葉流が牢屋から出くると同時に、バタバタと奥の部屋から誰かが飛び出していく足音が聞こえた。掠れた悲鳴に、泣き声。どうにか涙を拭って立ち上がり、葉流と共に廊下の奥へ向かった逢花はその理由を知ることになるのである。やはりと言うべきか、同じ試練を受けた他にも存在したのだ。左奥へ進んだところに、もう一つ“姫の部屋と勇者の部屋”があるのがわかった。どちらも同じように鉄格子で仕切られており――扉が開いているのは、片方のみである。さきほど逃げていった何者かは、この“勇者の部屋”に閉じ込められた人間だったのだろう。
 そして姫の部屋は、壁がぴったりと隙間なく閉じており、檻の扉も開いていない。壁の隙間からどろどろと赤黒い液体が染み出していることから、何が起きたのかは明白だった。この部屋にいた、男か女かもわからない人間は、壁に潰されて命を落としたのだろう。勇者の部屋の人間が、ボタンを押すことができなかったがために。
 その選択を責めることは、逢花には到底できなかった。普通の人間は、あんな化け物の映像を見せられて勇気を出すなんて無理に決まっている。出せるとしたら、姫の部屋にいるのがよほど己にとって大切な人間だった場合のみだ。自分達のように見知らぬ他人同士で閉じ込められたなら、一体どうして命をかけてその相手を救おうなどと思えるだろうか。

――私は、間違いなく幸運だった。

 再び恐怖と安堵で、涙が滲んでくる。パートナーが葉流で、彼がモンスターと戦ってくれなかったら。自分もあんな風に壁に挟まれて、ぺしゃんこになって死んでいたハズなのだから。それこそ、原型も留めず、人間だったかどうかさえ分からないような有様で。

――何で、何でこんな酷いことできるんだ。何で人の命を、あんな風に弄べるんだ。くそ、くそくそくそくそ!畜生、畜生、畜生っ……!

 悲しみと、恐怖と、絶望と、怒り。それらが頭の中でぐちゃぐちゃになり、雫となって頬を伝い落ちる。本当はこの場でしゃがみ込んで、子供のように声を上げて泣き叫んでしまいたかった。それで世界が変わるなら、どれほど簡単だったことだろうか。

「逢花さん」

 そんな逢花の頬に、そっとあてがわれる布。葉流がハンカチで逢花の頬をそっと拭ってくれたのだ。

「ポケットのこれは、汚れてなかったので。……使ってください」
「はる、さ」
「どうやら、汚れるのも想定内だったそうで。……あちらにシャワーと着替えを用意してくれているようです」

 一番奥のドアに、大きく“NEXT FLOOR”と書かれている。それくらいの英語は逢花にも読める、きっとあの向こうで次の試練とやらが待っているのだろう。そしてその手前にはもう一つドアがあり、シャワールームの記載がある。なんで“ネクストドア”は英語でこっちはカタカナなんだ、と内心ちょっとだけツッコミを入れた。
 ああ、どうやら自分も、少しだけ落ち着きを取り戻せてきたらしい。

「ありがとう。私は、そんなに汚れてないから。シャワーは葉流さんが使っていいよ」

 葉流からハンカチを受け取り、伝える逢花。彼の方がずっと酷い有様だ。化け物の体液もそうだが、よくよく見るとブレザーとシャツの胸元部分が派手に破けて血まみれになっている。ひょっとして、怪我をしているのではなかろうか。

「怪我、してない?大丈夫?」
「僕は大丈夫です、これは全部返り血なので。ただこの有様で、いつまでも歩き回りたくはないですね。……お言葉に甘えさせて頂きます。すぐ戻ってきますので」
「うん……」

