「あけおめー」
「おめー」
新学期がやって来て、キャメル色のコートで登校した。今日は始業式があるから、みんなネクタイとブレザーが完璧。出席番号順の並びも久しぶり。
深谷が遅れてやって来た。コートのすれと足音で気配を察知する。そこで胸に蘇る甘酒のまろやかさ。手袋は机の中に入れておいた。
隣に座る深谷へ「はよ」と言うと「ああ」と塩王子の返事が返ってくる。でも、今日もコートを脱ぐとイケメン。多分、昨日髪を切った。ちょっとだけ前髪と襟足が短い。こんなことに気づくオレ、どうかしてる。
深谷の後ろにいる保科に目をやると、保科が嬉しそうに笑う。保科、ちゃんとスマホは見つけたらしい。よかった。
入学式は体育館。でも教室に戻ってくると、担任が「新学期だから席替えだ」と言った。教室がわっと盛り上がる。
初詣のことを思い返して深谷のことばかり考えていたオレは、席替えなんてすっかり忘れていて唖然とした。また深谷と前後の席になると思っていた。
オレ……深谷の近くがいいんだけど……いや、そんな邪な気持ちはよくないけど……。
教卓で白い紙を引き、するりとした手触りの紙を広げる。25。
ちらっと横を見る。深谷、6。頭の中で6が点滅する。……なんでこんなに遠いの。椅子を蹴られる存在でいたかった。
机を移動させると、教室の一番前の席になった。黒板が見やすい。でも、深谷が見えない。深谷、一列の一番後ろ。人の視界を邪魔しない位置。
「桃ちゃんの後ろだ」
クラスメイトに話しかけられて、スマイルで振り返る。
「オレの後ろ、黒板が見やすいでしょ」
「うんって言っていいのかなあ」
あははと笑ったけど、心が笑えてない。プリントを渡そうと振り返れば深谷がいたのに、今はいない。どこだ。一瞬目線がうろうろして探してしまう。黒板が見やすい席になったのに、ちっとも嬉しくない。深谷がノートに走らせるシャーペンの静かな音も、もう聞くことができない。
でも、くじ引きでまた近くになるなんて、都合のいいことが起こるわけがない。同じクラスには変わりないんだし、同じ部活だし、充分だ。
気を取り直してショートホームルームを聞く。今日は授業もなにもないので、午後から部活だ。深谷と話せる。
恋って、なに? 正月、初詣から帰ってから延々と考えた。なんなら、スマホで検索もした。相手を恋い慕うこと。特定の相手に愛情を抱くこと。いや、その「恋い慕う」とか「愛情」が知りたいの。
好きかどうか確かめる方法についても調べた。相手の幸せを願う。それはそう。相手の欠点を受け入れる。語彙消失か? あんま気にならない。相手からのメッセージの返しが来ないか確認してしまう。深谷は電話で返事するタイプ。明日会えると楽しみだ。それは楽しみ。相手が異性と話していると嫉妬する。うち、男子校なんだよなあ。
結局答えは分からなかった。でも、もらった勝負守は輝いて見えた。毎日持つ鞄に下げると揺れる黄緑。なかなか悪くない。
このお守りが側にあるから、教室で席が離れていても大丈夫。
そう言い聞かせて終礼を終え、弁当を食べる。だが、体育館に集合すると、部長が言った。
「顧問の先生がインフルエンザでお休みだ。明日から別の先生が来てくれるが、今日は解散」
インフルか。先生、お大事にしてください。
先生に健康祈願のお守りを買うべきだったかな。そんなことを思いながら昇降口へ向かう。
手持ち無沙汰になってしまった。今日は深谷におはようしか言っていないし、ちょっとくらい話したい。顔見て、笑って、どうでもいいことを話したい。
でも、お弁当を食べたあとだからラーメンに誘うのは変だし、教室に戻っても王子の仮面を外さない深谷とは話せない。屋上はまだ寒いだろう。
……メッセージを送ってみよう。イエスノーで答えられる質問なら、メッセージで返してくれるかもしれない。ただ、ちょっとだけ、ちょっとでいいから、深谷と顔を合わせてしゃべりたい。声が聞きたい。オレ、勇気出せ。
