靴を脱いだ瞬間、足が開放感に溢れて、今日一日の疲れを思い知らされる。大学入学までの日数も限られている中で、何とか下宿先を見つけなければならないと意気込んで訪れた大都会。
だがこれだけのミッションだったら大したことなかったはずだ。
「おー普通」なんて間延びした声が背後から聞こえる。内見に連れ添うだけでは飽き足らず、最終到着点のビジネスホテルにまでついてきた男に呆れのため息を返す。まるで自分の下宿先を探すかのような口出しっぷりには、不動産の案内役が「住むのは笠原さんなんですよね?」と何度も確認したほどだ。
「で、いつ帰るの?」
「おい。久しぶりに会えた彼氏をすぐ追い返そうとすんな」
「ッ!……そんな間柄じゃないでしょ!」
「はいはい。じゃあ俺らのコレはなんなんでしょーね」
唇尖らせながらも、廉は部屋のアメニティを物色している。今こうして余裕のある時に観察すると分かるが、彼は重い空気にならないように気を遣ってくれているようだ。
そこにありがたみを感じつつ、爽は数口分中身が残っていたペットボトルのお茶を飲み干した。
「つかまぁ、改めておめでとさん」
「……それはそれはありがとうさん」
適当に返しながら、爽もベッドに腰掛けヘッドボードのランプの具合を試す。
長いような短いような受験期が終わり、見事当初の願い通りの大学に受かったことが分かったのは、つい一週間前だった。
誰のおかげか、は言うまでもなく自分が9割は占めるが、その他家族友人の支援を除けば次点でランクインするのはこの男だろう。
爽が受験から逃げるために使った理由を先回りして潰し、先に行って待ってる、なんて男前な期待を向けられれば、そこは爽も男として迎えに行く気概があった。単に廉に時間を割かなくなった分だけ勉強の効率が上がっただけかもしれないが、どんな理屈をこねくり回しても、彼がいなければ爽もここにいなかっただろう。
真正面から御礼を言うには照れくさい。けれどその気持ちのおかげで、この暴挙を許していることに廉は気づいているだろうか。
「あとこれ一応……」
いつもより歯切れ悪く渡されたのは、質感の良い濃紺の袋。首を傾げながら受け取り、中を覗くとおしゃれなボトルが二つ入っていた。
「合格祝い」
「……気にしなくてよかったのに」
流石に二歳下に贈り物を貰う想定はなく、袋を持つ手から遠慮が溢れる。それを廉は許さず、顎でしゃくって開けろと命じてきた。
「えっと……シャンプー?」
「一人暮らしならご入用ではあンだろ」
ご入用とラベル貼るには些か高級過ぎる。そこに、髪にこだわる男の熱意と消え物という配慮まで乗ってしまえば、無機質なボトルから温もりを感じる。
「ありがとう」
オレンジの間接照明が幅を効かせる部屋で軽口ではない言葉を放てば、湿度が上がる。謝礼を言った瞬間に合ってしまった視線が、何故かなかなか外せない。
「……でさ。受験終わったろ?」
「うん」
「答え、ある?」
ここで惚けて「何の?」と聞くのは野暮すぎることは分かっていた。
廉からの気持ちに応える言葉を何ヶ月も待ってもらっていた。先週までは「受験が終わるまで」という不文律がお互いの間にあったが、それがなくなってしまった今、廉には訊く権利がある。
すぅっと大袈裟でもなく息を吸ってしまった。爽だって全く無視してきたわけではない事柄。でも、どれだけ考えても今はこれ以上の答えがない。
「……まだ分かんないって言ったら、怒る?」
赦しを乞うように上目で伺えば、廉は呆れ笑いしながら爽の横にスプリングを効かせながら腰を下ろした。
「……怒りはしねぇよ。ぶっちゃけ拒否られなかっただけマシ」
「そう?我ながらこれだけ待たせてる自分は酷い奴だって分かっているつもりなんだけど」
でも考えるべきことがたくさんありすぎて、正直本当に分からない。同性で良いのか?世間の目は?そもそも己の性癖への驚き。二個差とはいえまだまだ子供の彼に対して、己が間違った道を先導していいのか。
そして、廉を大事に思う気持ちが恋情なのかもはっきりと分からない。
「二次試験より難しい問題だよ」
眉間に皺を寄せながら愚痴のように溢すと、廉はプハっと噴き出して笑う。
「そんなに悩むもんかねぇ」
「逆に廉が決めつけ過ぎなんじゃない? 僕の何がいいの?」
ぽろりと出た言葉は心の中にずっとあった疑問だった。爽にとって自分の取り柄はせいぜい成績の良さぐらいだった。周りからは優等生だの大人びてるだの色々言われるが、その方が何も言われないからという狡さの方が勝っただけの結果で、大していい事だとも思っていない。仮面脱いだ先の言葉は捻くれだらけだし、可愛くない自覚の方が大きい。
だからこそ、廉がここまで執着を見せるほどの存在だあることに疑問しかない。
「先輩、俺の夢ずっと否定しないから」