 彼と離れるのは怖いが、わざわざ組織側がシャワーを用意しているあたり、ここでトラップに引っかかることもないだろう。逢花はドアの前で待っていることにした。どうやら洗面所とシャワールームが隣接しており、着替えとアメニティ、ドライヤーなどはひとしきり揃っているらしい。逢花が今着ているのと全く同じ服、葉流が着ているのと全く同じ服がそれぞれ一着ずつ用意されていてぞっとした。一体いつの間に用意したのだろう。逢花なんて、急遽参加させられた人間であるはずだというのに。
 そしてもう一組、見知らぬ男女の服があった。高校生っぽい男の子の学ランと、女の子のブレザーである。もう一組の試練の参加者だ、と察するまで時間はかからなかった。そしてその参加者のどちらかは、あの部屋で亡くなったのである。あんな風に壁に圧されて、挽肉のように潰されて。

「……葉流さん」

 シャワー室のドアは、すりガラスになっている。使用者のはっきり裸が見えるということはない。

「その、やっぱり。……出てくるまでは、廊下じゃなくて……洗面所にいても、いい?出てくる時は行って、廊下に行くから」
「……わかりました、いいですよ」

 逢花が不安がっていることに気づいたのだろう。葉流はその提案を快諾してくれた。すりガラスごしとはいえ、異性の年下の女の子にシルエットを見られるだけでも嫌悪感があってもおかしくないというのに。それとも、彼も本当は一人でシャワーを浴びるのが怖い、という気持ちがあったりするのだろうか。
 彼が服を脱いで水音が響き始めたところで、逢花は洗面所に入りドアを背にして座った。ゆっくりと考える時間が必要だった。自分達の身に、何が起きているのかも含めて。

「……次の試練って、なんなのかな」

 シャワーを浴びていても、声は聞こえるはずだ。ぽつり、と呟くと『なんでしょうね』と辺り障りのない答えが返ってくる。

「ろくでもないモノなのは間違いないと思います。どうせまた命を賭けさせられるんでしょう」
「だよなあ……」
「さっきのように、二人とも生き残る可能性があるミッションならまだいいのですが」

 確かに、あの試練は二人とも生き残れる可能性があるのは間違いなかった。ただ、自分達の近くの部屋で参加していた“誰か”は相手を見捨てて逃げる選択をしたようだし、実際あの部屋は勇者の部屋の人間がボタンを押さなければ姫の部屋の人間は死ぬしかないのである。あの恐ろしい化け物の資料を見せられて、その選択ができる人間はそう多くはないはずだ。それこそ、Fエリアの参加者で二人とも生き残ったのは自分達だけ、ということも十分考えられる。
 難易度は、お世辞にも低いものではなかった。初っ端でこれなのだから、次以降の試練もけして甘くはないと思っておくべきだろう。

「……どうして」

 葉流がどうやって化け物を倒したのかも気になるが、それ以上に知りたいことが一つある。

「どうして、私を助けてくれたの?壁ごしに、ちょっと話しただけの相手なのに」

 自分が彼の妹や恋人で、絶対失いたくない相手であったというのなら分かる。でも実際は、完全な赤の他人だ。年下の女の子ということで多少憐憫の情は働くかもしれないが、それだけの理由で己の命を賭けられる人間はそう多くはないはずである。
 それこそ、特撮モノに出てくるような、正義のヒーローでもない限りは。

「……友人二人と一緒にいた。そういう話をしましたね」

 逢花の疑問は尤もだと思ったのか。体を洗うような仕草をしながら、葉流が答える。

「そのうちの片方が……まあ、ものすごい熱血漢というか。少年漫画の王道的主人公のような人間でして。助けられる人間は全部助ける、自分にその力があるのに見過ごすなんて選択肢ありえない、っていう……まあそういうキャラなんですよ。今時珍しいくらいの、まさに正義のヒーロー的な性格というか」
「そうなんだ?」
「ええ。……僕は、彼等に救われて生きてきました。そしてそんな彼の生き方を心から尊敬しているんです。……彼を、彼等を助けに行くにあたり、けして恥じない戦いがしたいと思っています。彼ならけして、貴女を見捨てない。むしろ、貴女を見捨てたら、彼等に逢わせる顔がありません。……自分の力と、モンスターの特性。それらを鑑みて、勝てる見込みがあると判断したからボタンを押しました。ただ、それだけのことです」

