バスから降りると体育館倉庫に荷物を片づけ、ミーティングをする。
明日から試験一週間前で部活はなくなる。次に部活があるのは試験最終日の午後。今日の感覚を忘れないようにと顧問が締めて、場は解散となった。
オレはみんなが帰るのを見送り、更衣室の点検をした。忘れ物がないか確認し、端に転がっていたゴミを捨てる。竹刀袋を肩にかけて鼻歌交じりに更衣室を出ると、「桃瀬」と声がした。ジャージの深谷がこぶしを握って立っていた。
「深谷、帰ってなかったんだ? 笹原と帰ったかと思った」
「……ああ、まあ」
深谷がぽつりと言い、俯く。なんだか、様子がおかしい。いつもの王子オーラもないし、二人きりのときの素とも違う。
「腹でも痛いのか? どうした?」
すると深谷がぱっと顔をあげた。驚いた。満面の笑顔だった。
ダンッ。試合のときのような足音を鳴らして深谷が近づいてきて、がしっとオレの手を掴む。
「桃瀬、ありがとな!」
深谷の大きな声がオレの耳を打つ。目をきらきらさせて、口元を笑わせて言う。
「勝ってくれて本当にありがとう! 感動して泣きそうだった! 桃瀬はすげえよ。お前は、すごい」
いきなりの賞賛にぽかんとする。温かい深谷の手。オレを今日の勝利に導いてくれた手。
「深谷、手……」
オレの言葉に深谷がはっとしたように手を放した。
「……あ、ごめん……」
「……いや、別に……」
じんじんと手が温かい。深谷の熱が、少しだけオレの手に移動した。熱伝導。物理で習ったやつ。決してオレの体が熱くなったわけではない。念のため。
妙な間を埋めたくて急いで言う。
「深谷が相手選手について分析してくれたし、教えてくれてたから勝てたのかも。こっちこそサンキュー!」
だが、深谷は一転して、オレの言葉なんか聞いてないみたいに突っ立った。視線をうろうろさせ、なにか言いたげに口を開いたり閉じたりする。
深谷が、しゃべろうとしている。語彙のない男が、なにか、大事なことを言おうとしている。
「……桃瀬が勝ったの……嬉しかった。ごめん」
「それはありがたいけど……どうかした?」
オレが尋ねると、深谷は一瞬黙った。先ほどまでミーティングをしていた体育館に沈黙が落ちる。
「……ずっと、桃瀬には、話したいことがあって……でも、うまく、説明できなくて」
「なに? 深谷が語彙消失させるのくらい知ってるけど」
オレは荷物を床に下ろし、見上げた。
「そっちが話し始めたんじゃん。言いたいこと言うのを待つ」
すると深谷が「長くなるけど」と重く低い声で断りを入れた。ほんの少しこぶしをぎゅっと握る。
「……中学のとき、俺は強いほうだったけど……親が剣道やってて……いつもダメだしくらってた。もっとできるはずだとか、男らしく本気でいけとか……うざくて。でも……面を被るとひとりになれるから……それが好きだった」
深谷の顔を見つめ返すと、深谷が少し息をついて淡々と言う。
「中学二年生のとき、大会があった。場所はあの体育館……会場に行ったら、女子みたいなかわいい顔のちっちゃい男子がいた。……垂れネームに、桃瀬って、書いてあった」
その言葉に目を剥いた。
「え? オレ、深谷と会ったことあるの?」
深谷は頷いたか俯いたか分からないような反応をする。そして続けた。
「その日の対戦相手の名前が、桃瀬だった。先輩が、言った。相手が小さいやつでラッキーだなって。俺も……ラッキーって思った。一勝取るのは簡単だ、これで親に怒られずに済む、って」
深谷の言葉が胸に浸透して息が止まる。じゃあ、二年前のあのときの相手は。あのとき、オレが戦った相手は。面で顔の見えなかったあの背の高い選手は。
深谷が声を絞り出す。
「試合が始まったら、本当に相手は小さかった。ちょっと踏み込んだら……簡単に一本取れた。……二本目、相手は萎縮してた。それを見て、またラッキーって思って……一本取った」
深谷の目が遠くを見た。
「……大会が終わったとき俺は気分がよくて……帰りになんのジュースを買おうかなとか思ってた。そしたら、体育館の廊下の隅で、そいつがすげえ泣いてた。でかい目からぼろぼろ涙こぼして……本当に悔しがってた……本気で俺に勝ちたかったんだよ」
廊下の隅、冷たい床の埃。覚えてる。恥ずかしいのに涙が止まらなくて、目をこすると痛くて、胸はもっと痛くて。オレの一番の黒歴史。
きっと深谷もあの空気を覚えてる。だって、ちっとも嬉しそうじゃない。勝った選手の言葉じゃない。
「ショックだった……ジュース買うのなんて忘れて、気づいたら家だった。勝ったけど……ちっとも嬉しくなくて……負けた気分で。勝つことの意味……分かんなくなった。笹原が、剣道の基本は礼だって言った。半端な気持ちで勝ったからそうなるんだって。分かったなら……今からでもいいから相手を大切にしろって」
――真剣な相手を大切にしようと思ったら簡単に遠慮しないだろ。
笹原に負けた日の言葉を思い出す。あれは、深谷の体験に基づいた言葉だったのだ。深谷が続ける。
「笹原は、その子の泣き顔を見てないから……きっと……分からない。その子がどんなにその日のために練習してきたか、背丈だけで通じなくてどんなにつらかったか、相手が本気じゃなかったことを知ったらどんなに悲しいか……俺は、簡単な気持ちで、人の心を踏みにじって……泣かせた」
