私立暦乃学園高等部のBL事情。

 腐の民は壁の民。世に潜み、性癖を隠して一般人を装う忍者である。
 二次元と三次元を混同しないのは、最低限、暗黙のルールだ。
 それくらいの自覚はある。

 あるのに。

 私の立ち位置を、ぎゅるんと180度ひっくり返していったのは、学校一の最強(恐)スパダリと名高い生徒会長、千野祐真先輩だった。
 あれは、百瀬と仲良くなったひと月くらい後のこと、だったと思う。

「染谷由貴さんは、いるかな?」

 絶対に声を掛けてくるはずのない人間が、一年のクラスまできて私を呼び出した。
 その場で吐くかと思った。

「ちょっと、由貴。なんで千野先輩がお迎えに来てるの?」
「名前! 名前、呼ばれてたよ! すごくない? ヤバくない?」

 ある意味、凄いヤバい。私の学園生活が。
 だって、既にクラスのブルジョア女子にメンチ切られてんじゃん。
 女子の睨みとネットワーク、いじめの陰湿さは時に、ヤンキー男子を上回る。

 私はこそこそとクラスを出て、背中を丸めて小声で名乗った。

「染谷由貴は私です。えっと、地獄行のファンファーレとかでしょうか?」

 全く心当たりのない呼び出しに、全身の毛穴が開いて汗が噴き出す。

「聞きたい話があってね。地獄になるか天国になるかは、君の返答次第かな」

 千野先輩の笑顔は、とびきり爽やかだった。
 とびきり爽やかに、目がすごんでいる。
 顔を覚えたからには逃がさないと、先輩の目が語っている。

(神様……、冤罪です。何も悪いコト、シテナイヨ? ドーシテ、コーナッタ?)

 百瀬と出会ってからは、学校が楽しかったのに。
 腐談義に花を咲かせていただけなのに。
 あれが、罪深かったのでしょうか?

 千野先輩が、私の腕を掴んで歩き出した。

「では、生徒会室に行こうか」

 あぁ、連行されてる。
 こういう時、「きゃー、千野先輩に気に入られちゃったかな? 告られちゃうかも♡」とか勘違いできる女子だったら良かったのに。
 私の脳は、そんなお気楽な解答を導かない。
 この先に待っているのは間違いなく、死だ。

 流れそうになる涙を必死に抑えて、生徒会室に詰め込まれた。

「さぁ、掛けて。今、紅茶を淹れようね」
「御気遣いなく。胃が痛くて飲み込めないので」
「大丈夫かい? 生徒会の常備薬を出そうか?」
「お気持ちだけ、いただきます。薬では治りそうにないので」

 胃の腑を抑えて、前屈みになる。
 千野先輩に肩を押されて、ストンとソファに座らされた。
 綺麗すぎて迫力のある顔が、間近に迫る。

(死……、私の人生、オワタ。龍神と呪禁師の最終回まで、生きられなかった。あとは頼んだ、百瀬二等兵)

 心の中で遺書を読み上げた。
 心は既に真っ白に燃え尽きた。魂が口から出かかっている。

「染谷さんは、一年生の百瀬と仲がいいよね?」
「……へ? 百瀬?」

 今しがた、心の中で未来を託した同志の名前が飛び出して、ちょっとだけ息を吹き返した。

「1-Aの百瀬雫。後期から副会長で、生徒会に参加してもらってるんだ」
「そういえば……」

 そんな話、聞いたかも。
 互いの推し漫画プレゼンが盛り上がり過ぎて、忘れていた。

『これからは放課後、腐談義できなくなるけど。昼休みとか、またお付き合い願う』

 とか、言っていた気がする。

(良く考えたら、一年生の後期から副生徒会長って、不自然かも)

 目の前の千野を眺める。
 その目が確信的に笑んだのを、私は見逃さなかった。

「雫と、どういう関係なのかな?」

 ふぁーすとねーむ、呼んだ。
 学校一の顔面ガチ強最恐スパダリが、腐男子のファーストネーム呼んだんですけど。

 その瞬間に、ピンときた。

(あ、これ……。百瀬がロックオンされてるヤツだ。今の私、思いっきり冤罪で嫌疑、掛けられてる)

 どうすればこの状況を回避できるのか、最適解を導き出そうと脳がフル回転する。
 中間期末テストでは、ありえないほどの処理能力が働いた。

「えっと、関係は……」

 腐仲間、とは言えない。
 百瀬と私の名誉のためにも、言えない。
 じゃぁ、他に関係って、何だ。

(無難に友達とか、言う? 延長上で恋人狙ってるとか思われたら、詰むよな。ただのクラスメイト、にしては親密すぎる)

 だから、呼び出されたのだ。
 昼休みや放課後に、こそこそ会ってコソコソ話す間柄が、ただの友達なわけがない。
 
(否、私が生き残るためには、千野先輩が納得すればいいわけで。誤魔化しながら事実に近い関係を伝えればいいわけで)

 ここまでの思考は、秒だった。

「ハムスターと飼い主、ですかね」

 口から零れ落ちた言葉は、自分でも修復不可能なレベルの言い訳だった。
 だって、千野先輩の笑顔が固まってる。
 怒りを買ったのかと思ったら、私の口がまた勝手に話し始めた。

「百瀬って、誰にでも懐く小動物系男子というか。手の上で嬉しそうにヒマワリの種、食べてくれるけど、実は本人が一番楽しいのは、夜中に一生懸命、滑車を回している瞬間というか。キラキラした目で走っているというか。その姿を、こっそり見守っている飼い主ポジ……です」

