デッドエンド・シンフォニー

 北東の階段の前を通過したところで、逢知が急に立ち止まった。

「どうしましたか、逢知君」

 小さな子供に無理をさせているのは、葉流も重々承知している。疲れているのだろうか、としゃがんで視線を合わせると、少年は。

「あの、葉流さん」
「何ですか?」
「俺達……このゲームをクリアしたら、家に帰れるのかな」

 それは彼にとっては尤もな疑問であり、同時に葉流にとってはあまりにも残酷な質問に他ならなかった。逢花でさえ、それについてはっきりと葉流に尋ねてくることをしなかった。――きっと心のどこかで、薄々悟っていたからだろう。
 これは、ただクリアすれば終わるゲームではない、と。

「……アランサの使徒が、最初に自分たちについてなんと説明したのか覚えてますか?」

 彼らとは同じグループで行動していなかった。ゆえに、同一のアナウンスがされていたかどうかはわからない。しかし聡明な少年は意味を察したのか、こくりと頷いて言った。

「悪魔を倒すための戦士がほしい、とかなんとか。だからブレスレットの性能を試したいし、俺達の中から優秀な戦士を探したいとか、なんとか」
「そうですね。……そこまで覚えてるなら、答えはもう出ているのではありませんか?」
「……うん。俺達、は」

 じわり、と逢知の目に涙が滲む。

「そう簡単には、帰れない。戦士だって認められたら、帰して貰えなくなるかもしれない……」

 まだ小学三年生の子供に、真実を伝えるのは酷だとわかっていた。それでも彼は自分でそれに気付いていて、自分なりに受け止めようとしていたということらしい。葉流への問いは、ほぼ確認のようなものだったようだ。

「残念ですが、その可能性は高いです」

 でもね、と。葉流は少年の頭を撫でながら言う。

「生きていれば、帰るための望みは繋げる。内側からアランサの使徒を瓦解させる方法が見つかるかもしれない。ボスをとっ捕まえて、警察に突き出せるかもしれない。苦しめられている人を助けるための方法が見つかるかもしれない。……そして、アランサを倒せば、家に帰ることができるはず。そう、生きて生きて生きて、生き抜くことを諦めなければ」
「帰ることが、できるかも?」
「そうです。信じ続ければ、必ず」

 悪魔が実在するかどうかなんて、正直自分達には知ったことではない。確かなのは、このクソッタレな組織をどうすれば打倒することができ、自分たちの元々の平穏な生活を取り戻せるかどうかの一つに尽きるのである。
 諦めるな。諦めるのは死んでからでも遅くはない。諦めなければ、可能性の道は必ず繋がる。――それは葉流自身が、愛すべき友人達から教わったことだ。

「だからね、逢知君。今は泣いてはいけません。生きることを考え続けるために、泣いている暇などないのですよ」

 まだ小さな少年に、厳しいことを言っているのは百も承知だ。それでも葉流が逢知を諭す理由は唯一つ。
 生き残って欲しいからだ。逢花があれだけ大切に思う家族に。

「逢花さんも、最初の試練では泣いてました。でも僕が“泣いている暇はない”と伝えたら、ちゃんと泣き止んで前を向きましたよ。それからはほぼ泣いてないはずです。……お姉さんに、負けたら悔しいでしょ?」
「……悔しい。姉ちゃんに、馬鹿にされたくねーし」
「よろしい。逢知君は強い子ですね」

 頭を撫でながら告げると、逢知は目元をごしごし擦って笑みを作った。まったく、ちょっとした所作までそっくりな姉弟である。二人はきっと、自覚していないだろうが。

「おう、俺強いからな!なんなら葉流さんのことも守ってやる!喧嘩で俺に勝てるやついないし!」
「それは頼もしい。じゃあ、ぜひとも……」

 そこまで言いかけて、葉流の言葉は中途半端に止まった。ずる、ずちゃ――という、何かを引きずるような音が、階段の方から響いてきたからである。

「!“殺意”……っ」

 咄嗟に能力を使った逢知は英断だっただろう。彼の能力はデメリットがあるものの、使用回数制限もない。短時間なら負担も少ないし、必要に応じて小刻みに使っていく方が安全だからだ。

「な、何か来る!こっちに殺意を持ってる何か!」

 すぐにボタンを離し、逢知は叫んだ。葉流は逢知を背中に庇いながら、じりじりと階段から距離を取る。成人が一人通るのがやっと、といったような極めて狭い階段である。怪物が通れるとは思えない。ならば登ってくるのは、参加者の誰かか。
 問題は。その参加者が、こちら側に殺意を抱いているということ。自分たちは他の参加者に顔見知りなどいないはずである。それなのに強い敵意を持たれているということは、恐らく――。

「ころしてやる」

 血まみれの手が、ぬっ、と暗闇の中から現れた。

「ころしてやる。ころしてやる。わたしはいきのこるんだから、いきのこ、いきのこるんだから、ころす」

 それは、まだ年端もいかぬ少女の声だった。顔を出したその娘は、逢花よりも少し年下であるように思われる。葉流はさらに、逢知を伴って一歩後ろに下がった。この光景を、背中に守る少年に少しでも見せないように。

「ころす、いきる、ころす」

 二つに結んだ髪が、揺れる。ワンピースのスカートから除く足を、だらだらと赤黒いものが伝っていた。少女の腹のあたりは真っ赤に染まり、ほぼ致命傷に近い傷であるのは明らかだった。その視線は既にあらぬ方向を向き、現実を見据えてはいない。顎の周辺は血と吐瀉物らしきもので汚れ、元は愛らしかったであろう少女の面影は殆ど残されていなかった。