そう思って昇降口で足を止めたとき、「もーもーせっ」と後ろから先輩の声がした。ぽんと背中を叩かれてはっとする。先輩がにっと笑う。
「部活がなくなってラッキー。たまにはこんな時間に帰るのもありだろ」
「……あ、そうですよね! たまにはゆっくり家でゲームとかしたいですよね!」
「桃瀬はゲーム派かあ。俺は動画を見たい。猫とか犬とか文鳥とかさ」
「生き物に癒されたい気持ち、分かります」
先輩が校門に向かって歩きだしたので、オレも半歩遅れて歩きだした。右隣を歩く先輩がオレの鞄を見る。
「あ」
その言葉にぎくっとする。必勝守のことをなにか言われる気がしたからだ。だが、先輩はそんなことは言わなかった。オレの肩から鞄を引っ張って抜き取る。
「桃瀬は姫だもんな。姫に重い荷物は持たせられないなあ」
あ、新年初の姫扱いだ。いつも感じている空気を吸った気がする。思わず笑ってなにも持っていない手を見せた。
「今日は授業もないし、弁当箱しか入ってませんよ! そしてオレの手は今ゼログラム! 姫、もっと持てる子です!」
確かにいつもは剣道袋も持ってるしなあ。そんな会話をしている後ろで突然「桃瀬」と鋭い声がした。振り返れば少し眉間にしわを寄せている深谷が立っている。あ、やっと会えた。顔が急に熱くなる。嬉しくて顔がにやけそうだ。
「深谷もお疲れー」
先輩の言葉に深谷は無表情に「お疲れさまです」とぺこっと頭を下げ、スッとオレと先輩の間に入った。いや、でかい体を割り込ませてきた。
「先輩に荷物を持たせるわけにはいきません。桃瀬の鞄、ください」
先輩が「えっ?」と驚く。深谷は淡々と「失礼します」と半ば強引にオレの鞄を先輩から奪った。
「お先に失礼します。今日はお疲れさまでした」
またも深谷は先輩にぺこっとお辞儀をし、長い足ですたすたと自転車置き場へ歩いていく。え、深谷、その鞄、オレのって分かってるよな? オレ、先輩と同じで駅に行くんだけど?
「あっ、えっと、先輩、お疲れさまです! また明日です!」
手をあげ、慌てて深谷の背中を追いかける。深谷の足、いつもより速い。オレを置き去りにする速度。
「ちょっと、深谷待てって! いきなりなに……」
自転車置き場のところまで来ると人はいなかった。午前中で終わる生徒は弁当を食べずに帰るし、こんな変な時間に帰ることになったのは剣道部だけなのだろう。自転車置き場の屋根は雨で薄汚れたスチールが波打っている。その波と同じようにオレの心拍が揺れる。
深谷が振り返ってオレを見た。凍てついた目。ザアッ。久しぶりに感じるブリザード。ドクッ。心臓が変な音を跳ねさせる。
「……ちゃらちゃらお守りつけてんじゃねえよ」
深谷の冬の鋭いつららのような口調がドスッとオレの胸を刺した。思考回路がフリーズする。
「……ちゃらちゃらって……それ、深谷がくれたやつ……大切に……しようとして……」
大事にしようと思ったから、つけたのに。そう言いたいのに、深谷がふっと目を逸らした。
「じゃあなんで先輩がお守りつけた鞄を持ってんだよ」
「え、それは、姫には持たせられないって言われて」
「姫への親切心になんだかなって思ったって言ってたくせに、なんだそれ」
深谷の声が吐き捨てるように言った。声色が、初詣の深谷と全然違う。目が丸くなる。 え? なに? 深谷が怒ってる。なんで? オレ、なんかした?
ドッとこめかみが音を立てて血がどくんどくんと脈打つ。胸が冷え込んで、足が氷で固められたように動かない。
「う、奪われたし、先輩だから、返せとも言いづらいし、別に、お守りの効力、先輩に行かないじゃん」
「そういうことじゃねえよ。姫扱いされて嬉しそうだったけど」
深谷の眉間がどんどんきつくなっていく。なに? なんで怒ってんの? 姫でいいって言ってくれたのに。どうして、そんな言い方すんの?
