来ないと思っていた梅雨が何食わぬ顔で到来し、雨続きの毎日が過ぎた。久しぶりに訪れた合間の曇りの日。屋上に登れば、変わらぬ顔で廉はそこにいたが、夢を語り合った日からの情熱が冷めてしまい、爽は何と声かけていいか分からなかった。一方、廉の方はそうでもないらしく、爽の顔を見るなり勢いよく捲し立ててくる。
先輩何科目指してんの?
どこに病院建てようか?
待ち時間に髪染めるのは流石に無理か?
彼の止まらぬ妄想に笑いを溢すと、馬鹿にされたと勘違いした廉が突っかかる。けれど決してそうではない。爽にとって純粋無垢に夢を追う姿が眩しくて、けれど同じ夢を見させてくれるこの環境が本当に嬉しかったのだ。
そんな眩い光に触れているうちに、いつしか爽も本気になっていた。何となくで決めていた"内科"も、老若男女が彼の手で幸福になるところを見たいという後押しから本気で推すようになった。他にも、前例がないか調べてみたり、ヘアドネーションのドキュメンタリーを見たり。
すっかり感化されている自分が笑えてしまうが、それを上回る彼の熱量に恥ずかしいことだとは思えなくなっていた。
だから、いつのまにか屋上に向かうのが"息抜き"ではなくなってきた。タンタンと駆け上る階段の足も軽い。今日も廉はいるだろうか?そんな期待を胸に扉を開ける。
ところが、そこに爽の想像した景色はあらず。むしろ突如強い力に引っ張られて羽交締めにあう。
「っ……なに?」
「しずかに」
風に舞った香りが実は馴染み深く、そしてそれが廉の香水だと爽は初めて気付かされた。回された自分のものより太い腕を何気なく見つめながら、身体をこわばらせる。すると、聞き慣れない男女の声が屋上の建屋の後ろから聞こえてきた。
「ねぇ、誰かに見つかっちゃうよぉ」
「大丈夫、こんなとこ誰も来ないよ」
温度感からしてカップルか。睦言のような甘さを含んだ会話は、聞いてるこっちが恥ずかしくなるほど。
暫し続いた押し問答の末、聞こえてきたのは粘膜が引っ付き離れるような艶かしい音。発生源に思い当たりが生まれると自然と身が硬くなる。そこに廉が少しだけ体重をこちらに乗せてきた。
「すっげ、いつも以上じゃね?」
「しっ」
声量を潜めない廉に慌てたのは爽の方。立場を逆転して諌めれば、廉もそれ以上何かを呟くことはなかった。
しかし、それがなくなれば今度こそ相手方のやりとりが聞こえるというもの。爽は必死で気を逸らすために、午前中に習った事を思い出そうとする。
あまり集中はできていないが暫くの間耐えていると、突如背後にいた廉が側の薄っぺらい壁を蹴り飛ばした。
「っおい!るせぇよてめぇら。昼寝の邪魔だろが」
廉は爽から離れて、向こう側に飛び出していく。仲を深めていたカップルは突然の登場——しかも廉——に驚き、蜘蛛の子散らすように屋上から退散していく。その様を陰からぼんやり見ていた爽は、階下に逃げ降りていく足音が聞こえなくなってから呼吸を思い出した。
「……びっくりした」
廉は何食わぬ顔で、所定の位置に寝そべる。けれど爽はとてもそちら側に行く気になれなかった。
「……あの二人は"いつも"来てたの?」
早まっている鼓動を悟られぬよう、早口で捲し立てる。ここで廉に当たるのも間違っているが、せめて状況を知っていたなら共有して欲しかった。
「ん?まぁたまに」
ぶっきらぼうな返事はいつものこと。廉はスマホを取り出しあっさりと日常にしてしまっているが、爽にはまだザワザワが残ったままだった。
「教えておいてよ」
「先輩こそ認知しとけよ。ここ"先輩"の特等席なんだろ?」
「僕がここにいた時代は誰も来なかったよ」
「結界張ってた?」
「茶化さないで」
強く詰めてもニハハッと笑われ、暖簾に腕押し。爽は大きく息吐いて水に流すことにする。それでも桃色の空気が残ったそこに穢れを感じ、爽はいつもの場所を避け廉の側に腰を下ろした。
