埃っぽい手すりに人差し指だけ絡めながら、足音忍ばせ階段を登っていく。ギィっと不快な開閉音にさえ慣れてしまえば、広がる視界は青空一色。子供の頃のようなワクワク感が心から溢れそうになるこの道。そこに最近新たに加わった楽しみがある。
 それは——

「チッ。また来たンすか?」

「それはこっちのセリフ。またサボったね?」

 鮮やかな緑のメッシュが入った短髪に三白眼。整えられすぎた眉毛は少しきつすぎる角度を描いている。うちの高校じゃ間違いなく浮いてしまうな、といった感想は既に事実を描いていて、彼はこうして此処を居場所としている。
 一見すると怖そうな顔。だけど、その顔が時折大型犬のように破顔一笑するのを爽は知っていた。

「次の授業はサボっちゃダメだからね」

「お目付け役かようぜー」

「文句言うなら僕が来る前に逃げてよね」

「何で俺が先輩の都合に合わせなきゃなんねェんだよ」

 ほぼ定例の会話を交わして、お互いの定位置に移る。爽は屋上の段差を登り切った上に腰掛け、彼——鹿賀来廉はその下の広いスペースに寝転がる。まるで歳の差を表すように段差は二段。
 この発端は、春先のとある出来事だった。



 春は何かと忙しい。それに拍車を掛けたのが三年生という学年だ。部活の引退、引き継ぎ、委員会、進路。数多の項目に忙殺され、爽は日課である屋上での読書から長い間遠のいていた。

 落ち着いたのはゴールデンウィークの直前。やっとここに来れると心晴れやかに、少しコツのいる開け方をする屋上への扉を開いた時が、彼とのファーストコンタクトだった。

 少し暑さを含んだ夏の風が髪を仰ぐ。それを収めるように後頭部に手をやりながら、爽は廉を見つめた。彼は見られていることを全く厭わないのか、爽の方を見向きもしない。同じ場に偶々居合わせた人間同士にしては幾分態度が悪かっただろう。
 これが街中の出来事なら、爽が身を引いたはず。けれどここは学校で、さらには最高学年という肩書きが少し気を大きくさせ。こんな目立つ緑髪は去年はいなかったはずだから、彼が新一年生だという推論も拍車を掛けた。

「そこ、譲ってくれないかな?」

 話しかけられた廉はスマホから目を離して、まじまじと爽を確認する。そうした後、全く目を逸らさずに口を開いた。

「何で」

「僕の特等席なんだ」

「知らねェよ」

「うん。そうだと思ったから今教えてあげた」

 ニコッと笑顔も付ければ、廉が片眉を器用に吊り上げた。こういう時は話の通じない奴を装った方が要望が通りやすい、とは、いつぞや読んだ随筆に書いてあった。

「名前でも書いてあんのかよ」

「まさか。小学生じゃあるまいし」

「じゃ早いもん勝ちだろ」

「"早いもん勝ち"とも書いてないよね?」

 うぜ、と小さく溢された嫌味は爽に聞こえる音量を保ってる。
 それにへこたれるような小さな器ではないので、爽は遠慮なく廉を跨いで上に行く。

「ッおい」

「寝っ転がるなら下の段の方が広いんじゃない?」

 よいしょ、とわざとらしく声を出しながら定位置へと腰を落ち着ける。一応気を利かせて少しだけ足を縮めたが、小脇に挟んできた本は無遠慮に開いた。

「横暴な先輩だな」

「そう?」

「性格悪」

「理解してるよ」

「友達いねぇだろ」

 最後に放たれた一言に爽の体がピシリと体が固まった。だがそれを悟らせないように平然装って相槌を捻り出す。

「そうだね、いないよ」

 咄嗟に出た返事は心の奥底で磨きぬかれた真実だ。いつもならそれを取り出すのに臆するが、今後関わりもないだろう相手に取り繕っても仕方がないだろう。
 相手の廉はあしらわれていると読み取ってそれ以上言葉を発せず、起き上がってスタスタと階下へと通じる扉に向かう。その背中だけを横目で追って彼の姿が完全に消えてから、爽は持ってきた小説に目を落とした。



 本来ならばこの接触だけで終わった物語のはず。爽も次に屋上に来る時は廉のことはすっかり忘れて、以前と同じ感情を持ちながら訪れた。だが懲りずに廉はそこにいて、最初の時と同じようにくだらない掛け合いをした後、お互い無言で昼休みを過ごした。

