一つ大きい台風が日本列島を通り抜けると風は一気に秋を運んできた。強すぎる日差しを避けるように屋根の下を選んで歩き、吹く風に髪を抑える。秋の遠い青空に地毛より黒くなった髪が瞼の上にちらつく。指通りを気にするようになった髪を一撫でし、爽は定位置に腰掛け文庫本を開いた。
 夏休みは勉強三昧だったのは勿論、少ない息抜きすら廉と過ごした。彼と過ごす時間は、今まで18年間生きてきた世界を一気に覆すようで刺激が多かった。決して楽しくなかったわけではないけれど、ふと気付けば読みたい本が積読されていた。
 待ち侘びていた読書タイム。しかも、廉は10月の頭にある体育祭に向けての練習に参加するらしく、しばらく屋上には来れない、と別に頼んでもいない宣言を聞かされた。よって彼の来訪を意識に入れることもなく、数ページで本の世界に没入する。
 そうして夢中で一章を読み終えて顔を上げた時、自分の裏手で人の声がする事に気付いた。

 耳をすませば男女両方の声が聞こえる。いつぞやの恋人だろうか。
 気付いてしまった上で本の世界に戻るには気が引けて、残念な気持ちを抱えながら爽は腰を上げる。だが、耳に入ったセリフに思わず動きを止めた。

「ごめんね……、私、佐藤くんとは別れたい」

 嗚咽混じりの女性の声。
 フる方が泣くものなのか、と場違いにも爽は疑問を覚えた。

「うん。そうかなって思った」

「ごめんね。……本当にごめんね」

 目の前——正確には背後だが——で繰り広げられる人間ドラマについ先が気になってしまう。それにしても、ついこの前まで忍びきれないキスをしていたほど情熱があったはずなのに、二人はどこで冷めてしまったのだろうか。

「俺の方こそごめんね。……今までありがとう」

 パタパタと上靴の足音が一人分。そのあと静かなため息と共に大きな人影が爽の方に向かって来る。どうしようと考える間もないまま、カップルの片割れかつ同じクラスの佐藤が、爽を見て目を見開いた。

「……笠原?」

「ごめん、盗み聞くつもりじゃなかったんだけど」

 先手を打って謝罪を繰り出すと、佐藤は苦笑して首を振った。

「俺の方こそ悪い。……誰もいないと思ってた」

 続けて「ここ、いい?」と確認をとった佐藤は、爽が頷くまで階段に座らなかった。
 彼は空を見上げてふーとまた深くため息を吐く。これが所謂『傷心』というものだろうか。対応マニュアルは知らないが、爽は空気を読むように人一人分の間を空けて佐藤の隣に座った。

 秋空を視界に移したまま、佐藤は微動だにしない。同級生とはいえ、爽は彼と大した会話も交わしたことがない。もしかしてここは一人にしてあげるのが正解かと思い直し、文庫本を持ち直したところで佐藤が口を開いた。

「俺ら、受験生なわけじゃん」

「…………そうだね」

「それが何か身に染みたっつぅか……」

 曖昧な会話の滑り出しは着地点が見えず、爽は静観することしか出来ない。
 一方佐藤は空から目を離して、何もない屋上の床を見つめた。

「あの子、部活のマネでさ。インハイ終わったら付き合おうってなって、すっげぇ盛り上がったんだけど。夏休みになって、こっちは受験勉強あって、でも向こうは暇で。……会いたい、会えない、みたいのが続いたら、……そりゃ関係も薄くなるよなー」

 ドラマのあらすじを聞かされているような明快さ。その流れを聞く限り、役者の誰にも非がない。強いて言うならば年齢差か。

「掛ける言葉がこれであってるのか分かんないけど。……残念だったね」

 失礼にならないように枕詞を乗せておくと、佐藤は頬杖をついて爽の方を見て、不自然に笑った。

「あんがと。……けど、残念でもねぇっつうか。正直ホッとしたんだよな、俺。これで勉強に集中できるって。……たぶん、それ見越されてて、向こうにフラせた」

 卑怯者だろ?とニヒルに笑う佐藤に、爽は思わず自分の夏休みを思い出して首を振った。
 廉に邪魔され尽くした時間。全く苛立たなかったわけではない。だが、それ以上に爽にとっては良い息抜きだっただけ。もしソレが心地よい時間ではなかったのなら、この結末はコチラにもあり得た話だ。

