絶対無理だ。
 こんなの、絶対無理に決まっている。

「助けて!お願い、お願いいいい!」

 ドンドンと向こうから壁を叩く音がする。その声に、小学生の青木メグは頭を抱えて耳を塞いだ。灰色のコンクリートの壁の向こう、叫んでいるのが友人であることはわかっていた。なんせ、彼女と自分は一緒にこの場所に連れて来られたのだ。ルールも聞いている。“能力”の使い方も知っている。今彼女がどういう状況なのか、はアナウンスで全て説明されていた。というか、さっきから聞こえる壁が動く音と悲鳴だけで、十分に状況を判断することは可能なのだ。
 友人は今、自分と同じようにこの灰色のコンクリートの部屋に閉じ込められている。
 違いは、脱出の鍵を握っているか否か。彼女は今まさに、両隣から迫ってくる壁に押し潰されようとしているのだ。彼女を助けて、二人で脱出する方法はひとつ。自分がこの部屋にある、青いボタンを押せばいい。そうすれば彼女を殺さんとする壁の動きは止まる。すでに音声で案内されたことだ。
 しかし。

『残り、3メートルデス』
「メグ!お願い、もう、もうそこまで来てるの!!」

 壁の動きは遅いようだ。それでももう、彼女のいられる空間は3メートルの幅まで狭まっている。人間の体の厚みはどれくらいのものだっただろう、とメグは考えた。それこそまだ生きているうちに壁を止められても、抜け出せる幅が残っていなければ助けることはできないだろう。
 そう、方法はひとつ。ボタンを押すだけで、彼女は助かる。しかし。

「お願い、ボタン押して!あたし、あたし潰されちゃう!メグ!メグ!!」
「うるさいっ!」

 その絶叫に近い声に、メグも叫び返していた。

「都合のいいこと、言わないでくれる?……私は、ボタン押さなくても助かるんだから」

 そう。このゲームは平等ではない。メグはこのまま、彼女が死ぬのを待っていても何も問題はないのだ。0センチになったら、自分を閉じ込めている檻の鍵は開くことになっている。そう、何もリスクを冒す必要はない。
 何故なら青いボタンを押したら壁が止まる代わりに、この部屋の天井が開いて化け物が落ちてくる仕組みになっているのだから。化け物を倒さなければ、メグは生き残れない。その代わり、壁は止まって彼女は無条件で部屋から解放されるのである。

「や、やめてよメグ。あ、あたし達、友達でしょ?」

 壁の向こうの少女が、縋るような声を出す。何が友達だ、とメグは唇を噛み締めた。自分が、何も知らないとでも思ってるのか。

「ふざけんな。……私が恨んでないとでも思ってんの、小雪」
「な、何を」
「あんたが私を売ったことよ!!」
「!!」

 メグと彼女――千田小雪(ちだこゆき)はクラスメートだった。親友とまではいかないまでも、同じグループの仲良しといった関係である。班もいつも同じ、林間学校でも同じ部屋。先生の目を盗んで夜更しもしたし、肝試しやこっくりさんもやった、そんな仲である。来年もみんなで同じクラスになれたらいいね、なんてことを普通に笑いながら話していたはずだった――ほんの一ヶ月ほど前までは。
 クラスメートの悪口が、学校の裏掲示板に書き込まれていた。その内容からしてこのクラスの生徒であることは明らかであり、悪口を書かれて不登校になった生徒の親が学校を訴える準備を始めたと噂になって大騒ぎになったのである。
 先生達は躍起になって犯人探しを始めた。悪口は、この学校のパソコン室から書き込まれていたことまでわかっているという。あの日パソコン室に入ったのは誰だ、正直に名乗り出なさい――そうなった時、小雪はさっと手を挙げて言ったのだ。

『あ、あの!あ、あたし……犯人知ってます!!め、メグちゃんが……』
『え?』

 悪口なんてものじゃない、ほんのちょっとしたからかいの言葉だった。軽い気持ちで、イライラをぶつけたくて――メグたちはみんなでその言葉を書き込んでしまったのである。そう、犯人はメグたちのグループのメンバー全員だった。それなのに、あろうことか小雪はその罪をメグ一人におっ被せようとしたのである。
 あんなことで訴えられたり、内申に響いてはたまらない。他のグループの少女たちも次々と便乗してきた。

『あの日一緒にパソコン室に入ったのは確かです!でも、まさかメグちゃんがあんなことすると思ってなくて……』
『そ、そうだよね、うん!』
『私達は止めたんだけど、メグちゃんが……』
『ま、待って!みんな何言ってんの!?』

 小雪の言葉を皮切りに皆が次々と口裏を合わせてきた。メグはあっけに取られて、自分に集中する冷たい視線を浴びる羽目になったのである。みんなノリノリで書いてたのに、何故自分だけが。なぜ自分ひとりが当然のように悪者にされて、孤立しなければいけないのか。
 パソコン室に防犯カメラなんてものはなかった。彼女達が一緒になって面白がって書き込んできたことを示す証拠は、何処にもなかったわけだ。
 結局訴えられる結果だけは免れられたものの。メグは一人だけで、親と先生と共に該当の生徒に謝罪しに行く羽目になったのである。散々罵声を浴びせられ、頭を下げながら沸々と怒りを煮えたぎらせていたのだった。確かに良くないことをしたのかもしれない。でも何で、何で自分だけ。自分ひとりが。何故こんな不条理がまかり通っていいのか――友達だと、そう信じていたというのに。