「あいつがいけない、わたしをうらぎるから。あいつが、こゆきが」

 少女は既に正気を失い、脈絡ない言葉をぶつぶつと呟くばかりだった。

「いきのこる、いきのこる。い、い、い、きのこれるのは、あのおんなを、つかまえたやつだけ。つかまえられなかったやつはみんなしぬ、しにたくない、みんなてき、みんなてき、みんなころす」
「え、え?何を言ってるの?」

 少女の呟きからいくつかのキーワードを拾ったらしい逢知が、戸惑ったように言う。
 ああやはりそういうことか、と葉流はため息をついた。妙だとは思っていたのだ。何故、なかなか他の参加者が地下三階に上がってこないのか。何故、たった一人の女を追いかける参加者が四十人ほどもいるのか。何故、それに対して放たれる怪物が一体だけなのか。
 簡単なこと。恐らく、参加者の一部にアランサが吹き込んだのだ――生き残ることができるのは、駒村礼子を捕まえた人間ただ一人だけだ、と。捕まえれば全員が助かる、ではないとなれば参加者にとっては他の者達も皆敵になる。恐らく、下の階で参加者を殺しているのは化け物だけではない。最初から、奴らは同士討ちを視野に入れて、一見すると温く見えるようなこのゲームを仕掛けていたのだ。

――反吐が出る……っ!

 逢花が、他の参加者を助けられないことを悔やんでいたことには気付いていた。まだ幼い少年少女たちが、赤の他人の死にも心を痛めているのに、あいつらは。

――絶対に、許さない……!

 葉流が怒りを燃え上がらせた瞬間、少女の首ががくんと動いた。その血走った目がこちらを捉え、さらに左手が右手首のブレスレットへと伸びる。
 まずい、攻撃が来る。しかもまだ距離があるこの段階で構えたということは、遠距離タイプだ。

「逢知君っ!」

 葉流がとっさに逢知を抱きかかえた瞬間。暗い声が、廊下に響き渡ったのだった。

「はつ、どう……“氷柱”」



 ***



「葉流さんの正体って、どういうことだよ」

 背筋を、冷たい汗が伝う。ついさっき、彼に対しての疑念を列矢からぶつけられたばかりである。たが、今の逢花にとっては些細な疑問より、葉流を信じたい気持ちの方が勝っていた。何より。

「そうやって、私達を仲違いさけようってんだろ。騙されるもんか、このテロリストども!」
「テロリストは酷いわ。私達はただ、悪魔を倒すために必死で聖戦の準備をしているだけなのに。その魔法のブレスレットを作るのだって本当に大変だったのよ?開発費用どれくらいかかってると思ってるのよ」
「そんなもん知るか馬鹿野郎」

 葉流と眼の前の女、信じられるのがどちらであるかなど明らかだ。なんせ、こいつは明確に自分達を陥れようとしているカルト教団の人間。信じるに値する要素なんぞ一ミリたりとて存在しないのだから。

「まあ、小学生のお子様に理解できるとは思ってないわ」

 やれやれ、とでも言うように肩を竦める女。

「仕方ないから、貴女たちにも分かるように話してあげる。そうねえ……このゲームの趣旨から説明するのが早いかしら?」
「ゲームの趣旨やて?」
「そうよ。実はこのブレスレットを使った実験は、かなり前から繰り返し行われているの。そのたびに、細かなゲーム内容は違うのよね。建物の中から鍵を見つけて脱出しろってゲームであっても、個人戦の時とチーム戦の時があったりするわけ。今回は鍵のシステムじゃなくて、純粋にミッションを与えていってそれをクリアしたら合格ってやつなんだけど……まあ、お察しの通り、今回はタッグ戦の意向が強いの。二人一組で、どれだけ連携して立ち向かえるかどうかっていうね?」

 それは、言われるまでもなく逢花も察していたことだ。逢知も列矢とペアで試練を与えられていたというし、ほぼ間違いはないだろう。

「つまり、人数が中途半端じゃ困るの。……それなのに今回は少しイレギュラーが多くて参っちゃったわ。屋敷の地下で準備を進めてたら、上の廃屋に勝手に侵入してきた子達がいてね。まあ、貴女の弟君たちなんだけど。それでまあ、いろいろ見られちゃったし急遽参加してもらったわけ。丁度二人だったからまあ、ラッキーだったのよね。ただ」

 すっ、と女の指がこちらに伸びる。

「問題は、そのお馬鹿さんを探しに来ちゃった貴女よ……西嶋逢花さん?だって、貴女は一人なんだもの。……参加者が奇数になって、こっちはどうしようかなと思ってたのよねえ」

 どくん、と心臓が跳ねた。礼子の言わんとしていることを察したからだ。
 元々の参加者は、偶数で用意されていた。そこに二人組で逢知と列矢が参加したから、彼らが二人組でそのまま加わった。
 では。さらなるイレギュラーの逢花は?
 何故、逢花に、パートナーができた?

「だから、人数調整と……実験も兼ねて」

 動揺する逢花に、女はニヤニヤと笑って畳み掛けたのだ。

「アランサの使徒の構成員を一人、参加者に紛れ込ませて貴女のパートナーにしたの。ね、誰のことかは、言わなくてもわかるわよねぇ?」