デッドエンド・シンフォニー

 この廊下で、時間制限らしきものが設けられている様子はない。というより、水も食べ物もない狭い廊下にいつまでも閉じこもることは不可能なので(自分達はみんな、ポッケに直接入れていた道具くらいしか手元に残っていないから尚更である)制限を設ける必要もないと言うべきか。
 ほんの少しだけ休息を取る流れになるのは、暗黙の了解のようなものだった。といっても、二人で話す内容など中身の薄い雑談程度のものであったが。

「ん?」

 ふと、葉流が天井の方を見る。何かを探すような仕草に、逢花は“どうしたの?”と尋ねる。

「いえ、視線を感じた気がしまして。……どこかに防犯カメラでもありそうだなとは思ってるんですが」
「まあ、普通に考えてある、よね。私達の様子をしっかり見てないと、戦士を選ぶテスト?とやらにならないんだろうし」
「ですね。でもなんか、すごく気持ち悪い視線だった気がしまして」
「すごく気持ち悪い?」
「汚物まみれの超絶ぬめぬめとした蛇にまとわりつかれていて、臭い息吹きかけられてるような視線です」
「うっわ、それは嫌すぎる」

 なんとも具体的な例えに、逢花は思わず引き攣った声で返した。

「アランサの使徒側に、変質者でもいるんじゃないか?私や弟みたいな小学生もいるし、葉流さんだって中学生じゃん。誘拐してくるだけですごく、変態臭するよね。ただでさえ葉流さんってば綺麗な顔してるし」

 あ、ついナチュラルに褒めてしまった。頬が少しばかり熱くなる。
 しかし葉流の方が気にしていないのか言われ慣れているのか、“ありがとうございます”と普通に返して来ただけだった。これは、本格的に逢花のことを異性として認識していないということではなかろうか。ほんの少し、複雑な気持ちになってしまう。

「弟さん、無事だといいですね。今のところ、他の参加者の影は感じるものの、映像以外でそれらしい人をちゃんと見たことはないですし」

 話題はそちらにシフトしたようだ。逢花も気になっているところだったので、素直に頷くことにする。

「うん。……できれば、私たちの……Fエリアってところじゃないところにいてくれたらいいなって、思ってる」
「どうして?」
「第一の試練も第二の試練も……ちゃんとクリアできそうかわかんないんだもん。あいつ友達思いだし、普段はガキ大将っぽく振舞ってるけど……まだ小学三年生だし。打たれ強いわけでもないんだよな。もしあいつが勇者の部屋の方に選ばれてても、友達が姫の部屋に投げ込まれてたりしたら……絶対パニクる。友達を助けたいのに、どうやって助ければいいかわからなくて右往左往してるうちに、取り返しのつかないことになっちゃってそうだなって。……そういうとこあるんだよ、あいつ」

 すぐパニックになる。
 残念ながら自分と弟は、そういうところばかり似ているのだ。

「姫の部屋で……あいつが見捨てられて死んだなんてのは論外だし。仮にそれをクリアできても、第二の試練がさ。あいつ、学校の勉強も全然できないんだもん。時間切れまでにクリアできるのかなって思ったら……」

 段々と、声が小さくなってくる。想像しないようにしていたことだ。もし、逢知たちが自分と同じ試練を受けさせられていたら。壁に潰されて死んでいたら。友達を助けられなくておかしくなっていたら。第一の試練をクリアしても第二の試練の答えがわからなくて、パニックのままタイムリミットで死んでいたりしたら。
 そもそも逢花がここまで生き残ることができたのだって、葉流という頼もしすぎるパートナーに恵まれたからに他ならない。他の人だったなら、そもそも最初に試練で自分を助ける決断さえしてくれたかどうか怪しい。いや、そもそも自分が勇者の部屋の住人に選ばれていたら、葉流のように勇気ある決断はきっとできなかっただろう。はっきり言って、幸運以外の何物でもない。自分は、実力で生き残ることができたわけではないのだ。
 そう。
 裏を返せば、パートナーに恵まれてさえいれば、逢知にも生き残る望みはあるということになるのだけれど。