 そんな絶妙な距離を保ち続けて数週間。その間に爽は廉が一目置かれている新入生だということを知ったし、自然と廉の情報も集めてしまっている自分にも気付いた。
 だがそれは廉という人物を知らないが故の防衛線という意味での話。爽が最も驚いたのは、廉も同じように爽の事を知りながら来るところだった。例えば成績は学年一位を永久欠番にするほどということ。国公立の医大を目指していること。部活は卓球部だったこと。仲の良い親友はいないがクラスでは普通にやってること。——そして名前も。
 廉がこんなにも爽の情報が集める必要性が爽には分からない。むしろこんな人畜無害そうな顔を自負している自分の情報など、何の得にもならない。唯一理由を炙り出すなら、日頃の小競り合いのためぐらいか。
 いずれにせよ些細な言い合いを心地よくすら感じ初めていて、正直その裏にある理由なんてどうでもよくなっていた。

 だからこそ遅い梅雨を待つある日。読了した本の余韻を、まるでアルコールの酔い任せのようにして、爽は廉に話しかけた。

「廉くんはさ、夢とかある?」

 突如話しかけられた廉は、スマホを弄る指を刹那止める。無視も予想の範疇として掛けた言葉が、彼の中に意味を放つのを肌で感じた。

「それ聞いてどーすんの」

「別にどうも。単なる興味」

 読んだ本を床に置いて、膝を抱える。視線を廉に向ければ、彼は片眉を吊り上げてスマホの電源ボタンを一度押した。

「……あるよ。将来の夢ってやつだろ」

「聞かせて」

 見た目の軽やかさに比べて重い言葉に静かな熱量を感じて、爽はより興味が出てくる。けれど前のめりでは喋りにくいだろうから、膝の前で組んだ指はそのままにした。
 廉は寝転がっていた姿勢から起き上がり、片膝立てて壁面を背もたれにする。そして彼にしては珍しくふふっと笑い声を溢した。

「面白ぇ話だから笑えよ」

「ハードル上げてるの?」

「ちげぇよ、下げてんの。面白くなくても笑えよって意味」

 ったく、と文句こぼしながらも彼は話を止める気はないようで、爽から僅かに視線を逸らして遠くを見つめた。

「小っせぇ頃、親父が何してるか気になってよ。母親に聞いたんだよ。『おとお、どこで仕事してんの?』って。俺の親父さ医者だから、フツーに病院って答えたんだよな。で、それが俺の頭にずっと残ってたから、ある時病院に連れてけってせがんだんだよ」

 かわいらしい両親の呼び方に気を取られつつ、思いの外面白そうで爽はぐっと引き込まれる。

「したらさ。母さん聞き間違えて。美容院……髪切る方のな。そっちに連れてきやがったんだよ。んで、俺はまんまと親父の仕事は美容師だと勘違いして、……そのまんま憧れの職業になったっつー話」

「……お母さん、可愛らしい間違いだね」

「可愛らしいで済まねえよ。俺の人生変えてんだから」

 この場にいない母親への文句で溢れる顔は、唇こそ尖っているものの愛に溢れてる。それだけ彼にとってこの夢はかけがえないのだろう。丁寧に色の入った緑のメッシュが、鮮やかに青空に映える。

「だからなんだね、その髪」

「ん?あー、まぁな」

「すっごく似合ってる」

 爽が真っ直ぐ褒めたのが意外だったのか、廉は一度大きく目を丸くする。けれどいつもの軽口などは飛んでこず、ややはにかんだ「ざっす」の礼が飛んでくる。その胸張った姿が、爽には些か眩しかった。

「んで?先輩は?」

「え?」

「え?じゃねぇよ。夢の話。語りたかったんだろ」

 彼のスマホの電源は以前切れたまま。どこか申し訳なくなる。

「僕の話は大して。……医者になりたいかなって」

「あぁ。らしいな」

「でもそれだけ。廉くんみたいなストーリーがあるわけじゃないんだ」

 もごもごとしてしまった語尾に羨望の色が隠せない。それを知ってか知らずか、廉は後頭部に手を組む。

「俺的には羨ましいけどな」

「どこが」

「もし先輩が俺ん家に生まれてたら大歓迎だったな。未だに親父は俺に医者になる事を夢見てやがるし」

 廉がぶつくさ文句を続ける。けれど、彼は独白の途中で「ま、生まれは選べねぇもんな」なんて、爽の思う先を汲み取って終わらせてくれた。

「……本音言やぁ、美容専門とかに行きたかった」

 爽の行き場のない羨望から目を伏せるように廉は綺麗に話題を引き取ってくれる。思わぬ優しさに、彼が人と深く接する職業に就く事を夢見る適性が美しかった。だからこそ感化された爽も、廉を良い方に引き上げたかった。

