一日の大半を勉強に費やす冬が始まった。問題集に向き合っている時間は、ある意味平和だった。ふと廉の事を思い出すのがしんどくて、目を背けるためにも今まで以上に真剣に取り組む。
それなのに、成績は一向に戻ってこなかった。
あの日以来、爽はまた廉に会っていない。
以前は廊下で話し声を聞いたり、校庭を覗き込むと見かけたりしていた。それも皆無ということは、廉の方も気まずくて姿を見せないようにしているということだろうか。
もちろん屋上にも行けていない。2年の頃は行き詰まるたびにあそこに行って気を抜けていたのに、今や忌憚すべき場所と化してしまっている。
それでも屋上に続く階段の前を通ると、ふと見上げてしまうのだ。偶々廉が降りてきて、以前のように気まずさを無視して「よぅ」なんて声をかけてくれるのを妄想して。そんなこと起こるはずもないのに。大体、今回は悪いのはこちらだ。頭を下げるのは自分から。道理は分かっているのに実践できないなんて、滑稽にも程がある。
でも仕方ないと言い訳付ける。家庭でも自分と歳の離れた妹に譲ってばかりいた。小学生の頃から優等生を演じきってきた。誰かと本気でぶつかった経験なんてないのだから。
外が冷えるにつれて、教室が暖かくなってくる。それは南向きの校舎という意味だけではなく、共に苦しむ仲間がいる心強さに起因しているだろう。
そんな中で開催された球技大会。三年の出場は自由だが、爽のクラスの男子は息抜きとしてサッカーにエントリーしていた。爽自身得意ではなかったが、団結力の増してきたクラスメイトに誘われれば断るのも気が引けた。
ジャージのジッパーを首元までしっかり閉めて校庭に出る。まだまだ遊び盛りの下級生たちは、ムキになったりおちゃらけたりしながらボールを追いかけていた。懐かしさに目を細めつつ、爽は誰もがそうするように得点板に目をやる。そこで目に入ったクラス名にヒヤリと心臓を冷やし、爽は慌ててコートをもう一回見回す。
目の前の試合に出場しているクラスは廉のクラスだった。彼ならサボりもあり得るだろうが、サッカー日本代表の試合の翌日は興味のない爽にも力説するほど、彼はサッカーが好きだった。しかも偶に友人と校庭で興じる姿を見かけていたから、ここに居てもおかしくない。
けれど、人より目立つ明るい髪の男はそこにいなかった。
ピーッと試合終了のホイッスルが鳴る。二年生が一点差で逃げ切りに成功した。お互いがコートの真ん中で一礼を交わす。入れ替わりでクラスメイト達がコートに入って行き、倣うように爽も続くと、すれ違った一年生の会話が漏れ聞こえた。
「最後のシュートが決まってたらなぁ。PKまでやりたかったぜー」
「お前じゃ無理だろ。鹿賀来呼んでこい」
「あーちくしょー。なぁアイツマジどこ行ってんの?サッカーやれし。最近教室にも来ねえし」
「は? お前知らないの? アイツ、転校するらしいよ」
転校というワードを聞いて、爽は足を止める。知らない事実に心臓が鷲掴みされたようにギュッと強く痛んだ。
「え、マジ? いつ?」
「今月末だったかな? 俺も詳しくは知らねえけど」
「ッそれ本当?」
気づけば爽は見ず知らずの一年生の肩を掴んでいた。突如絡まれた少年は驚きつつも、肯定を示すために頷く。
「あ、はい。多分ですけど。……なんかお父さんの引っ越しでとか言ってたと思います」
「笠原ー」と自分呼ぶ声に、爽はコートを見遣る。真ん中に整列した仲間を見て、爽は一年生に簡単に謝辞を述べて駆け戻る。ただ、頭の中はひどく混乱していた。
転校するなんて話は、廉から聞いたことがなかった。一体それはいつから決まっていた事なのだろうか。
否、それは今考えても仕方がない。
問題なのはこのまま仲違いをしたまま別れてしまって良いのだろうか。
以前のような執着の薄い自分なら、きっと何にも思わなかっただろう。だけど爽の心は、このままじゃダメだと大声で叫んでいた。
年齢差もある。性格も正反対。趣味も違うし、共通点なんて一個も見つけられない。それでも彼と過ごした夏は、思い出すと目が眩んでしまうほど楽しかったのだ。
コンビニで買って溶かしながら食べた氷菓も、一回間近で見てみたいと弾丸で行った花火大会も、納得がいかないと喧嘩寸前までいった数学の文章題も。全てが宝石のように、爽の心の中で光り続けている。
「ごめん。抜ける」
爽は一番身近にいたクラスメイトに一声かけ、静止も無視して走り出す。
小走りで下駄箱を抜け、階段も駆け上がり、教室まで戻ってくる。ロッカーの鍵を開け鞄からスマホを取り出して数秒逡巡する。
下級生の口ぶりからすると、廉は最近学校に来ていないらしい。ならば学校中探すよりも連絡を取った方が早い。けれど、ここはスマホの禁止されている校内。どこかに隠れて——……そう考えれば、思いつく場所は一箇所だった。
何度も行き慣れた道を最短コースで走り抜ける。行事中の校内は人も少なく、どれだけ急いでもぶつかる人もいない。それを免罪符に廊下を走ることを許して欲しい、なんて思っているあたり自分は優等生の枠から抜け出せない。
それでも廉にはしがみつきたくて、スマホの電源を立ち上げながら最後の扉を潜る。何て連絡したらいいのだろう。喧嘩別れしておきながら今更。
でも"今"を逃せば"この先"はなくなってしまう。
だから——。
荒い呼吸を整える間もなく開放感溢れる屋上へ辿り着く。だが電源のついたスマホは役に立つことなく爽の右手に収まったまま。扉の前に人影があって、その背中を見つめながら呼吸を整える。
思い描いていた人物は、屋上の欄干の側で見慣れない黒髪を靡かせていた。
「……廉?」
「んをっ?」
奇声を上げながら振り向いた彼は、やはり廉だった。
そこまで認識できると、爽の視界は勝手にぼやけ始めた。
「ねぇっ。……転校って……どういうこと?」
彼の顔がぎょっとしたものになり、「何で知って……」と後ずさる。だけど爽は構わず距離を詰めた。
「だからあの日、夢忘れていいって言ったの? それ違うじゃん。一緒に夢叶えたくなくなっただけでしょ。なんで、僕のせいみたいにするの? なんで——」
一緒に夢を叶えさせてくれないの?