「嬉しそうって、笑顔で答えただけだし」
「お前、誰にでもにこにこするよな」
全然意味が分かんない。姫じゃなくてもやるだろ? 先輩に笑顔で接するの、普通だろ?
「笑顔は大事だろ。相手に不快な思いをさせないし」
「へえ」
へえ、って。クール王子はしないかもしれないけど、でも、なんでそんなに怒るの?
足から重力が消えた。なんだか、今にも力が抜けそうで、立っていられるか分からない。深谷と会いたかったのに、会って話したかったのに、話して笑いたかったのに、なんで、今、深谷は怒ってるんだ。
「……深谷、なんで今日不機嫌なの?」
「別に」
短く切られた言葉。あ、これ、塩王子のセリフだ。
急に深谷との間の地面に亀裂が入ったような気がした。底が見えないクレバス。雪山の近づいたらいけない危険な場所。こんな冷たい深谷、見たことない。
「深谷、なに怒ってんだよ」
「怒ってねえ。ただ」
ただ、なに? そう思ったら、深谷は眉間のしわを深くした。オレの鞄を突き返してくる。強引にコートの胸に押しつけられた。お守りが揺れる。
「先輩と帰ったら。楽しそうだったもんな」
「え? でも、先輩は帰っちゃったと思うけど」
「……あっそ」
一瞬深谷がきゅっとくちびるを噛んだ。だがふいと顔を逸らされ、自分の自転車のほうへ行ってしまう。
突然の吹雪に呑み込まれて、オレは唖然とぽかんの中間でその場に突っ立った。ガンガン残機は削られていって、深谷が無言で自転車に乗って横を通り過ぎたときゼロになる。
カラカラカラ。自転車の音が遠ざかっていく。
今、無視された? なんで? お守りつけたのかよなんて言いながらちょっと嬉しそうな顔が見られると思ったのに。なにに怒ってんの? お守りって外につけちゃいけなかったっけ? 大事にするなら内側につけろとか、そういうこと?
鞄を持つ手が下がる。お守りが冬の風にふわふわ揺れる。
せっかく、会えたのに。初詣のときみたいに、話せると思ったのに。
雪の季節の次は桃。でも、まだ春は遠いらしい。すごく、心が寒い。
「おめー」
新学期がやって来て、キャメル色のコートで登校した。今日は始業式があるから、みんなネクタイとブレザーが完璧。出席番号順の並びも久しぶり。
深谷が遅れてやって来た。コートのすれと足音で気配を察知する。そこで胸に蘇る甘酒のまろやかさ。手袋は机の中に入れておいた。
隣に座る深谷へ「はよ」と言うと「ああ」と塩王子の返事が返ってくる。でも、今日もコートを脱ぐとイケメン。多分、昨日髪を切った。ちょっとだけ前髪と襟足が短い。こんなことに気づくオレ、どうかしてる。
深谷の後ろにいる保科に目をやると、保科が嬉しそうに笑う。保科、ちゃんとスマホは見つけたらしい。よかった。
入学式は体育館。でも教室に戻ってくると、担任が「新学期だから席替えだ」と言った。教室がわっと盛り上がる。
初詣のことを思い返して深谷のことばかり考えていたオレは、席替えなんてすっかり忘れていて唖然とした。また深谷と前後の席になると思っていた。
オレ……深谷の近くがいいんだけど……いや、そんな邪な気持ちはよくないけど……。
教卓で白い紙を引き、するりとした手触りの紙を広げる。25。
ちらっと横を見る。深谷、6。頭の中で6が点滅する。……なんでこんなに遠いの。椅子を蹴られる存在でいたかった。
机を移動させると、教室の一番前の席になった。黒板が見やすい。でも、深谷が見えない。深谷、一列の一番後ろ。人の視界を邪魔しない位置。
「桃ちゃんの後ろだ」
クラスメイトに話しかけられて、スマイルで振り返る。
「オレの後ろ、黒板が見やすいでしょ」
「うんって言っていいのかなあ」
あははと笑ったけど、心が笑えてない。プリントを渡そうと振り返れば深谷がいたのに、今はいない。どこだ。一瞬目線がうろうろして探してしまう。黒板が見やすい席になったのに、ちっとも嬉しくない。深谷がノートに走らせるシャーペンの静かな音も、もう聞くことができない。