「僕はここで良いと思うよ。美容師って話し上手聞き上手が理想じゃない?そのためには道草が多いほど大きな武器になる」

 確信を持って伝えると、廉が意外そうに目を大きく開いて、その後ほっと気を抜くように笑った。

「……あー。なる。……そー考えたことはなかった」

「そう?」

「ああ。……やるじゃん、先輩」

 ニッと笑う顔は、同性から見てもなかなか魅力的だった。
 そんな彼の笑顔にある種見惚れてると、不意に彼が指を伸ばして爽の前髪をサラッと触る。

「先輩は青が似合う」

「青?」

「そ。ダークブルーってやつ。全体それで染めて、軽くパーマかけてもいい」

 前髪を払い抜けた指先がこめかみを伝って耳にたどり着く。触れている面積は少ないのに軌跡が熱く感じるのは何のせいか。

「俺だったら金のピアスすっけど……流石に空いてねぇか」

 柔らかく触れられた耳端が、魔法をかけられたように赤くなるのが見なくても分かる。ただピアスの穴を確認されただけ。けれども極力人をパーソナルスペースに入れとこなかった爽が廉の助走のない接触を避けれるわけもなく、ただただ戸惑うしかなかった。
 鈍った頭は必死に廉の言葉をなぞる。今まで散髪に機能性しか見出していなかった。けれど、もし彼の言う通り気分を変えるものと扱うのなら——。

「いいね……やってみたくなった」

「そ?」

 頷きを返事に変えると、廉はニッコリという形容しか当てはまらない笑顔で笑って「やりぃ」と腰の辺りでガッツポーズをしてみせる。その姿が本当に眩しかった。

「そんな風になりたいな」

 ため息と共に漏れたセリフは人生で初めて口にした言葉だった。今まで、渇望するほど成りたい姿はなかったし、大抵のものは努力でどうにかなってしまった。味気ない人生、なんて中二の時は口にしていたかもしれない。今でこそそんな風に考えることはなくなったが、不完全燃焼していた気持ちは心の奥底で燻っていたようだ。

「まだ今からでもなれんだろ?」

「……メンタルがついてこないよ。頭がいいってだけで医者を選んだんだ。本当はもっと適職があるのかとか今更悩んだり」

 人生の節目で聞かれるたびに答えてきた職業だったが思い入れは何一つない。それより廉のように、運命変えるような光を浴びたかった。

「でもよぉ」

「……?」

「生半可な奴が一度でも選べる職業でもねぇだろ」

 瞼を閉じていても分かる閃光が、頭の中で弾ける。

「俺は向いてると思うけどな」

 何の根拠もない。親でも教師でもない。たまに会うだけの学年も違う男。なのに、その言葉は他の誰のものより熱く強く背中を叩いたように思える。
 「先輩真面目だし、向いてる向いてる」なんて適当な後押しすら温かかった。

「つかさ。どうしても踏ん切りつかねぇなら、俺と夢叶えね?」

「え?」

 廉のセリフから眩い光を感じる。

「俺ん家、医療一家なわけ。だからさ。俺も全く医療に興味ないわけじゃねぇけど。自信ねぇし。つかそもそもやりたいことじゃねぇんだわ。だけど——」

 一呼吸置いて廉が真っ直ぐ爽を見つめる。爽はいつのまにか強く握りこんでいた拳を握り直した。

「俺、もう一個夢あって。……病院に美容院付けてぇなって。なんか病気で悲しい顔した奴らを、少しでも明るくしてぇの。あんま美容院行く時間とか環境でないやつも、病院の待ち時間でサッとやれるならお得だろ。んで、明るくなって、……身体の悪いとこもちったぁよくなんねぇかなって」

 「そんな夢物語」ってオチをつけた廉がはにかんで俯く。彼がこの夢を世界に開示するのは、きっと初めてなのだろう。心の柔らかいところを曝け出すには勇気がいる。その勇気に報いたいと言う気持ちが、爽に生まれ始めていた。

「……いいね。すごく、いい。僕にも見せて。その夢」

 噛み締めるように快諾すると、廉が息をふっと吐いて笑う。それに合わせて爽も手を解いた。

「マジで?」

 キーンコーンとチャイムが鳴る。昼休みの終了まであと五分。解散が近い。
 幻と消してしまうには、勿体無いぐらいの夢だった。

「マジで、だよ。指切りする?」

 悪戯心に小指を差し出す。断られるかと思いきや、爽のものより一回り大きな小指が骨を折りそうなほどの力で迎えにきた。

「先輩と組んで医療やってたら親父も文句言わねぇだろうし、ラッキー」

 歯を出して笑う廉に、爽は呆れ笑いを返す。

「目的はそれだったか」

「今更気づいても遅いぜ。婿に来てもらうからな、爽先輩」

 小慣れたウィンクまで決める廉に、爽は呆れ笑いを深めるしかなかった。けれど不快な気持ちには一ミリもならなかった。

 ふと見渡すと変わらぬ青空が屋上には広がっている。だけど、今この瞬間は、まるで初めてコンタクトを入れた瞬間のように彩度を上げた青が瞳に映っている気がした。