自分の八つ当たりで彼にあのセリフを吐かせたくせに、とんだ棚上げ過ぎて言葉に詰まる。生まれた妙な間。誤魔化すように鼻を啜って俯く。
すると頭上から優しい手と声が振ってきた。
「……ちげぇよ。それ。先輩の勘違い」
「…………」
「俺の熱意なんて、先輩が一番知ってンじゃん」
廉の指摘通り、爽が一番彼の夢にかける情熱を知っている。それを疑わないでいてくれたことだけで、もう胸が熱かった。
だけど、まだ全てが繋がらなくて、頭を撫でてくる廉を上目見る。廉は「あーもう、ンな顔して」と悪態をつきながら、ついに爽を腕の中に閉じ込めた。
「きちんと説明すっから、聞いて」
優しい声音と体温に安心して頷けば、まるで"いい子"と褒めるように廉の手が爽の頭を往復した。
「元々今年の春の時点で、俺の親父が東京に行くことは決まってた。けどそれが決まった時には俺の高校受験は終わってたし、今更東京行っても親父の言う良い高校には空きがねぇし。ついでに俺と親父の仲が悪いこともあって単身赴任にしてもらってたわけ」
爽は廉の心音を片耳で聞きながら、自分が落ち着きを取り戻すのを感じていた。
「んで。そのままここで三年過ごすってのも全然アリだったけど、姉貴も東京の大学目指すってのもあって、じゃあ落ち着いて編入すっかって話になって。だから転校。……ってのが表向きな」
廉に包まれる腕の力が一段と強くなる。遠くで上がる歓声が、屋上の静けさを際立たせていた。
「本音はこっち。……先輩が凹んでんの見て、俺になんかできねぇかなって」
「……え?」
「なんか、離れたら忘れるとか言いやがるから、じゃあ離れなきゃいいんだろって。俺が、"俺らの夢"の足引っ張んのは嫌だから、そういう悪の芽みたいなのは潰しておきたかったっつぅか……」
照れながら小さくなる声に、爽は別の羞恥心を感じていた。あの喧嘩の日以来、爽は気まずさだけ感じていたのに、廉はそんなの通り越して、ずっと二人のことを考えていてくれたのなら——。自身の幼さが恥ずかしい。
「……ごめん」
ずっと言いたかった3文字が、自然と口から溢れていく。それと一緒にいろんな感情も出ていきそうで、思わず廉にしがみつく。
「なにが?」
「酷いこと言って」
「別に本音だって思ってやしねぇよ」
喧嘩慣れしている男は、どうやら仲直りも慣れているらしい。二つも年下なのに、どこかムカつく。
「……でも廉だって酷かった」
「俺何つった?」
「萎えた、って」
去り際の冷たい一言に、爽だってずっと傷付いていた。あの一言の主語が知りたかったのだ。喧嘩に対してなのか、夢に対してなのか、それとも爽自身に対してなのか。
「それこそ、その場限りの適当な言葉なんだから許せよ」
「許すかどうかは謝られている僕の方の権利だよ」
「はい始まったいつもの屁理屈〜」
廉が茶化しに入る。この空気が懐かしくて嬉しい。
でもそれは、この分け合っている体温が残り僅かな時間だということを暗に示している。だから急いで伝えたい事を伝える。
「でも勿論許すよ。……ごめんね、……ありがとう」
「……おう」
やはりと言っていいのか、廉はゆっくりと腕の拘束を解いてそっぽを向きながら笑う。
「つか俺の執着舐め過ぎ。先輩を婿にもらうっつっただろ。勝手に先輩置いてくわけねぇの」
「うわそれいつの話?」
「おい忘れてんのかよ。俺の大告白」
「……あんな適当なのが?え、じゃああの後キスしたのは、僕が受理したと思ってたの?」
「違う!変に真面目に取んな面倒くせぇ!」
廉に突っ込まれて、爽は下を向いてくつくつ笑う。こんなに気持ちよく笑えたのはいつぶりだろう。
まだ進路が決まったわけではない。あまつさえ己の気持ちすら曖昧なまま。だけど、どんな未来になろうが、廉の隣にいる限り未来は輝いている。そんな確信すら湧いてくる。
「それで、引っ越しはいつなの?」
いつもの2段差の階段の上に陣取る。見上げた空は果てしないブルー。
願わくば、このまま彼の横で同じ空を見上げられ続けますように。白雲が魔法のような軌跡を描く空は、何故か爽の願いを叶えてくれそうに見えた。