「私に、変なとこ似てるんだ、あいつ。……普段強がってても、追い詰められると凄く弱い。すぐ泣くし、パニクるし、一人じゃなんもできない。だから……時々、あいつを見てると自分を見てるみたいで辛い時もあって。私も、きつく当たっちゃったりして、さ」

 生きているのだろうか。
 生きていても、どこかで独りぼっちで泣いていないだろうか。
 考えれば考えるほど、胸が締め付けられるというものだ。

「後悔してるんだ。……私が、お化け屋敷なんかに行くなってちゃんと止めてたら……あいつは誘拐されなかったかもしれないし、私だって……。ほんと、姉貴として最低だよね」

 こんな話、葉流にしても仕方ないということくらいは分かっている。でも一度考えてしまったら止まらなかった。逃げていた問題。自分の、姉としての責任。まだ果たすことはできるだろうか。それとも既に、自分の知らないところで手遅れになっていたとしたら。

「逢花さんは、本当に弟さんを責めないんですね。こんな状況でも、ちゃんと心配できる」

 ぽん、と葉流が肩を叩いてくれる。

「それは、十分立派に、“お姉さん”をしていると思いますよ、僕は」
「そう、かなあ……」
「そうです。それに……貴女は自分のことを弱いと思っているでしょうけど、パニックになったのは最初だけ。それ以降は、自分の足で立ち上がって今此処にいます。初めて会った僕のことを信頼してくれ、僕の話に耳を傾けてくれた。そして、試練も無事、自分の力でクリアしました。第二の試練は本当に、僕はアドバイスをしただけで他に何もしてませんよ」

 それは、葉流が自分のことを立ててくれたからだ、と思う。彼は逢花が自信を持てるように、命の危険がありながらも逢花に謎を解かせてくれた。葉流がはっきりそう言ったわけではないが、逢花はそう解釈している。間違いなく、葉流が自分で謎解きをした方が早かったはずなのだから。

「君とよく似ているという弟君……逢知君、でしたっけ。会ってみたいですね、僕も。小学生男子の話は面白いものですから」
「葉流さんがそういうの、なんか変な気分」

 ふふっ、と思わず笑みがこぼれる。明らかに、気を使われているのは分かっていた。あまり表情が変わらない、クール、上品。そんな雰囲気の葉流だが、相手が悩んでいたらこうして寄り添えるし、ちょっとした冗談も言える。なんとなく、彼のことがわかってきたような気がする逢花だった。

「くっだんない話ばっかりするぞー、あいつ。……このお化け屋敷騒動の前にもさ、近所のマンションに勝手に侵入してすっげー怒られてんの。オートロックのマンションなのに、駐車場横の塀を乗り越えると簡単に通路に入れるっていう、凄く意味ない構造のところでさ。そっちからこっそりマンションに入り込んで、中で鬼ごっこしてたんだよね」

 三丁目の、少し大きな紫色のマンションだった。中庭がある面白い構造になっていて(というのを知っているのは、奴にスマホで撮った写真を見せられて解説を受けたからだが)、ちょっとしたジャングルみたいで面白かったということらしい。で、昼間とはいえ、大声で騒ぎながらマンション内部を走り回っていたわけである。突然管理人のオジさんらしき人に「コラー!」と怒鳴られて、全員一目散に逃げ出したのだそうだ。その時派手に転んで足をすりむいたせいで、逢知は半泣きになっていた。家に帰ってほっとしたら、しばらくして全泣きになった。宥めるのに本当に苦労したものである。
 友人達の前では本人なりに意地を張っていたのだろう。「怖かったああああ!」と泣きじゃくるくらいなら何でそんな馬鹿をやるんだ、と呆れながら絆創膏を貼ってやったものである。忌々しいことに、翌日にはもうケロっとしていて“次の悪戯計画”を考えていたから呆れたものだが。