 偉い人間でもなんでもない。まるでそんな物言いである。逢花はますます尊敬してしまった。この状況、彼は逢花にいくらでも恩を売ることができるはずである。それこそ、命を助けてやったんだから、と偉ぶられても自分はまったく文句が言えない立場だ。実際彼がボタンを押してくれなければ圧死していたに違いないのだから。
 それなのに、葉流はまったく恩着せがましい言葉を言わない。まるで自分は合理的な判断をしただけ、と言わんばかり。中学生、たった二つ年上なだけの少年が、逢花にはどこまでもカッコよく思えたのだ。

「凄いや」

 だから、素直に賞賛した。

「私なら……きっとできなかった。そんな勇気出せなかった。カッコ悪いよな。弟を助けに来たはずなのにさ。……人を見捨てて助けられたって……あいつが喜ぶはず、ないのに」
「たまたま僕の能力がモンスターを倒すのに向いていただけです。逢花さんの能力は、相手に思念を届ける能力とか、そういうものですよね?明らかに戦闘向きではないんですから仕方ないですよ」
「そう、相手に思念を届けて、相手の思考を読む力らしいよ。“念話”っていうんだけど……相手の存在を認知してれば、壁の向こうでも使えるみたい。……まあ、そうだけどさ。戦闘向きの能力でも、ちゃんと使って戦えた自信はなくて。私、臆病だし、卑怯だなって」

 あの時。助けて欲しい、助けて貰えなかったらどうしよう、ほぼほぼそれしか考えていなかったように思うのだ。実際、リスクを負うのは葉流だったのに。

「そんなことはありませんよ」

 頭を洗っているのだろう、葉流の声が少しくぐもる。髪の毛まで血を浴びていたようだし、髪の毛もしっかり洗わないと気持ち悪かったに違いない。

「逢花さんは弟さんのことを忘れてない。にもかかわらず、弟さんを恨んでいる様子もない……弟さんを探しに来なければ、きっとこの監禁に巻き込まれなかったのに。そして僕が、ギリギリまで時間をかけてしまったことに対しても責めなかった。……人に責任転嫁をせず、今自分ができることを一生懸命考えられる人は十分に立派です。貴女の年なら尚更に」

 ただ、と彼は続ける。

「これからは。……何が起きても、泣かないようにしましょう」
「え」
「怖いのはわかります。辛いのもわかります。でも……泣いて、パニックになったら助かる命も助かりません。僕に守りたい仲間がいるように、貴女にも助けたい弟さんがいるのでしょう?ならばその人たちを救うために……強くなりませんか。とても難しいことかもしれないけれど」

 正論だった。確かに、泣き叫んでも、何も解決しないのは事実だ。このゲームはアニメや漫画ではなく、現実に起きていること。都合の良い救世主なんてものは、どこからも現れないのだから。

「……わかった」

 本当は怖いし、今でも油断するとすぐ涙が出そうになるけれど。
 でも有りがたいことに、自分は独りぼっちで戦っているわけではない。葉流という、心強い味方がいるのだ。命を賭けて、自分を助けてくれた存在が。

「私……頑張るよ。葉流さんの足、引っ張らないようにする」
「そんなことは考えなくていいんです。考えるべきは、自分自身をちゃんと守れるように、ですよ」
「うん。でも、私もちゃんと、葉流さんに恩返しがしたいから」

 考え続けよう。戦うための異能力もない、ただの女子小学生に過ぎない自分にも、出来ることはきっとあるはずなのだから。
 どんな状況でも、突破口はあるはず。
 考え続けることをやめない者だけが、この過酷な世界を生き残るのだ。

――そうだ。何が何でも試練をクリアして……どっかに捕まってるかもしれない馬鹿を助けるんだ。私は、あいつの姉なんだから。

 ほんの少しの勇気でも、生きるための武器になる。
 自分がそう信じ続けるのなら、きっと。