 自分でも、意味が解らない。オタク特有の早口で噛まない特技が、無駄に発揮されている。
 私は今、何をプレゼンしているのか。

「つまり?」

 千野先輩が笑顔を崩さす、動揺もせずに問い掛けた。
 張り付いた笑顔の仮面が、怖い。

「……趣味友です」

 最初から、これで良かった。
 テンパり過ぎて、燃え尽きた。

「趣味、か。雫の話に時々、出てくる……腐、というジャンルかい?」
「なぜ、それを。百瀬に聞いたんですか?」
「聞いた、というか。そうだね。少しだけ腕で囲って、顔を近づけた気はするけど、普通に質問に答えてくれたよ」

 全く普通の状況じゃない。
 尋問されてる。吐かされてる。

(百瀬、終わったよ。……私も、アンタも)

 心の中で百瀬に祈りを捧げた。

「それ、ですね」

 もう、肯定しかできなかった。

「君たちが赴く腐というのは、隠さねばならないほど、特殊なジャンルなのかい?」

 千野が不思議そうに問う。
 赴く、腐? そんな表現、初めて知った。

「まぁ、そぅですね。男性同士の恋愛を描いたBLの創作物を愛でるのが腐ですから。声高に叫ぶのは、如何なものかと」
「やっぱり、そうか」

 千野が納得した感じに頷いて、こっちを見た。
 息を吸い込んで、ひゅっと喉が締まった。

「染谷さんと雫は、趣深い学友、で合っているかな?」
 
 声が出なくて、只々何度も頷いた。

「そんな染谷さんに、お願いがあるのだけど、いいかな?」

 いいかな、なんて問うだけ時間の無駄だ。
 不可避のyesしか、選択肢がない。
 もはや脊髄反射で頷いた。

「僕に、腐をレクチャーしてくれないかな?」
「…………え?」

 締まった喉から、声が出た。

 流石にそれは、致しかねる。
 軽い興味と浅い好奇心で悪戯に聖域を汚されるのは、腐女子として我慢ならない。
 いくら相手が学校一の権力者でも、今は戦わねばなるまい。
 オタクの根性を見せなければ。使命感にも似た想いが立ち上がった。

「興味、あるんですか?」

 だから、ジョブ的に探りを入れた。

「とても興味があるよ」
「百瀬を想っているから、ですか」
「そうだね」

 気になる子が好きな世界だから。
 そういう理由が入り口でも、悪いとは言わない。

(でも、百瀬は嬉しいかな。自分が大好きな世界を、踏みにじられた気持ちに、ならないかな)

 千野が百瀬に恋愛的興味を寄せている時点で、ゲイかバイなんだろう。
 それはいい。
 性的趣向とBL趣味はイコールではない。
 ゲイだからBLOKとか、安易に考えるのは失礼だ。
 この二領域は、別物だ。

「千野先輩は、どうしてそんなに、知りたいと思うんですか。知らなくたって、一緒に生徒会はやっていけると思います」

 締まりそうになる喉を懸命に開いて、長く話した。

「気になる子が好きな世界を知りたいのは、当然だろう? 同じ気持ちで同じ目線で、同じ世界を愛でたいんだ」

 千野の笑顔が満開に咲いた。
 神々しいというか眩しくて、直視できない。

(何だこの、幸せに満ちたイケメンオーラは! 不慣れすぎて、溶けそうだ。眩しくて、目が開かねぇ)

 気になる子って、はっきり言った。
 きっと千野先輩は、自分なりに未開の分野「腐」について、調べている。
 その上で、私に声を掛けてきた。

(本気で百瀬と向き合いたのかな。百瀬を理解したいって、想ってくれているのなら、同志として教えるしかあるまい)

 私は、最後の力を振り絞って、ボロボロの体を起こした。

「わかりました、教えます。でも一つだけ、約束してください」
「なんだろう?」
「もし、自分には理解できない、合わないと感じたら、無理に深入りせずに引いてください。腐を知らなくても、百瀬を愛でるのは可能です」
「ふむ。僕に理解は難しいと」
「いいえ……。邪な興味の俄か野郎に知ったか振りして荒らされんのは迷惑だって話です。界隈を愛するすべての腐仲間に失礼です!」

 言った、言ってやった。
 あの千野祐真に、私、言い切ったよ。
 千野先輩が、嬉しそうに笑んだ。その表情が理解できなくて、震える。

「だから、染谷さんにレクチャーをお願いしたいんだよ」
「は……?」
「他者の趣味を辱めたいわけじゃない。ただ僕は、彼が愛する世界を、知りたいだけなんだよ」

 彼が愛する世界を、知りたい。
 尊いな、尊い台詞だ。
 私が立派な腐男子に育ててやろう。

 千野祐真に対して、親心のような気持が湧いた。

 こうして私は週に二回、千野先輩に腐のレクチャーをすることになった。
 半年ほど続いた講義で、千野先輩は想像以上に逞しい立派な腐男子(ソルジャー)に成長した。
 私か切った啖呵を、嘲笑うかのように。
 途中から同クラの十鳥や、一年生の一見という生徒が加わったりして、いっぱいいっぱいだったけど。
 私はやり切った。自分で自分を褒めようと思う。

 それに今は、千野先輩を始めとする生徒会の面々にレクチャーできて、良かったと思う。
 高校二年、六月。あの時の私の言葉がフラグになるような事件が、起こってしまったからだ。