どこかのクラスが水泳の授業をしているのだろう。蝉の鳴き声を凌ぐ歓声が、冷房のために締め切った教室にも透けて聞こえる。見えるわけでもないのに爽は窓に視線をやって、屋上が目に入りそうになったところで一人焦って視線を逸らす。
あの日——爽の記憶が正しければ廉とキスをしてしまった日から、爽は屋上に赴いていなかった。表向きの理由は連日記録を更新する猛暑日のせい。けれど、もちろんそれだけではない。
あの日からずっと廉の行動の意味を考えている。
廉の見た目なら"遊ばれた・揶揄われた"が存在しても可笑しくはない。けれど彼がそんな安い男ではない事は、爽が一番よく分かっている。だけど、自分にとって初めてのコトだとはいえ廉のキスは上手の部類だった。でなければ二回も、否それ以上も唇を合わせることはなかっただろう。だとしたら、廉はキスに慣れているわけで、……そうしたら遊びも可笑しくないわけで。
接続詞をいくつも重ねて推理しても一向に答えが出ない。
それよりもっと恐ろしいのは、自分の気持ちも曖昧なことだ。
もちろん廉のことは尊敬という意味も含めて好いていた。そこに恋愛的な感情は全くなかった"はず"だ。それなのに、あの日のことを思い出そうとすると胸が痛む。そのことから逃げるように、関連するものを全て視線の外に追いやって日々をやり過ごしている。
自分は受験生なのだ。余分な事に気を取られていれば、すぐに置いてかれてしまう。覚悟を改め、気付けば終業式の日が来ていた。
元々去年も夏場は屋上には寄り付かなかった。夏休みに入れば廉と会う事はない。そうして秋が来た時に、ふらっとまた元のような関係に戻れればいいな、と問題を先送りにしようとした時、まるでそうはさせまいと廉が爽の教室の出口で待ち構えていた。
ざわつく教室内。一度合ってしまった視線は逸らせず、爽はできるだけ平静を装って廉の方にゆっくりと向かう。屋上に寄り付かなくなったことを怒られるだろうか。いやその義理はないはず。逆に廉の行動を責めたっていい。
そんな事を頭の中で整理しつつ廉を見上げれば、彼は何故か驚きつつも柔らかく微笑んだ。
「捕まんねぇから来た」
「……屋上は暑いからね」
「マジ同意」
思ったよりいつも通りの会話が出来ていて自分でも驚く。だがここは屋上とは違い数多の視線がある。
爽は廉の腕を引っ張り、廊下へと連れ出した。
「それで。わざわざ僕の教室まできて、どうしたの?」
用件を聞くのが少し怖い。けれど、恐怖を無視して会話を続けるのも怖くてさっさと切り込むと、廉からは意外な答えが返ってきた。
「先輩、今から髪染めね?」
お互いの視線がバチっと絡む。暫く見ない間に廉の髪の毛は金と黒のツートンカラーになっていた。
「前『いいね』とか言ったろ。腕の良い美容師知ってっから」
「確かに言ったよ。でも今からって……」
「ほら夏休み入んだろ。そしたら先輩の気にする校則もなくなるんだし」
「校則はなくならないよ」
「見つかんなきゃルール違反じゃねぇんだよ」
「それを言ったら万引きも殺人も見つからなければ問題ないみたいに聞こえるじゃん」
「SNSみてぇに炎上させんな面倒くせぇ。で、やる?やらない?やるよな?」
ほぼ恫喝のような誘いに、何故だか段々笑えてきた。今まであれほど悩んでいたのがバカらしくなるくらい、廉は廉のままだった。
じゃあアレは何だったんだって怒る前に、彼の誘いに乗ってもいいかなという気分になってきた。何せ今日は終業式。クラスに蔓延る浮き足だった気持ちが爽を唆す。
「いいよ」
頷いて快諾を示すと、廉が一瞬目を大きく開く。彼の想定の中にも一応断られる事もあったのだろう。だがそれが見えたのも束の間、次の瞬間には爽が思わず可愛いと思ってしまうようなぐらい、廉がはにかんで笑った。