「俺も東京の大学目指してるし。正直遠恋はきちぃって思ってたから。イマで良かったって思ってんの。……酷い奴かな?」

 床から目線を上げて佐藤がこちらを上目見る。その顔は言葉とは裏腹、どこか不安げに揺れていた。

「全然。合理的だと思うよ」

「そう?笠原がそういってくれると余計箔がつくわ」

 欲しい言葉をそのまま与えただけ。大根役者にならなかったのは、せいぜい思っていることが本音だったおかげだろう。それでも彼は多少なりとも満足そうだった。

「ありがと。少し気が楽になったよ」

 立ち上がる彼を、爽は見上げるに止めた。彼はそのままポケットに手を入れながら屋上から立ち去る。
 佐藤とは反対に、爽は逆に気が重くなった。

 今まで自分の人生に全くと言っていいほど影響を及ぼさなかった"恋愛"という分野が突如存在感を放ち出している感触はあった。
 一夏、自分の気持ちも曖昧なまま廉と過ごした。一方、廉からの愛は優しく穏やかで、心地のいいものだった。突如キスされた日の熱情など幻だったと疑うほど、彼は丁寧に爽を愛してくれた。
 だが果たしてそんな彼の想いに応え得る気持ちを爽自身が持てているかは甚だ疑問だった。この先に控える受験という0か100しかない未来。距離が離れるという事実。そして、同性という不自然さ。
 何もかもが不安要素しかない。今まで酷く安定的に過ごしていた爽にとって、この数ヶ月の冒険はきらめき輝いたものだったが、それと同時に多くの疲労感とストレスを齎している。

 悩みを振り払うように強く息を吐いて、わざと集中して目の前に焦点を合わす。欄干の隙間から見えた校庭では、下の学年が制服のままサッカーに興じている。その中に廉がいない事を無意識に安心していた。








『今日は屋上行くから待ってて』

 登校前に届いたメッセージを見た瞬間、爽は歯を磨く手を止めた。スッと画面をスクロールすれば、最後のメッセージのやり取りは9月上旬で止まっている。
 つまり、それだけ爽は廉に会っていなかったのだ。

 別に特別な間柄でもないし、廉から会えない正規の理由も聞かされていた。それでも、以前会った時の廉は週に数日程度は屋上にいるとも言っていた。だからこれだけ間が空いたのは、爽が避けていたからにほかならない。

 もちろん夏休み明けの時点では爽もこうするとは思っていなかった。だが、丁度佐藤がフラれているのを目撃した翌日、届いた模試の結果の酷さに爽は立ち眩んだ。確かに夏休みは爽の想定より堕落していた。けれど、ここまでとは——。
 慌てて参考書を開いて勉学に勤しむ。だが多少問題が解けないだけで、焦りは以前の倍以上に膨れ上がる。今のままでは廉との夢が叶えられない。不安が付き纏う。そしてその中で自分の中の悪魔が囁く。何故己の夢でもないのに必死になっているのだ?、と。

 だからこそ廉に会うのを避けていたが、こうも直球で狙われると逃げられない。爽は歯を磨く手を再開させ、既読を付けてしまったメッセージに返事を打って画面を暗くする。
 口を濯いで鏡に映った自分の顔を見つめる。
 元に戻った黒髪は少し目にかかるほど。廉に貰ったヘアワックスは、洗面所の隅で埃を被り始めていた。




「うわ髪伸びたなー」

 彼流の『久しぶり』は、やはり髪の話題からだった。そこに"らしさ"を感じるのに、いつもと違って胸がざらつく。
 それに、爽の来訪に合わせて廉が起き上がって佇まいを直したのも、爽をビビらせた。日和って立ち竦んでいると、廉はバンバンと床を叩いて爽に横に座るように促す。