「あー、入っちゃいけないって言われると、入りたくなるのありますよねえ」

 うんうん、と葉流も頷いてくる。

「いいですねえ、小学生らしくて。青春です」
「そ、そうかなあ……?」
「むしろ羨ましいくらいです。僕なんか昔からぼっちで、全然友達いなくて。……中学になってからですよ、気の置けない友人なんてものができたのは」

 気の置けない友人。その言葉に、ピンと来た。

「それって、一緒にこのゲームに巻き込まれてるかもしれないっていう、友達?」

 確か彼は、友人二人と一緒にいたのにはぐれた、と言っていたのではなかったか。その友達もこのゲームに巻き込まれている可能性が高いと。

「そうです。……僕にとっては、ただの友達というより……救世主に近いかもしれません」
「救世主?」
「はい。……小学校で、色々と嫌なものを見たんですよね。いじめとか、裏切りとか、まあそういうものを。人間って結局そんな程度で、他人と分かり合うことなんかできないと心底思っていました。……それが変わったのは、彼等と出逢ったからです。翔介と結。あの二人は、僕の『どうせ人間なんてみんな汚いものだ』という考えを変えてくれました。どんな屈強ないじめっ子を相手にしても、彼等は友達を売らなかった。自分の信念を曲げなかった。そういう男気に、僕は心底惚れたんです」

 そう語る葉流の顔は、どこまでも穏やかだった。此処にはいない、遠い場所にいる友人達を想い、信じている顔。心配しているようには見えなかった。――まるで、彼等なら絶対生き残ると、そう強い信頼を寄せているとでもいうような。

「だから、僕も……自分の心に背くことは絶対にしたくない。本当の自分を捨てたなら、それは死んでいることと同じだから」

 そう語る葉流の眼に、嘘偽りがあるようには思えなかった。ああ、だから彼は自分を助けてくれたのだと確信する。
 善意とか、女の子だとか、虚栄とか、そんな単純なものではなく。
 彼はただひたすら、自分の正義に忠実に生きているのだ。それが例え、命を賭けることであっても。

「……かっこいいね」

 そんな葉流がとても眩しくて、逢花は素直な気持ちを口にしていた。

「私が、生き残れたのは……やっぱり葉流さんのおかげだ。ありがとう。葉流さんがいなかったら私、きっととっくの昔に死んじゃってた」
「生き残れたのは、逢花さん自身の力ですよ」
「またまた、そんな謙遜しちゃって!」

 早く逢知を見つけて、脱出したい。でも、同じだけ葉流とずっと一緒にいたい気持ちが強くなっていく。
 そう、ここから出る時は、葉流と葉流の友人達も一緒だ。連絡先を交換すれば、逃げ出した後だってまた何度でも逢えるはずである。



――離れたくないよ、葉流さん。



 ひょっとして、これが。



「私。その……多分、葉流さんのこと……」



 そこまで言いかけた、その時だった。

「そろそろ行きましょう、逢花さん」

 あまりにも、不自然だった。聡い彼のこと、逢花が何を言いかけたのかくらい察していそうなものである。それなのに、唐突に話題を打ちきって、立ち上がった。

「……駄目ですよ」

 彼はその時、初めて逢花の方を見なかった。

「僕なんか、駄目です」
「なん、で」
「僕は、君が思っているほど綺麗な人間じゃないんです、残念ながら」

 それは、告白を断るための単純な常套文句には思えなかった。動揺する逢花をよそに、彼はすたすたと歩き始めてしまう。

「ま、待って、葉流さん!」

 置いて行かれてしまう。逢花は慌てて、その背中を追った。

――なんで?どういうこと?私が小学生だから?それとも、他に理由があるの?

 ぐるぐる回る思考に、答えてくれる存在はない。驚きと焦り、そして混乱の中。葉流を負って、逢花は次のドアを潜る結果となったのである。