「私のこと、邪魔だったんだよね?」

 ぎしぎしと、緩やかに壁が動く音がする。

「グループ四人で、平等で公平な関係だなんて思ってたのは私だけだった。いつもリーダーシップがあってみんなを引っ張っていく小雪、頭が良くて冷静なさっちゃん、ユーモアあってみんなを笑わせるのが得意なカナカナ。私だけなんもないもんね。空気読むの下手だし、地味だし、一緒にいてもメリットないから切り捨てたんでしょ?私なら切り捨ててもいいと思ったんでしょう?」
「ち、ちがっ」
「違わない!じゃあなんで、一緒に謝ってくんなかったの?あるいは自分達は誰も悪いことしてないって庇ってくれなかったの!?他の二人じゃなくて、私を生贄にしたのはなんでっ!?」

 自分が、仲間の中で一番下――一番要らない“最下位”だったのた。
 それを思い知らされた己がどれほど惨めな気持ちになったかなんて、彼女にはきっとわからないだろう。しかもその日を境に自分は、ずっと一緒にいた仲間も全て失い、クラスで一人ぼっちになったのだ。他のクラスメートがみんな自分のことを“悪口を書き込んだいじめっ子”として見てくる。それでいて小雪達は庇うどころか素知らぬふりをして、クラスの中に溶け込み続けるのだ。
 そんな光景を毎日毎日見せつけられた自分が、どれほど憎悪を滾らせ続けていたことか。彼女は、そんなことさえ想像できなかったとでも言うのだろうか。

「ご、ごめん……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい!あ、あたしが悪かったから、許してメグ!」
『残り、2メートルデス』
「悪かったから、じゃないよ小雪。私は説明を求めてるの。何で私を売ってのうのうと自分達だけ生き残ったの?どういうつもりだったの?」
「そ、それは……それは、ちゃんと、助かったあとで説明するから!土下座でも何でもするから、今はボタン押して!早く早く早くっ!」
「なんだ、ちゃんと話す気もないの。結局自分が助かりたいだけなんじゃん」

 パニックになっているのか、壁をドンドンと叩く音がさらに大きくなる。このゲームに巻き込まれた時は己の不運を呪ったが、今思うとこれは天啓という奴だったのかもしれない。神様が自分に、復讐の機会を与えてくれたのかもしれなかった。
 そうだ。
 裏切り者を、何故自分が命懸けで助けてやらなくてはならないのか。

「私がボタン押したら、あんたまた逃げるんでしょ。化け物に殺されそうな私を捨てて、一人だけ。そうだよね、自分が助かれば私なんかどうなってもいいんだよね。あの時私を、先生に売ったみたいにさぁ!」
「そんなことない、ない、ない!ちゃんと助けるから、助けるからぁ!」
「あんたの言うことなんか一ミリも信じられないんだよ、この大嘘つきの裏切り者っ!!」

 壁が動く。
 悲鳴が大きくなる。

『残り、1メートルデス』

 死にたくないのはメグだって同じ。あの化け物の恐ろしさは、小雪だって知っているはずだ。小学生の女の子なんか簡単に踏み潰せてしまいそうなほどの怪力を持つ、灰色の巨人。鋭い牙で、生きたまま人を噛みちぎっているところは彼女も見たはず。そんな怪物と、この狭い部屋で遭遇して一体どうやって助かるというのか。確かに異能力は与えられてはいるが、根本的な身体能力は女子小学生のそれとなんら変わらないというのに。
 ボタンを押したら自分はきっと死ぬ。そして彼女は絶対自分を見捨てる。
 ならば押す選択肢など、最初からないも同然だ。

『残り、50センチデス』
「いやぁぁぁぁ!止まって、止まってよおおお!お願い、謝るから、謝るから!助けて、ほんとに潰されちゃうっ!メグ、メグ!あたしが死んでもいいの、メグっ!?」
「いいよ、さっさと死んで」

 壁の向こうから聞こえる音が変わった。明らかに何かを挟んで、動きが鈍った音。さっきまでは耳を塞ぎたかったはずの音が、妙に甘美に聞こえるのは何故だろう。

「あんたが私を見捨てたように、私もあんたを見捨てる。それでおあいこでしょ」

 ぎしぎしときしむ音が、骨を砕き肉を潰す音へ。



「痛い痛い痛い痛い!いや、いや、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」



 アナウンスが、淡々と告げる。

『残り、10センチデス』

 人間の厚みってどれくらいだったかな。女の子は胸があるからちょっと厚いのかな。少しだけ、そんなことを考えた。

『残り、0センチデス。試練は終了しまシタ。お疲れ様デス』

 がちゃん、と鍵が開く音がした。もう隣室の悲鳴は聞こえない。メグはゆっくりと立ち上がり、悠々と部屋を出ていったのだった。
 きっと今の自分は、人には見せられない顔で笑っているのだろうなと、そんなことを思いながら。