずだ。けれど俺よりずっと体格がいいせいか、力が強く、抗えないと分かると恐怖を感じた。自分よりも強い相手だと、本能で判断している気がして嫌になる。

「離せよ。勝手に腕掴むな。いてーだろ」

「……あ、すんません」

すぐに二の腕から掴んだ手を解き、俺から3歩ほど下がる。運動部らしい、上下関係が叩き込まれた行動だった。

「保健室ぐらい1人で行けるから。お前、応援団なんだろ。練習戻れよ」

「そういう訳にはいかないですよ。自分のせいで怪我させたのに、呑気な顔して練習に戻るだなんて。急に腕掴んだのは、すみません。俺も気が動転してて。……お願いです、着いていかせてください」

「……やめてくれ。頼むから」

「え?」

「正直迷惑だから、放っておいてくれ」

俺が女みたいに細くて弱っちいから、出来心で優しくしようとするんだろ。と、威嚇する。下心を恥ずかしげもなく晒し、そういう態度をとる奴を何人も見てきた。裏がある奴ほど、目に全部映っている。

この男をじっと睨んだ。けれど、彼は全く引き下がろうとはしなかった。

「無理です。だって、顔に傷が残ったらどうするんですか。将来に関わる大事なことなんで、迷惑でも構いません」

「俺、女じゃねーけど」

「だから何ですか」

言葉に詰まる。この男は、当然のように言う。

「男とか女とか、そんなの関係ないです。顔に傷が残るのなんて、どっちでもダメに決まってるでしょ」

その時初めて目が合った。まるでチョコレートのような茶褐色に見えた。

「…お前、2年?」

「あ、はい。2年の相馬です。今年の応援団団長をやってます」

相馬。人の名前を覚えるのは苦手だが、多分初対面だろう。警戒心を少しだけ緩める。

「……じゃあ、楽器だけ代わりに持っててくれよ」

はい、と手渡す直前で気づく。キーが若干歪んでいた。楽器を庇ったつもりだったけれど、倒れた衝撃が来てしまったかと、奥歯をギュッと噛んだ。

「あの」

不安げな顔で覗き込む相馬に、体が硬くなる。何となく、こいつは察しがいい気がする。何でもないフリをして、ぽんと楽器を渡した。

「大事な物だから、適当に扱うなよ」

早足に先に歩く。ぎゅっと制服の裾を掴み、込み上げる感情を押し殺した。

保健室には人がおらず、先生はちょうど留守のようだった。勝手に救急箱を漁っても問題ないだろうと、戸棚を開いて消毒液とコットンを取り出す。消毒液だけ妙に軽く、持ってみると中身がもう入っていなかった。

予備はどこかと上を向くと、俺の身長では足場がないと届かない場所に、ダンボールが積んであるのが見えた。

ここで相馬に頼むのも負けた気がして嫌だな、と無言で椅子を引いてこようとしたが、まるで心を読んだかのように、彼は先に手を伸ばしていた。

「座ってて下さい。俺の身長なら、危ない事しなくても取れますので」

こいつは多分、俺が男か女かなんて考えていないのだろう。ただ自分の思う正しいに身を任せているだけなのだ。こんなにも質実剛健な人間が身近にいるとは思わなかった。

「……千田」

「せんだ?……あ、先輩の名前ですか」

「おう。まあ、まだ名乗ってなかったと思って」

「そういえば、そうでしたね。あ、ここ座って下さい」

脱脂綿で右頬を拭われ、思わずぎゅっと目を閉じる。それからゆっくり目を開けると、彼の足が見えた。椅子から少しだけ体重を前に傾け、覗き込む体制になる。

ちょっとだけ踵が浮いている。バランスが取れなくてプルプル震えている。傷口に触れて、痛みが広がるのを最小限に抑えようとしているのだろう。

でかい男が、子鹿みたいに震えていると思うと、思わず笑ってしまった。そんな真剣な顔をしなくても、手術する訳でもないんだから、慎重になり過ぎるなよ、と言いたくなる。

俺が笑ったのが癪だったのか、相馬の動きが止まった。じっと俺の顔を見つめてくるので、反射的に眉間に皺を寄せた。

「んだよ。さっさとやれよ」

「あ、いや、すんません。ぼうっとしてました」

見た目だけは手際の良い爽やか優等生なのに、実は抜けているのか?と疑いたくなる。それから視線をずらし、楽器を見た。

「……それ、ベルは机からはみ出るように置いて。楽器の先端の、ラッパみたいに広がっている部分」

「え?あ、すんません。こうですか?」

「うん」

「……あの楽器ってあれですよね。クラリネットっていうやつですよね」

「知ってんだ」

「去年の体育祭でも見かけたんで。吹奏楽部の人に気になって名前を聞いたんですよ。すごいっす。楽器なんて俺出来ないし、楽譜も読めないから」

「……お前、知らねーの?」

「何がですか?」

「体育祭に出るメンバーは、落選組って呼ばれてんの」

すぐに咀嚼できなかったのか、相馬は口を閉じて黙り込んでしまう。言葉の意味を理解出来ず、翻訳機が永遠とロードし続ける様子に似ていた。

「うちの学校吹奏楽の強豪だからさ。オーディションに落ちた奴は、学校行事とか地域交流の方に組み込まれるんだ。体育祭の演奏だって、落選組の俺らの演奏なんて、何にも凄くない」

「その呼び方、誰が言ってんですか?」

「うちの顧問」

「真に受けないのが吉ですね。そうやって差別的な表現するのって、心に余裕がない奴のする事ですよ。無視ですね、無視」

「……奴って。一応先生なんだけど」

「言い方が乱暴でしたね。すみません。でも、奴で良いでしょ」

 本当に不服そうな顔をしている。視線が下に落ち、長い睫毛が揺れる。

やはり、相馬は他の奴とは違う感じがした。クソみたいな呼び方をされたら、「ムカつく」とか「あんな奴大嫌いだ」と単純な考えが浮かぶ物だと思うけれど、相馬は「何でそんな呼び方をするのか」まで考えているのだ。

額から汗が流れる。それを手の甲で触れられた。

「暑いですか?窓開けます?」

「……大丈夫。結局、流れで手当てしてくれたみたいだけど、相馬も応援団の練習があるんだろ。もう良いから、戻れよ」

「いや、でも。俺一つ気になってる事があって……」

そこで窓が勢いよく開いた。

「相馬!チアの部長が探してんぞ。次の合同練の前に話がるんだってさあ」

相馬の目が泳ぐ。何か言いかけていたけれど、急かされて呂律がうまく回らないらしい。口の中で言葉を練っているので、ぽんと軽く背中を押した。

「ほら。呼ばれてんだから、早く行けよ」

「……すんません。また、次の機会に!」

大股で廊下へと飛び出して、ものすごい勢いで走っていく。

「また」なんて、来るのだろうか。

うちの学校はマンモス校だ。普通科の他に美術科、音楽科、体育科と推薦組の生徒も多い。軽く全校生徒2000人は超えている。

そんな中で学年の違う俺と相馬が、再び会う確率なんて限りなく低かった。当然、会いにいく理由だってない。少しぐらい親しくしておけば、接点を保てたのだろうか。

保健室の角にある水槽が、ポコポコと泡の吹き出す音だけが静かな空間に響く。泳ぐ赤い金魚を見やると、まるで何かを恐れるように、海藻の裏側へと潜り込んでしまった。