夏を含み始めた風が吹き抜ける。昼食を終わらせたサッカー部が校庭に出てくるまではあと5分ほどあるだろうか。静かな内に本の世界に入ってしまいたかったが、今日は最早無理な予感がして、何をするでもなく空を見上げる。
すると視線を寄越さないまま声だけかけられる。
「なー、せんぱい?」
「なに?」
「好きな人いる?」
問われた内容が意外すぎるせいか、心臓がドクンと一つ強く鳴った。
「……藪から棒だね」
回答を敢えて逸らすと、廉が無言になる。気を悪くさせたかと疑ったのも束の間、彼はスマホを数タップし「突拍子もねぇってコト、か……」と呟いた。
「つぅか。……藪から蛇だったか?ソレじゃねぇだろ」
「それはまた別の慣用句で……」
「あーもうちげぇ。そういう話はあとですっから」
廉が親指でスマホの電源を落とす。それは、真面目な話をする時の彼の癖だ。
「さっきカップルいたろ。だから、ンな話を引っ張ってきただけだっつの」
美容師を志してるからか、廉は会話の失敗を酷く嫌う。彼の夢の片棒を担いでいる爽も、最近はつまらない揶揄いはやめることにしていた。
「好きな人、だっけ?……いないよ」
「……つまんね」
「それはどうも」
ぺこりと嫌味にお辞儀まで付けて会話を終わらせようとする。けれど、先ほどの出来事が衝撃すぎて平常のように頭が回らないことにも気付かされる。
「性欲もねぇの?抜いたりは?」
太陽の下で堂々と聞いていい内容でもなく、爽はカッと自分が熱くなるのを感じた。
「……そういう話するなら戻る」
ニヤケ面の廉をひと睨みする。こういった話に免疫がない事は見透かされているようなので、こういう場合は退散が正解である。
爽はすくっと立ち上がり扉の取っ手に手をかける。だが戸を引く前に、いつのまにか背後にまで距離を縮めた廉に扉を押さえられる。
「悪い。からかい過ぎた」
素直に謝る姿勢は素晴らしい。それだけを受け止めて許しを与え、いつも通りを取り返せれば良かったのに。調子を崩したままの爽は扉の前で固まってしまう。
硬直を不安に思ったのか廉は爽の肩に手を添えて、優しく振り返るように誘導させる。それでも爽は廉の顔を見れずに俯いていれば、彼から特大のため息が聞こえた。
「あんま可愛い顔しすぎんな」
いつもの張りのある大声ではなく、掠れた低めの声が頭上から降ってくる。彼が出す空気感への違和感と得体の知れない心臓の早鐘。何かを確かめるように恐る恐る上を窺い見る。そして廉と目が合った瞬間、彼の顔が迫ってきて。
——間違いなく唇同士がぶつかった。
たった一瞬の熱交換。彼の顔面は離れていくがぶつかる視線は熱いまま。自然と体が後ずさるが、背後にある扉が邪魔をしてこれ以上下がれない。
「……先輩があんまりにもして欲しそうな顔すっから」
眉尻を下げ困ったように廉が笑う。その情けない顔を見ながら、放たれた言葉の無責任さにだけ慌てて言及する。
「ッ……してないよ、っていうか、本当に何して……」
隠すように手を口元に持っていく。冷えた指先が先ほど触れた熱量と対比して、先ほどの事実を脳に焼き付けてしまう。
「うん、ごめん。先輩はしてねぇな。……ただ俺がしたかっただけ」
廉の言ってる事がどんどん分からなくなって、心臓だけが焦る。逸らされない瞳は、あの日夢を語った日と同じくらい真っ直ぐで途中で、彼の真剣さを雄弁に物語る。
だとしたら、廉は爽のことが——
「ねぇ爽先輩。……もっかいさせて」
大きな手が爽の首筋を支えるように包む。それを振り払うことも出来るはずなのに、まるで金縛りにあったように体が動かず、ゆっくり上向いてしまう。廉が瞼をゆっくり閉じて降りてくる。爽の視界に捉えた映像はこれが最後だった。
何度も柔らかいそれを触れ合わせる最中で、そういえば「力抜けちゃうよ」と訴えていたカップルの言葉が、どこか他人事のように頭の隅で鳴っていた。