終業と共に校門で待ち合わせ。逃げんなよ、と釘刺して廉はヒラヒラと手を振って一年の教室の方へ向かう。その背中には、ぶんぶんと揺れる尻尾の幻覚すら見えて、爽の方もクスリと笑って最後のホームルームのために教室に入った。
*
文字書く音。ページを捲る音。そしてエアコンの駆動音。その3種しか聞こえない静かな自習室で、爽はふっと顔を上げた。
表紙の角が柔らかくなり始めた問題集にひと段落つき、天井近くにぶら下げられた時計を確認すると、記憶していた時刻から長針が一周回っていた。音立てぬように佇まいを直すと、揺れたブルーの前髪が視界に入った。
だいぶ見慣れたとはいえ、まだ少し違和感のあるそれ。夏休み0日目に染めた色は爽の想定より明るかった。そのせいで学校の開放室を使えなくなり、廉と軽く揉めた事はまだ記憶に新しい。ただ鮮やかなブルーは日にちが経つにつれ段々と落ち着いて、今は光に透けるとその色を表す程度になっている。その事は揉めた際に廉からも再三言われたが、当時は全く想像もつかなかったし、蒸し返して謝るほど廉は根に持つタイプじゃないから、そのままにしてある。
そしてそれとは関係なく、廉は連日爽が居場所とする図書館についてきていた。
最初のうちは夏の課題を持ち込んで、爽に教えてもらいながらこなしていた。だがそれも数日にとどまり、最近では息抜きの方が長くなっている。高校一年生が受験生の勉強時間についてこれないのは当然なので、爽もそこは咎めずに放っておいている。
一方、廉の息抜きは図書館の来訪者に似合う髪型を想像する、というものらしい。『普段見かけねぇタイプの奴らがうじゃうじゃいっから、考え甲斐がある』とは廉の発言。ただ途中から『ここにくる奴らはやっぱ派手な髪は合わなくって、大体似たり寄ったりになっから面白くねぇ』などといって、どこかにフラリと消えてしまうのも恒例だった。
それにしても、今日はどこに消えたのだろうか。爽は貴重品だけ持って立ち上がる。市の規模の割に大きな図書館は散策も楽しめる。たまに意外な場所に廉がいることもあり(ただし昼寝中)、爽もこのかくれんぼを楽しんでいた。
だが今日はなかなか見つからない。外に出てしまったか、と疑いかけた時、背の低い本棚の上に明るい髪色が目に入った。
「おにーちゃん。すごーい」
甲高い声が館内に響いて、母親とみられる女性が慌てて口元に人差し指を持っていく。
「うし。かわいくなったな」
「嬉しい!マジカちゃんそっくり」
母親の静止も効かず、女の子はぴょんぴょんと跳ね回る。その姿を目で追った廉が爽を見つけて、決まり悪そうに目を逸らした。
「楽しそうだね」
「……親御さんには許可取ったぞ」
「何も非難してないけど?」
「声がンな感じだった」
先ほど女の子がいた場所には、今児童に人気の『魔女っ子マジカちゃん』シリーズが置いてある。カチューシャに見立てた三つ編みとアシンメトリーなおさげ髪の魔女娘は、今表紙から飛び出し図書館中を走り回っている。
爽は表紙と女の子を見比べて、ほうとため息を吐いた。
「すごいね。伊達に美容師目指してない」
「……まーな」
照れたように鼻を啜る横顔を見てから、爽は無意識に体の前で指を組んだ。
こういう時、爽は酷くもどかしい感情になる。夢を追い求め煌めき輝く廉の横にいるのが、何だか居た堪れない。夢の片棒なんて都合の良い言葉。自分なんて『便乗』がお似合い。必死で勉強して医学部を目指す意味さえ空虚に思えた。
「……腹減った。飯にしよ」
声をかけられて我に返る。柱時計を見れば正午を少し過ぎたところ。ついでにマジカちゃんになった女の子が、深い会釈をした母親に連れられて図書館から出て行くところが視界に入った。
「そうだね。どこ行く?」
「バーガー」
「その一択しかないの?」
「一択しかねぇのに聞くなよ」