明日から試験一週間前で部活はなくなる。次に部活があるのは試験最終日の午後。今日の感覚を忘れないようにと顧問が締めて、場は解散となった。
オレはみんなが帰るのを見送り、更衣室の点検をした。忘れ物がないか確認し、端に転がっていたゴミを捨てる。竹刀袋を肩にかけて鼻歌交じりに更衣室を出ると、「桃瀬」と声がした。ジャージの深谷がこぶしを握って立っていた。
「深谷、帰ってなかったんだ? 笹原と帰ったかと思った」
「……ああ、まあ」
深谷がぽつりと言い、俯く。なんだか、様子がおかしい。いつもの王子オーラもないし、二人きりのときの素とも違う。
「腹でも痛いのか? どうした?」
すると深谷がぱっと顔をあげた。驚いた。満面の笑顔だった。
ダンッ。試合のときのような足音を鳴らして深谷が近づいてきて、がしっとオレの手を掴む。
「桃瀬、ありがとな!」
深谷の大きな声がオレの耳を打つ。目をきらきらさせて、口元を笑わせて言う。
「勝ってくれて本当にありがとう! 感動して泣きそうだった! 桃瀬はすげえよ。お前は、すごい」
いきなりの賞賛にぽかんとする。温かい深谷の手。オレを今日の勝利に導いてくれた手。
「深谷、手……」
オレの言葉に深谷がはっとしたように手を放した。
「……あ、ごめん……」
「……いや、別に……」
じんじんと手が温かい。深谷の熱が、少しだけオレの手に移動した。熱伝導。物理で習ったやつ。決してオレの体が熱くなったわけではない。念のため。
妙な間を埋めたくて急いで言う。
「深谷が相手選手について分析してくれたし、教えてくれてたから勝てたのかも。こっちこそサンキュー!」
だが、深谷は一転して、オレの言葉なんか聞いてないみたいに突っ立った。視線をうろうろさせ、なにか言いたげに口を開いたり閉じたりする。
深谷が、しゃべろうとしている。語彙のない男が、なにか、大事なことを言おうとしている。
「……桃瀬が勝ったの……嬉しかった。ごめん」
「それはありがたいけど……どうかした?」
オレが尋ねると、深谷は一瞬黙った。先ほどまでミーティングをしていた体育館に沈黙が落ちる。
「……ずっと、桃瀬には、話したいことがあって……でも、うまく、説明できなくて」
「なに? 深谷が語彙消失させるのくらい知ってるけど」
オレは荷物を床に下ろし、見上げた。
「そっちが話し始めたんじゃん。言いたいこと言うのを待つ」
すると深谷が「長くなるけど」と重く低い声で断りを入れた。ほんの少しこぶしをぎゅっと握る。
「……中学のとき、俺は強いほうだったけど……親が剣道やってて……いつもダメだしくらってた。もっとできるはずだとか、男らしく本気でいけとか……うざくて。でも……面を被るとひとりになれるから……それが好きだった」
深谷の顔を見つめ返すと、深谷が少し息をついて淡々と言う。
「中学二年生のとき、大会があった。場所はあの体育館……会場に行ったら、女子みたいなかわいい顔のちっちゃい男子がいた。……垂れネームに、桃瀬って、書いてあった」
その言葉に目を剥いた。
「え? オレ、深谷と会ったことあるの?」
深谷は頷いたか俯いたか分からないような反応をする。そして続けた。
「その日の対戦相手の名前が、桃瀬だった。先輩が、言った。相手が小さいやつでラッキーだなって。俺も……ラッキーって思った。一勝取るのは簡単だ、これで親に怒られずに済む、って」
深谷の言葉が胸に浸透して息が止まる。じゃあ、二年前のあのときの相手は。あのとき、オレが戦った相手は。面で顔の見えなかったあの背の高い選手は。
深谷が声を絞り出す。
「試合が始まったら、本当に相手は小さかった。ちょっと踏み込んだら……簡単に一本取れた。……二本目、相手は萎縮してた。それを見て、またラッキーって思って……一本取った」
深谷の目が遠くを見た。
「……大会が終わったとき俺は気分がよくて……帰りになんのジュースを買おうかなとか思ってた。そしたら、体育館の廊下の隅で、そいつがすげえ泣いてた。でかい目からぼろぼろ涙こぼして……本当に悔しがってた……本気で俺に勝ちたかったんだよ」
廊下の隅、冷たい床の埃。覚えてる。恥ずかしいのに涙が止まらなくて、目をこすると痛くて、胸はもっと痛くて。オレの一番の黒歴史。
きっと深谷もあの空気を覚えてる。だって、ちっとも嬉しそうじゃない。勝った選手の言葉じゃない。
「ショックだった……ジュース買うのなんて忘れて、気づいたら家だった。勝ったけど……ちっとも嬉しくなくて……負けた気分で。勝つことの意味……分かんなくなった。笹原が、剣道の基本は礼だって言った。半端な気持ちで勝ったからそうなるんだって。分かったなら……今からでもいいから相手を大切にしろって」
――真剣な相手を大切にしようと思ったら簡単に遠慮しないだろ。
笹原に負けた日の言葉を思い出す。あれは、深谷の体験に基づいた言葉だったのだ。深谷が続ける。
「笹原は、その子の泣き顔を見てないから……きっと……分からない。その子がどんなにその日のために練習してきたか、背丈だけで通じなくてどんなにつらかったか、相手が本気じゃなかったことを知ったらどんなに悲しいか……俺は、簡単な気持ちで、人の心を踏みにじって……泣かせた」