「うん。切らなきゃなって思ってる」

「今度は染めるわけにもいかねーしな。冬になっからあんましバッサリ切るのもおすすめできねぇし」

 ぶつくさ一人で考えを呟く廉に、爽は何故か段々と苛立ちを覚えてくるのを感じた。
 何を呑気に——と。

 特に最近は、少し仲を深めた佐藤と傷を舐め合うように過ごしていた。お互いの苦労や不安を分かち合った上での会話と比べると、平穏の中にいる彼の言葉が変に胸に刺さる。

「……どした?」

 無言を貫く爽に違和感を感じたのか、廉が下から覗き込む。爽は唇を震わせないようにしながら、ゆっくり首を振った。

「なんでもないよ」

「けど、あんま喋んねぇし」

「こんな感じだったよ」

「顔色もよくねぇし」

「受験の追い込みで疲れてるだけ」

 首傾げたままの廉をなんとかあしらって、思考を勉学に戻す。こんな道草をしている間に、ライバルたちは暗記項目をいくつ増やすのだろう。焦燥感から、ここにいるべきではないと頭が唱える。廉には悪いが切り上げさせてもらおうと思い始める。だがその時、

「爽先輩でも受験勉強ってやつに追い込まれんだなー」

 無責任な感想に、腹の底がカッと熱くなるのを感じた。これがもし半年前の爽なら、笑って皮肉の一つでも返せたはず。だけど、そんな心の余裕はどこにもなかった。

「……るな」

 小声で放った言葉は廉に届かず「は?」と聞き返される。
 まだ今なら後戻りできると分かっているのに、感情に全てを支配される。

「ふざけるなっ、俺が……どんな気持ちでっ……」

 お前の夢を叶えようと必死になっているのか——。

 そのセリフが声にならない。どんなに怒り狂っていても、それが如何に八つ当たりかを分かってしまっている。
 だけど止めたつもりの言葉は廉に悟られてしまい、彼は驚くほど悲しい顔をしたあと、静かに微笑んだ

「……や、悪い。先輩の重荷になんなら、アレ、ナシでいいから」

 見た目に反した廉の聡明さ。爽を慮った発言に違いない。だけど、今はそれが悪手だった。廉へ大人の対応を取らせてしまったことへの羞恥心が、火に油を注ぐように怒りを増幅させる。

「……へぇ。そうなんだ。ナシにできるぐらい軽いやつだったんだ」

 気持ちと反比例するように静かな嘲笑が溢れる。すると、廉の目にも小さな怒りが宿った。

「ンなこと言ってねぇよ。ただ先輩が追い込まれるぐらいならっつぅ話で」

「丁度良かった。僕も進路考え直したくって」

 あの日見た模試の判定のアルファベットは、頭の中をよぎるだけでまだ胸を締め付ける。

「それにさ、来年僕は東京に行く。そしたらあんな夢の話はきっと有耶無耶になるだろうって思ってたし」

 ここ連日佐藤に聞かされる世間話では、三年絡みのカップルが続々と別れているらしい。誰も彼も理由は同じ。未来への不安だ。
 その話を心の奥底に落とすまいと抵抗していたはずなのに、まるでそれは白い紙に落ちた墨汁のように、知らず爽の心に染み広がっていた。

「たかが2年で先輩のこと忘れたりしねぇっつの」

「どうだか。さっき簡単に忘れていいって」

「それは別の話だろ!」

 ぐっと胸ぐらを掴まれ、強制的に廉に視線を合わせさせられる。暫しの沈黙。こういう場合において白目の面積が廉の多い睨みは恐ろしくもある。
 けれど、爽も負けじと強い視線で廉を睨みつけた。

「……萎えた」

 突如、拘束の手が緩み爽が解放される。軽く突き飛ばすように放された体は二、三歩背後によろめいた。だが体勢を戻す僅かな間もなく、廉は屋上を出て行ってしまう。
 過ぎ去った嵐に怒りのやり場が消え、冷めた心に舞い込んだのは呆然だった。

 一体何をやっているのだろうと自問自答をする。廉と会って何がしたかったのか。己の夢は何でどんな努力をしなければならないのか。果たしてこの先何者になりたくて、どんな未来になってしまうのか。
 漠然とした未来への不安が拭えない。その上成績は思い通りにならない。
 仕方ない、がんばれ、もう少し、諦めてしまえ。
 居もしない周りの声に、心の器は疲労の水で溢れかえってしまい、ついぞ溢れてしまった。
 廉に当たってしまうほど参っていたのだ。それもどこかで分かっていたはずなのに、彼に甘えるという形で思ってもいない事を口にした。
 彼も呆れただろう。もう同じ夢を見る権利はないだろう。

 爽が初めて見た、あの夢を——。

 果てない喪失感。何もかもに置いて行かれてしまって、爽はお気に入りの屋上に座り込む。
 空を見上げても、今日はどこにも青空がなかった。