姫ポジ男子だって恋したい

 深谷がコーチ役と走り込みに参加する部活の風景は少し色が変わった。
 何色かは分からない。でも、教室でも着々と文化祭や体育祭の話し合いが進んで、執事役の深谷とか、綱引きに参加する深谷とか、「深谷の色」が濃くなっていく。今まで薄い色の絵の具のチューブを使っていたのに、別のチューブを開けた感じ。
「桃瀬、違う」
 部活での王子は、スパルタどころか熱血王子に変わった。ぱんっとマネージャーのノートを閉じる音で空気がぴんと張る。
「背筋伸ばせ」
 とん。道着の肩を掴まれ、背中を押され、姿勢を正される。その手が大きくて温かい。
 じわり。厚い布越しにゆるりと熱が心臓へと浸透していく。その熱を振り払うように竹刀を下ろすが、また深谷の声が飛んでくる。
「下半身の構えを意識」
「足の幅を直せ」
 素振りの間、ずっと側でチクチクチクチク。でも、ときにはすぐ隣でオレの耳元に低く熱い声を出す。
「竹刀を持つときは右手は添えるように。(つば)との距離はもう少し近づけて」
 深谷が竹刀を持つオレの手を上から握り込んで言う。肩が深谷の胸に当たって、残機の数字がコロコロ変わる。
 距離が、近い。勢いが、すごい。熱が体からも手から耳からも襲ってきて、オレの心臓がガタガタ言う。お前、距離感間違ってるんだよ! 顔が熱い!
「桃瀬、聞いてるのか」
 笑みのない顔で見下ろされて、首が縮む。なんでオレばっかり注意するわけ。
「はい!」
 急いで竹刀を振り下ろすと、すぐに深谷が手を持って矯正してくる。何度も何度もムカつく! こいつ嫌い!
「ヤー!」
 汗を飛ばしていると、手がじんじん熱を持ってきて、数を数えるオレの心にも火がついた。二十三、二十四、二十五。この熱血王子、オレを認めさせてやる。
――でも、そんなに簡単に技術は変われない。矯正された素振りの違和感が体に残って、変なところに力が入る。
 深谷は本当に容赦なくて、お前が一番下手だとばかりにオレに張りついて竹刀を振る様子を見ている。王子のお気に召さない動きをするとすぐに注意が飛んでくる。
 夜、テレビと家族の笑い声が聞こえてくる庭で、このヤロ、このヤロと竹刀を振った。でも、疲れは溜まっていく一方。
「外周行くぞー!」
 部長の声に「ウィーッス!」と声をあげる。だけどその日は金曜日で、一週間の疲れが足首の重りとなっていた。学校から走り出すと、すぐに顎があがって息が切れる。ダメだ、オレの太もも、めちゃくちゃ金曜日。
「桃ちゃんファイト!」
 追い抜いていく部員のジャージの後ろに学校の名前が入っている。その文字がどんどん遠ざかり、自分の汗と息と足がざらりとした土を蹴る音でいっぱいになった。夏の終わりの夕方はどんよりと雲が分厚くて、今にも泣き出しそうだ。
 前を行く集団を必死に追いかける。走るのも嫌いじゃないし、素振りも嫌いじゃない。体が多少痛くたって、剣道は好きだ。負けず嫌いで根性はあるほう。
 でも、疲れには勝てない。ちょっと根を詰めすぎた。
 ぽつ、ぽつ。土にグレーの丸のスタンプが落ちる。オレの頬にもぽたっと雨が落ちてきた。そう言えば夜は雨の予報だった。湿気で息が苦しい。
 ゆっくりと足を止め、膝に手をついた。はあはあ。下を向くと大粒の雨に混じって自分の汗が額や顎からぽたぽた落ちる。みんなのかけ声がどんどん遠ざかる。
 オレ、置いてけぼり姫。悲しい。残機ちょっと減る。でも体力がないのは自分のせい。体が小さいから。筋肉がないから。動きたくてもできない。やばい、へこんできた。
「――おい」
 ふっと地面に影が見えたと思ったら、王子の声が落ちてきた。見上げれば、深谷が自分の白いタオルをオレの頭の上で広げて雨よけを作ってこちらを見下ろしている。
「大丈夫か。足傷めたか」
 ぼんやりする頭で、深谷がわざわざ引き返してきたことに気づいた。熱血王子め、ちょっと嬉しいじゃないかこの野郎。
「ごめ……疲れて。置いてかれたくないのに」
「無理は禁物。歩いて戻る」
 深谷が歩き出したので続く。さっきまで走っていたのに、びっくりするほどゆっくり。じんじんする足の裏が少しずつほぐれる優しいスピードだ。
 土を叩く雨音と二人の土を蹴る音。道の脇の草がにおいを強め、夏の温度が少し和らぐ。
 ぽつぽつ頭に雨を感じていると、深谷はオレの頭にふんわりとタオルを被せた。
「えっ、深谷が濡れる」
「俺はいい。選手のお前が風邪引いて倒れたら困る」
 深谷がそう言って少し濡れた髪を掻き上げる。タオルがちらちらと揺れる中から見上げる深谷は、雨も気にせず黙って歩く。口調は素っ気ないのに歩幅を合わせてくれる。
 遠くで電車が走っていく音が聞こえて、一羽黒いカラスが山のほうへ飛んでいく。
「明日から」
 突然深谷が言う。
「素振りの量を減らす」
「ホント!? 僕、よくなってきた?」
「……ああ」
「やった! 家でも素振りしてた甲斐(かい)があった!」
 よっしゃ、残機三つ増えた。王子に褒められると、オレ調子に乗る。
 ちらと深谷がこちらを見下ろす。
「……家でやってるのか」
「そう! 深谷にできるって証明したいじゃん」
 深谷は目線をふいと前に戻し、「そう」とだけ言った。すぐに学校の体育館が見えてくる。校門から中に入ったときはだいぶ元気になっていた。
 雨があがり、じりじりと夏が終わる。いつの間にか蝉の声が消えて、部活帰りの道では虫がリーリーと鳴いた。九月のカレンダーを破り取る。文化祭準備の日がやってきた。