でも、くじ引きでまた近くになるなんて、都合のいいことが起こるわけがない。同じクラスには変わりないんだし、同じ部活だし、充分だ。
気を取り直してショートホームルームを聞く。今日は授業もなにもないので、午後から部活だ。深谷と話せる。
恋って、なに? 正月、初詣から帰ってから延々と考えた。なんなら、スマホで検索もした。相手を恋い慕うこと。特定の相手に愛情を抱くこと。いや、その「恋い慕う」とか「愛情」が知りたいの。
好きかどうか確かめる方法についても調べた。相手の幸せを願う。それはそう。相手の欠点を受け入れる。語彙消失か? あんま気にならない。相手からのメッセージの返しが来ないか確認してしまう。深谷は電話で返事するタイプ。明日会えると楽しみだ。それは楽しみ。相手が異性と話していると嫉妬する。うち、男子校なんだよなあ。
結局答えは分からなかった。でも、もらった勝負守は輝いて見えた。毎日持つ鞄に下げると揺れる黄緑。なかなか悪くない。
このお守りが側にあるから、教室で席が離れていても大丈夫。
そう言い聞かせて終礼を終え、弁当を食べる。だが、体育館に集合すると、部長が言った。
「顧問の先生がインフルエンザでお休みだ。明日から別の先生が来てくれるが、今日は解散」
インフルか。先生、お大事にしてください。
先生に健康祈願のお守りを買うべきだったかな。そんなことを思いながら昇降口へ向かう。
手持ち無沙汰になってしまった。今日は深谷におはようしか言っていないし、ちょっとくらい話したい。顔見て、笑って、どうでもいいことを話したい。
でも、お弁当を食べたあとだからラーメンに誘うのは変だし、教室に戻っても王子の仮面を外さない深谷とは話せない。屋上はまだ寒いだろう。
……メッセージを送ってみよう。イエスノーで答えられる質問なら、メッセージで返してくれるかもしれない。ただ、ちょっとだけ、ちょっとでいいから、深谷と顔を合わせてしゃべりたい。声が聞きたい。オレ、勇気出せ。
そう思って昇降口で足を止めたとき、「もーもーせっ」と後ろから先輩の声がした。ぽんと背中を叩かれてはっとする。先輩がにっと笑う。
「部活がなくなってラッキー。たまにはこんな時間に帰るのもありだろ」
「……あ、そうですよね! たまにはゆっくり家でゲームとかしたいですよね!」
「桃瀬はゲーム派かあ。俺は動画を見たい。猫とか犬とか文鳥とかさ」
「生き物に癒されたい気持ち、分かります」
先輩が校門に向かって歩きだしたので、オレも半歩遅れて歩きだした。右隣を歩く先輩がオレの鞄を見る。
「あ」
その言葉にぎくっとする。必勝守のことをなにか言われる気がしたからだ。だが、先輩はそんなことは言わなかった。オレの肩から鞄を引っ張って抜き取る。
「桃瀬は姫だもんな。姫に重い荷物は持たせられないなあ」
あ、新年初の姫扱いだ。いつも感じている空気を吸った気がする。思わず笑ってなにも持っていない手を見せた。
「今日は授業もないし、弁当箱しか入ってませんよ! そしてオレの手は今ゼログラム! 姫、もっと持てる子です!」
確かにいつもは剣道袋も持ってるしなあ。そんな会話をしている後ろで突然「桃瀬」と鋭い声がした。振り返れば少し眉間にしわを寄せている深谷が立っている。あ、やっと会えた。顔が急に熱くなる。嬉しくて顔がにやけそうだ。
「深谷もお疲れー」
先輩の言葉に深谷は無表情に「お疲れさまです」とぺこっと頭を下げ、スッとオレと先輩の間に入った。いや、でかい体を割り込ませてきた。
「先輩に荷物を持たせるわけにはいきません。桃瀬の鞄、ください」
先輩が「えっ?」と驚く。深谷は淡々と「失礼します」と半ば強引にオレの鞄を先輩から奪った。
「お先に失礼します。今日はお疲れさまでした」
またも深谷は先輩にぺこっとお辞儀をし、長い足ですたすたと自転車置き場へ歩いていく。え、深谷、その鞄、オレのって分かってるよな? オレ、先輩と同じで駅に行くんだけど?
