カァ、カァ、と烏が鳴き声を上げながら飛び立っていく。何も君達まで空気読んでくれなくてもいいのに、と逢花は思った。既に、此処に一人で来たことを後悔しつつある。弟を回収してくるだけだから、なんて気軽に考えたのは間違いだったのではないか。自分が頼めば、ニコあたりは喜んで付き合ってくれただろうに。

「おーい……逢知?馬鹿弟ー?どこだー?」

 呼ぶ声に覇気がないのは、自分でもわかっていた。
 此処は、本当に人が住んでいるのだろうか。門扉は苔むしており、柵はすっかり錆びて茶色く染まっている。南京錠は経年劣化で壊れたのか、錆びて外れかかっておりまったく鍵の役目を果たしていない。岸田、と書かれたプレートも雨風に晒されたせいか茶色く変色して、すっかり汚らしくなってしまっている。
 おまけが、その屋敷と庭の有様である。
 明らかに、長いこと人の手が入っていないのがわかる。身長160cmを軽く超える逢花の腰あたりまでありそうな雑草がぼうぼうと生えまくり、かろうじて道らしき道が残っているのは石畳の周辺のみだった。そして、屋敷の黒々とした壁にはツタが絡みつき、ホラー感満載となっている。黒い屋根のてっぺんには錆びた風見鶏が、悲しげに“キィ、キィ”と音を立てて揺れていた。台風でも来たら、屋根と一緒に剥がれて落ちてきそうなレベルである。

――ここ、本当に人住んでるわけ……?

 塀ごしに中を覗き込む。よく見ると、奥にもう一つ出入り口があり、ガレージらしきものが存在しているのもわかった。逢知が言っていたトラックらしきものは確認できなかったが、石畳には茶色く車輪の後が残っている。車が出入りしているのは、ほぼ間違いがないようだった。リフォーム業者なのか、それとも本当にこんなお化け屋敷に引っ越して来ようとしている物好きがいるのか。
 ただ、それならそれで、明らかにずっと昔からかかったままであろうネームプレートは外されていてもいいような気がするのだが。

――こんなトコに好き好んで足を踏み入れる奴らの気が知れんわ!ああもう、あの馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿!

 見つけたら絶対ボコる、と心に決めてぐるりと塀の周囲を一周する。声もかけてみたが、残念ながらどこからも反応はなかった。彼等はまだ中にいるのだろうか。それとも、丁度自分と入れ違いになって、既に帰路についた可能性もあるのではないか。
 一応スマホを再度確認してみたが、入っていたのは母からのLANEのみだった。



『逢知、見つかった?』



 これを送信してくるということはつまり、まだ彼は家に帰ってきていないし、連絡も来ていないということだろう。そもそも、彼が帰る連絡をする時は基本、家族のグループレインを使う。そちらも一応覗いてみたが、新着の通知はなかった。やはり、彼はいなくなったままということらしい。
 少しだけ不安を覚え始めた。逢知の性格なら、塾をサボりたいならもう少しうまくやるのではないか。それこそ、このまま塾に向かいますーメールくらい送って誤魔化してくるような気はする。まあ実際は、塾から「逢知君来てませんけど」という電話が入ってソッコーでバレるとは思うのだが。一度も家に帰らず、嘘のメールもよこさず、お化け屋敷探検を続行するのはさすがに馬鹿弟でも迂闊すぎるような気がする。
 まさか本当に何かあったのではないか。仕方なく、逢花は門扉を開いて中へと一歩踏み込んだ。屋敷のドアに続く石畳の周辺のみ草が少ない。昨夜降った雨で草も濡れているようだし、あまり触りたくはなかった。そろそろと、服が湿らないように気を付けながらドアの前へと歩を進める。

「逢知ー?そのオトモダチー?どこー?」

 逢知が誰とお化け屋敷探検をしているのかさえ、逢花は知らなかった。多分、写真を見せたという逢知の親友の列矢は同行しているのだろうが、それも“多分”としか言いようがない。おかげで、呼べる名前が弟以外にないのがもどかしかった。どっちみち、声をかけたところで屋敷の中からも外からも物音は一切聞こえてこないのだが。