軽口を応酬して、爽は頭を振って笑う。時々こうして胸巣食う邪念を空腹のせいとして、爽は自習室に荷物を取りに向かった。
*
十三時も過ぎると店内は空いてきた。急足で食事を済ませたサラリーマンたちが挙っていなくなるからだ。フライの揚がるピープ音が響く店内で、爽はカフェオレの残りをストローで突いた。
勉強漬けの毎日。戻らなきゃと思うのに判断が鈍るこの時間が嫌いだった。その不満顔が出ていたのか、廉が上目遣いでこちらを窺い見ていた。
「あのさぁ……」
汚い音が出ないように慎重にカフェオレを飲みながら、爽は目線だけで先を促す。すると廉は徐に席を立った。
「ちょっと触って良いか?」
何を、と訊く前に廉が席を移動して爽の隣に座った。いつぞやのことが蘇って身体が無意識に固くなったが、廉が触ったのは爽の髪だった。
「だいぶ落ち着いたな」
「そうかも。こんな風になるなんて知らなかった」
「染めた日、ギャースカ言ってたもんな」
思い出し笑いを付けて話す廉は、この件を引きずってはいないのだろう。爽も知らず担いでいた肩の荷物を下ろして、ふふっと笑う。
「今は、……やっぱり良い色だと思う」
真正面から褒めるのは照れ臭くて、早く茶化してくれと願うのに、廉は何も返さず爽の髪をいじり続けている。
「次はさ、ワックスでいじんのはどう?」
「ワックス……」
「そ。今からやってい?」
爽の返事も待たずに廉はポケットから小箱を出す。カバンすら持たない彼から、髪に関するグッズは出てくるのが面白かった。
店内はまだ人目が残っている。爽が少し躊躇うも、廉は気にせず爽の髪を引っ張り出した。
「先輩、兄弟いる?」
唐突な話題に視線を僅かに上げる。まるで本当に美容院にいるみたいだ。
「いるよ」
「当ててやる。弟だろ」
「残念。妹が二人」
「うし。大体当たり」
「どこが? 人数も性別も違うよ」
普段人に触られる機会のない頭皮に廉の指が触れ、少しだけゾワリとする。
「ぜってぇ上の子って感じがした」
「へぇ。どんなところが?」
あまり言われ慣れない事に素朴な疑問が浮かぶ。頭の上を這う手が一回止まって、机の上のワックスを引き寄せた。
「さっきさ。いいなーって顔してたから」
ふわっと広がった整髪剤の良い匂いを鼻に感じながら、刹那思考が止まる。何かを深く考えるまもなく脊髄反射の質問が口から飛び出る。
「なにが?」
「図書館のアレだよ。マジカちゃんになった子見る目がさ。なんか、俺にもして欲しー、みたいな目してたから」
「そうかな。……そんな風には思ってないけど」
事実をありのままに否定した後、ついさっきの記憶が蘇る。あの時は廉の夢に直向きな姿に嫉妬を覚えていたのだ。
廉は「そうかー?」と会話上滑りさせながら、爽の髪を掻き上げていく。
「けど先輩たまにする。なんか物足りねぇって顔。しかも上の子特有の我慢してます、みたいなやつ」
「なにそれ」
語尾に笑いを添えて誤魔化そうとする。けれど廉は釣られ笑いもせずに、髪の先までワックスを伸ばしながら真剣な面持ちを崩さない。その静かな無言の間が、爽に考える猶予を与えてしまう。
確かに爽は廉に羨望の気持ちを抱いたこともある。初めて会話を長く交わしたあの日は顕著だろう。でも以後ずっと羨望が顔に出ていたのならば、と想像すれば羞恥に体温が上がる。
ついでに例の触れ合ってしまった日のことが頭の隅を全速力で過っていく。あの日は、想い合うカップルに羨望を抱いていた。爽の家族は淡白だ。例に漏れず爽も淡白だと思っているが、情熱的に誰かを想う事に憧れがないわけではない。それは友人関係という意味合いだと思い込んでいたが、あの日は恋人関係についても羨望していた。
だが。……だとしても——。
「それは廉の思い込みだよ!」
「うわ何だよ急に大声出して!」
廉の指摘に慌てて首を引っ込める。あの瞬間のことまで記憶がなぞってしまい、うっかり心拍が上がってしまう。