「うん?」
一言の回答が腑に落ちないでいると、廉が後ろに手をついて顎を天井に向けた。
「前言ったろ。家では夢のこと口に出せやしねぇの。だから別に外でも夢の話なんかロクにしねぇんだけど。……先輩否定しないし、キラキラした目で見てくるし。……なんつーか、……俺が迷わずに夢追えるのは先輩がいるから、みてぇな」
恥ずぃな、と怒声混じりでそっぽを向いた彼は、耳の先を赤くしていた。それにつられるように、爽の心も昇温するような感覚を覚える。
廉の言っていることに誤解の一つもない。
「そこはまぁ図星ではあるけど……」
「『けど』、何?」
「でもそれって、その……性欲的な好き、とは別じゃない?」
未だに薄れないキスの記憶。それでも時々幻だったのでは、なんて疑ってしまうのは失礼だろうか。
そんな事を考えていると、わざと分かるようにため息を吐いた廉がくるりと振り返り、そのまま勢い殺さずに爽を押し倒した。
「っ……なに?」
「それは舐めすぎ」
鼻先が触れるぐらいの距離で廉が喋る。真っ直ぐに向けられる視線は熱くて痛いのに、不思議と逃げたくはなかった。
「さっきの話は理屈っぽい先輩用のお利口ちゃんの答え。なのに分かんねぇんだろ? じゃあはっきり教えるわ……」
もうこれ以上は寄れないと思った距離が縮まる。
「俺は今すぐにでもキスしたい」
唇の真上。掠れた声で囁かれた言葉。鼓動音が体全体を揺する程激しい。
廉の瞳が二、三回左右に惑う。ああ自分に遠慮してるんだな、と悟ってしまう。それと同時に爽の心は彼を逃したくないと強く切望していた。
廉の洋服にしがみつき、少し頭を持ち上げて唇を当てた。キスのやり方なんて知らないから"ぶつかった"が正しい表現なのかもしれない。それでもくっつけたかったという意図は十分伝わったらしく、廉の手が爽の首筋に添えられる。
触れただけの唇は一度離れ、一瞬ひやりと冷える。だがそれを感じれたのも束の間、廉が爽の上唇を優しく喰む。合わせるだけがキスだと思っていた爽の知識は儚くも崩れ、廉は角度を変えながら深く深く唇を合わせてくる。
混乱の海に溺れそうで廉の背中に手を回す。すると廉は爽の頭と背中を抱き抱え、より夢中で貪り出す。止め方も分からない。だけど伝わる体温と溶け合う唇の感触が心地よい。どきどきはするけれど、決して不快ではない熱のやり取りに暫し身を委ねる。
そんな温かな微睡のような世界に浸っていた中……、終わりは突然訪れた。
「……っ!」
「痛っって!」
口内にぬるっとした感触があり、それが何かを頭が判定する前に、爽は廉を突き飛ばしていた。そのついでに廉の舌も噛んだらしく、彼は口元を指先で拭い血の有無を確認している。
だが爽に謝る余裕もなかった。
止まっていた脳の処理が再開すると、羞恥心が体温を上昇させる。触らなくても頬や耳が赤くなっているのが分かると、隠すためにベッドのシーツを強い力で引き剥がして中に籠る。手足をばたつかせて感情をやり過ごしたいぐらいだが、生憎近くに廉がいるせいでそれも叶わない。
「……おーい」
布団の上からポンポンと背中を叩かれる。けれど、爽は籠城をやめる気にはなれない。
すると爽の真横のマットレスが、ぐっと下に沈んだ。
「悪かったって」
「…………調子乗りすぎ」
「……あれは乗るだろ」
「責任転嫁」
「はいはい、さーせんでした」
呆れながらの謝罪の後、廉は「つか俺も痛かったんだけど……」と付け加える。その言葉に突如不安が襲って、爽は掛け布団をチラリと持ち上げ廉の顔を盗み見る。
「……ごめん、切れた?」
爽が顔を出したのを確認すると、廉はぺろりと唇から舌を出す。確認しろという意味と悟って、爽が布団から這い出て廉の口元に寄る。
だがそれはただの罠で、爽はうっかり廉の腕の中に捕まった。
「……なぁ。これが答えって思っていーい?」
抱きしめられ耳元で囁かれる言葉。体温の温もり。好きな香水の匂い。
もう観念してもいいんじゃないか、と頭の中の誰かが囁く。
「……あのさ」
「ん?」
「前、僕が気持ち決めたら教えてくれる事あったよね」
「は?ンなことあったか?」
「夏休みの図書館」
暫しの逡巡の後、廉も思い当たったのか「あ、あー」みたいに感嘆をこぼす。
『先輩の気持ちが固まったら、その推察本物にして』
この問題の答え合わせをやるなら、今しかないだろう。
大きく息を吸い込む。今までだいぶカッコ悪い歳上だった。でも全てを観念したのだから、ここからはスマートにエスコートしたい。
「僕は、廉のことが……、好き。……だよ」
それでも肝心な愛の言葉は少しだけ震えただろうか。誤魔化すように「……廉は?」と問う。
すると彼は潰さんばかりの力で爽を抱きしめて、耳元に唇を寄せ、
——一生愛すから、……覚悟しとけよ。