「!」

 ドアの前まで近づいたところで、逢花はぎょっとして足を止めた。ドア横に、何か塊のようなものが積み上がっていることに気づいたからである。なんだ、と視線を投げた逢花は気づいた。深緑色の、大きなバッグ――ランドセルだ。端っこからは、リコーダーが飛び出している。その下にはさらに、水色のランドセルの姿が。思わず息を呑んだ。逢知が使っているのは深緑色、そして彼の親友である列矢が水色のランドセルを持っていることを、逢花は何度も見て知っていたからである。

「あんの馬鹿……こんなところにランドセル置きっぱなしにして……!」

 ああ、なんて忌々しい。彼等はきっと、ここに荷物を置いて中に侵入したのだ。二つ、ということは二人で入ったのだろうか。それともランドセルを持ったまま侵入した人間が他にいたのか。
 逢花は自分の黄色いランドセルを背負い直すと、ドアの前に立った。流石の彼等も、荷物をこんなところに放置したまま帰るとは思えない。まだ中で遊んでいると見てほぼ間違いはないだろう。



『お化け屋敷とやらの前に来た。馬鹿弟のランドセル発見。まだ中にいるっぽいから連れて帰るー』



 それだけスマホで送信すると、逢花は携帯をポケットにつっこみ、ドアに手をかけた。ノブが回る。やはり鍵はかかっていないようだ。逢知、と弟の名前を呼ぼうとした、まさにその瞬間のことである。

「おい」

 心臓が、破裂するかと思った。
 手元が暗くなり、唐突に後ろから声がかかったのである。

――や、やば!人がっ……!

 叱られる、謝らなきゃ。焦りつつ振り返ろうとした瞬間、誰かに思いきり肩を掴まれた。え、と思った刹那、布のようなもので口元を塞がれることになる。

「まったく、仕方ないガキどもだな。……こいつもゲームに“加える”しかねえか」

 加えるって。ゲームって、何。
 そう思ったのを最後に、逢花の意識はぷっつりと暗闇の中に落ちていったのである。



 ***




『あかつきのーなのもとにー、つーどいしせーんーしー……』
「……ん、ん?」

 場違いに明るい音楽が聞こえてくる。どこか外れた調子の、子供の歌声。まるでひと昔前の戦隊ヒーローの主題歌みたいだ、なんて感想を、逢花はぼんやりと抱いた。緩やかに、体に感覚が戻ってくる。頭に鈍い痛みを覚えながらも、逢花はどうにか瞼を持ち上げた。
 地面が、冷たい。
 自分が寝ているのは、いつもの部屋のベッドではない。

『かがくのちからを、けっしゅうしー!ちからをあわせて、あくまにいっどっむ!』

――お、音量やばいでしょ。うっさ……。

 何でそんな大音量で音楽をかけてるんだ、とか。この音楽は一体何なのだ、とか。そして、何で自分はこんな床の上で寝ているんだ、とか。半分寝ぼけた頭で、ぐるぐるとそんなことを考えた。
 はっきり言って、寝心地は最悪である。もっと言うと、あまり綺麗な床というわけでもなさそうだ。頬が砂でざらざらして気持ち悪い。灰色一色――コンクリートだろうか。自分はどうして、こんなところで寝かされているのだろう。

『どっれほどきょうだいなーてきが、まちうけて、いようともー!アランサのせんしーに、てったいのもじはなしー!』

 こんな大音量の音楽を聴かされていては、嫌でも目を覚まさざるをえない。逢花は頭を振りながら、どうにか体を起こした。
 やかましい歌声が思考を阻害する。じんじんと頭の芯に響いて辛い。