「あっ、えっと、先輩、お疲れさまです! また明日です!」
手をあげ、慌てて深谷の背中を追いかける。深谷の足、いつもより速い。オレを置き去りにする速度。
「ちょっと、深谷待てって! いきなりなに……」
自転車置き場のところまで来ると人はいなかった。午前中で終わる生徒は弁当を食べずに帰るし、こんな変な時間に帰ることになったのは剣道部だけなのだろう。自転車置き場の屋根は雨で薄汚れたスチールが波打っている。その波と同じようにオレの心拍が揺れる。
深谷が振り返ってオレを見た。凍てついた目。ザアッ。久しぶりに感じるブリザード。ドクッ。心臓が変な音を跳ねさせる。
「……ちゃらちゃらお守りつけてんじゃねえよ」
深谷の冬の鋭いつららのような口調がドスッとオレの胸を刺した。思考回路がフリーズする。
「……ちゃらちゃらって……それ、深谷がくれたやつ……大切に……しようとして……」
大事にしようと思ったから、つけたのに。そう言いたいのに、深谷がふっと目を逸らした。
「じゃあなんで先輩がお守りつけた鞄を持ってんだよ」
「え、それは、姫には持たせられないって言われて」
「姫への親切心になんだかなって思ったって言ってたくせに、なんだそれ」
深谷の声が吐き捨てるように言った。声色が、初詣の深谷と全然違う。目が丸くなる。 え? なに? 深谷が怒ってる。なんで? オレ、なんかした?
ドッとこめかみが音を立てて血がどくんどくんと脈打つ。胸が冷え込んで、足が氷で固められたように動かない。
「う、奪われたし、先輩だから、返せとも言いづらいし、別に、お守りの効力、先輩に行かないじゃん」
「そういうことじゃねえよ。姫扱いされて嬉しそうだったけど」
深谷の眉間がどんどんきつくなっていく。なに? なんで怒ってんの? 姫でいいって言ってくれたのに。どうして、そんな言い方すんの?
「嬉しそうって、笑顔で答えただけだし」
「お前、誰にでもにこにこするよな」
全然意味が分かんない。姫じゃなくてもやるだろ? 先輩に笑顔で接するの、普通だろ?
「笑顔は大事だろ。相手に不快な思いをさせないし」
「へえ」
へえ、って。クール王子はしないかもしれないけど、でも、なんでそんなに怒るの?
足から重力が消えた。なんだか、今にも力が抜けそうで、立っていられるか分からない。深谷と会いたかったのに、会って話したかったのに、話して笑いたかったのに、なんで、今、深谷は怒ってるんだ。
「……深谷、なんで今日不機嫌なの?」
「別に」
短く切られた言葉。あ、これ、塩王子のセリフだ。
急に深谷との間の地面に亀裂が入ったような気がした。底が見えないクレバス。雪山の近づいたらいけない危険な場所。こんな冷たい深谷、見たことない。
「深谷、なに怒ってんだよ」
「怒ってねえ。ただ」
ただ、なに? そう思ったら、深谷は眉間のしわを深くした。オレの鞄を突き返してくる。強引にコートの胸に押しつけられた。お守りが揺れる。
「先輩と帰ったら。楽しそうだったもんな」
「え? でも、先輩は帰っちゃったと思うけど」
「……あっそ」
一瞬深谷がきゅっとくちびるを噛んだ。だがふいと顔を逸らされ、自分の自転車のほうへ行ってしまう。
突然の吹雪に呑み込まれて、オレは唖然とぽかんの中間でその場に突っ立った。ガンガン残機は削られていって、深谷が無言で自転車に乗って横を通り過ぎたときゼロになる。
カラカラカラ。自転車の音が遠ざかっていく。
今、無視された? なんで? お守りつけたのかよなんて言いながらちょっと嬉しそうな顔が見られると思ったのに。なにに怒ってんの? お守りって外につけちゃいけなかったっけ? 大事にするなら内側につけろとか、そういうこと?
鞄を持つ手が下がる。お守りが冬の風にふわふわ揺れる。
せっかく、会えたのに。初詣のときみたいに、話せると思ったのに。
雪の季節の次は桃。でも、まだ春は遠いらしい。すごく、心が寒い。