だってあの日、廉は『爽がキスしたがってる』といった趣旨の発言をした事が記憶にはっきり残っているのだ。
「ごめん。……でも、廉の思い過ごしじゃない? 僕、髪弄って欲しいなんて全く思ってないし」
とりあえず目の前の事象だけ否定する事で、過去のことも一緒に否定した気持ちにしてみる。すると、髪いじりに夢中の廉は、「そうかァ?」と疑問は呈しつつも、形だけは同意してくれる。
それに安堵し、爽は肩から力を抜く。今更ながら気付くが、人に髪を弄られている瞬間は存外心地いい。瞳を閉じて話題を終了させ、廉に身を任せる。それ以降は彼も職人気質を発揮させ、黙々た作業を進める。
時間にしたら数分足らずのこと。廉は爽の前に回り、左右の髪のバランスを整えた後、爽に店の窓ガラスを視界に明け渡す。鏡ほど反射がいいものでもないが、暗めの背景に辛うじて映った自分の姿は想像以上に輝いていた。
うっとり、とは言わないが角度を変えて確認する。廉の手腕については、絶対的には判定できないが相対的には評価できる。だからこそ的確に褒める言葉を探していると、廉の方が先に照れたように笑った。
「あーだこーだ言ってたけど、何だかんだ嬉しそうな顔すんのな」
「……それは廉が上手いからじゃん」
先を見越されて逆に恥ずかしくなる。窓ガラス越しに合う視線。いつもならばここで笑って終わる一幕。
けれど、廉は真顔になって爽を見つめた。
「そ? ……じゃあの日も?」
終わったと思い込んでいた話題を相手から突っ込まられて思わず固まる。敢えて避けていた話題。口の中に自然と涎が溜まる事に不快を覚える。
「あの日……?」
バカを装って分からないフリをするも、廉の視線は爽の陳腐な演技を見透かしている。ドクンドクンと鳴る心臓の音がうるさくて、まるで耳の真横に臓器が付いているようだ。
何かを紡ごうと口を開くも言葉にならない。陸に打ち上げられた魚のように何度か無意味に口を開閉しただけ。でもどこからの助け舟は来ないので、そっと伺うように滑り出す。
「廉はさ、僕のこと……」
その先が口に出せず、踏み出した一歩を戻してしまう。自意識過剰だと何度も封をしたソレ。開封してしまえば元に戻れない。だからこそ怖いのに。
「……察してンだろ?」
窓に反射した廉はやっと視線を外して、腰を上げて側にあった水道に向かう。そこで爽はやっと生身の廉を視界に入れる。黒のTシャツの裏で動く肩甲骨の動きに、理由もなく目を奪われた。
「……分からないよ」
「先輩に分かンねぇことねぇだろ」
「買い被り。まだ知らないことだらけだよ」
「……でもコレは分かってんだろ?」
つまらない屁理屈は無視されて、揺るぎない一刀が振りかざされる。廉はやけに長い手洗いを続けながら、「まぁどっちでもいいけどよ」と前置きしてから、ゆっくりと爽の方を振り向く。
振り返ってみせた笑顔は、ひどく優しかった。
「けど。まぁ……、今は言わねぇでおく」
何を?などとつまらない惚けはやめて、廉の意図をじっと待つ。
「先輩の気持ちが固まったら、その推察本物にして。そうじゃなかったら忘れていいからよ」
受験生の悩み増やしてもアレだし、なんて言い訳まで付け加えて、廉はゴミの乗ったトレーを手にする。
爽も慌てて立ち上がり、先に店を出た廉の後を無言でついていく。むわっとした空気が身を包んでせっかく冷えた体に一瞬で汗を浮かばせる。それと同時に香る整髪剤の匂い。固められた髪は真夏の微風では微動だにせず、爽の頭にしがみついている。
窓辺に映る自分の姿は数ヶ月前とは別物のようにイケてる。こうさせてくれた廉に少なからず恩義はあるが、まだやっぱり彼への気持ちに確証は持てない。
ただ自分の気持ちがどちらに転ぼうと、夢の続きだけは一緒に見たいだなんて、浅ましいことだけを考えていた。