――そう、だ。私……お化け屋敷に、逢知を探しに来た、はずじゃ。

 そこに到達した瞬間、頭が一気に覚醒した。はっとして周囲を見回す。そうだ、自分は逢知を見つけるべく、あのボロ屋敷のドアを開けようとしていたのである。そこで、後ろから男の人に声をかけられた。そのまま、よくわからないことを言われて、口を塞がれて。気づいたら、此処に。

「う、うそ!?何これ、何ここ!?」

 そこは、灰色一色、コンクリート打ちっぱなしの何もない部屋だった。目の前の一辺だけ壁がなく、鉄格子のようなものがはめ込まれている。慌てて飛びついて確認したが、鉄格子には扉のように開く場所こそあれ、今は押しても引いてもびくとも動かないようだった。鉄格子の向こうは、同じくコンクリートの廊下が長く続いているようである。窓はない。此処が地上なのか地下なのかもわからない。確かなことは一つ、自分がこの部屋で、一人ぼっちで閉じ込められているということのみである。

――ら、拉致られた!?なんで!?や、屋敷の中にはまだ入ってもいないのに……!




『まったく、仕方ないガキどもだな。……こいつもゲームに“加える”しかねえか』




 男の言葉を明確に思い出して、ますます血の気が引いた。ゲームに、加える。どう見ても、ろくなものとは思えなかった。しかも彼ははっきりと“ガキども”と言ったのだ。

――もしかして、逢知も同じように……誰かに捕まったんじゃ……!?

『いっけ、いっけ、たーたかえ!まほうのブレスレットのちからでー!いっけ、いっけ、たーたかえ!おそれるなわれらーがー……』

 音楽が、唐突にぷつりと途絶えた。代わりに響いてきたのは、無機質なアナウンスである。

『皆様、おはようございマス。よく眠れましたでしょうカ?』

 男性とも女性ともつかぬその声は、ノイズまじりで酷く耳障りだった。どうやら、近くにスピーカーがあるらしい。

『このたびは、我らがゲームにご参加頂きまして、誠にありがとうございマス。皆様の勇気に、心から感謝いたいしマス』

 いや、参加するなんて言ってないし。身勝手な物言いに、逢花は呆れる他ない。どうせここで叫んだところで、相手からまともな反応など返っては来ないのだろうが。そもそも、このアナウンスもただの録音かもしれないから尚更である。

『わたくし達は、“アランサの使徒”という組織でございマス。この世界を統べる唯一神から、この世界を真に平和にするための信託を受け取り、実行する組織です。突然同意なく、皆さんをこのような場所にお連れした非礼を深くお詫びいたしマス。しかし、これもまた神の意思。絶対的に必要なことなのでございマス』
「う、うさんくさ……」
『まず、我々の目的ですガ。先ほど言ったように、我々はあくまで世界の平和を目指すための、正義の組織。皆さんが今日まで恐ろしい敵に襲われることなく、平穏無事に暮らしてこれたのは我らの力によるものなのデス。我々がその厚い信仰心をもってして主を支え、主がこの世界に結界を貼り悪しきものの侵入を防いでくれていたからなのですネ。まずは皆さんは、その事実を受け入れていただきタイ。そして、主への感謝を捧げていただきタイ』

 やべえ奴らだ、こいつら。逢花は背中が冷たくなるのを感じた。特に、特定宗教への信仰があるわけでもない、ごくごく平凡な小学生の自分でも知っている。カルト宗教ほど、近づいてはいけないものはないということを。下手をすればヤクザよりタチが悪いもの。過去、大きなカルト教団が起こしたテロ紛いの行為などは、まだ生まれていなかった逢花ですら知っているのである。
 人を誘拐しておいて、この態度。まさに、そのヤバイカルト宗教の臭いがプンプンではないか。

『……せっかちな方も多いようですノデ、先に結論を申し上げまショウ』

 ここにはいない誰かが文句でも言ったのだろうか。やや呆れたような声色で、アナウンスは告げた。そう、簡潔で傲慢たる、この監禁の目的を。

『皆さんには、平和のために戦う戦士になっていただきたいのデス』