会場の扉が開いた。係員のジャンパーが言う。
「四十八番、桃瀬景直、会場へ移動」
響く声にどくんと心臓が跳ねる。竹刀を握り直し、ぐっと顎を引く。同じ高校数人も呼ばれる。いよいよだ。
コーチがそれぞれになにか言う。なにも聞こえない。心臓の音がバクバク言って、首筋に汗が流れる。
「桃瀬」
コーチと目が合った。
「真剣にやれ」
「――はい」
面を抱えて本会場に行くと、先ほどまでの竹刀の音が嘘のように静まり返っていた。簡易机に記録係が座り、審判たちが立っている。選手もみんな黙って指定の位置へつく。自分の吐く息の音さえ、向かいの選手まで伝わってしまいそうながらんどうの静寂。
面を被り、ぎゅっと頭の後ろの紐を引き締めて座る。はあ、はあ。面の中で自分の息がうるさい。ああ、なんで面を被ると水が飲めないんだ。緊張で喉が渇く。
面金の切り取られた世界でひとりきり。そこから先輩たちが竹刀を交えるのを見つめる。
キュッキュッ、カンカン、パァン! 足音と打突音が重なり、会場に響き、広がっていく。審判の「勝負あり」の毅然とした声とともに旗があがる。
ちらと自分の相手選手を見る。座っていても分かる。体が大きい。袴の裾がそよいでいるのも、堂々として見える。
神様、なんでおっきい相手を当ててくんの? いや、オレからすればほとんどの選手が大きいけど。
隣の先輩が立ち上がった。始めの合図に中央で竹刀を構える。もう、深谷で回復した残機がギューンと減った。ダメ、怖い、違う、怯むな。
深呼吸をして心臓の音を数える。一、二、三。――大丈夫。桃瀬は桃瀬で大丈夫。
「やめ! 戻れ!」
審判のかけ声に先輩が元の位置へ戻る。スッと赤い旗があがった。先輩の勝ちだ。先輩が礼をして隣へ戻ってくる。対戦相手が腰をあげた。
急に心がしんと静まり返った。雨の日の翌朝、太陽の光が眩しい水たまりのような静けさ。審判が手をあげて合図する。
「入ってください」
背筋が伸びた。自分の名前を呼ぶ審判の声に立ち上がり、少しひやりとした体育館の床をコートへ進む。
感じる。面に入り込んでくる体育館の温度。スッスッと鳴る袴のすれ。床を踏む相手の足音。研ぎ澄まされた感覚がオレの体を一気に熱くした。礼をし、すうっと息を吸う。
「始め!」
審判の声が響いて、竹刀を構える。間合いを取る相手は、中二のときの相手と同じくらい高い。カンカン。乾いた音でぶつかる竹刀の先が、互いの意志を探り合う。
でも、分かる。相手はオレに勝てると思ってる。だって、笹原と全然違う。笹原はオレに遠慮しない。笹原はオレに真剣だ。笹原のほうが、ずっとずっと怖かった。
――隙だらけなんだよ!
「ドウッ!」
バンッ! 床の爆ぜる音に合わせて技を繰り出す。オレの声とともにボンッと胴と竹刀の打突音が鳴り響く。取った。一本。
はあっはあっ。息を切らしてすぐに間を取る。落ち着け。もう一本、もう一本取らなければ勝てない。集中だ。
息を吐いて竹刀を握り締め、面金の向こうを見据える。耳を澄ませば聞こえる会場の静寂。落ち着けば勝てる。
竹刀をいつも通り構えたが、突然、相手の手が面の上で構えた。スッと頭よりあがる竹刀。目が丸くなる。上段の構え。
息を呑む。高校生から試合で使える構えだ。オレは練習でちょっとしかやったことがない。それを受けることもほとんどしたことがない。
うそだろ。上段を使うなんて、深谷のまとめた記録にはなかったのに。
急いで自分も対抗して上に構える。
でも、これは相手がオレに遠慮していない証拠。これこそが剣道。オレに誠意を見せてくれている。オレを本気の相手だと認めて仕掛けようとしている。
竹刀を前に構える姿勢ではないから、いつもより間合いが近くなる。相手の体がもっと大きく感じる。重心の重さ、ブレのなさ、威圧感。どれもが本気でオレを潰そうとしてくる。
――でも、負けない。そうだろ。
深谷の言葉が胸に灯っている。
……スゥゥゥ。くちびるが息を鳴らす。
そうだ、負けない。オレは、この体育館に勝ちに来たんだ! 姫じゃない桃瀬で勝ってみせる!
来る。空気の揺れにオレの足が反応した。踏み込みと同時に喉の奥から男の声がほとばしる。
「メーーーーーンッ!!」
パァァァンッ! 竹刀の空気を切る音と爆音とともに、手から痺れがビリビリッと走り抜ける。相手の頭を見る。オレの竹刀が届いていた。
はあ、はあ。息が切れる。全身がまだビリビリ言っている。元の位置へ戻る。審判が言う。
「面!」
赤の旗があがって、オレの勝利の色が揺れた。主審の鋭い声が場内を裂く。
「勝負あり!」
審判の声が耳に落ちてきて、ようやく理解した。
――勝ったんだ。ちゃんと、勝った。はあはああがる息の音。指先の震え。竹刀の柄の固さ。防具の中の蒸し暑さ。踏みしめる床の冷たさ。現実の世界が戻ってくる。
深く礼をして席へ戻ると、深谷が中腰で驚いたようにこちらを見ている。
――でも負けない。そうだろ。
そうだ、深谷。オレは負けない。……負けなかったよ。
個人戦は午前中で終了し、午後は団体戦になった。と言っても、交流試合で参加校も多くない。三時には全てが終わり、解散となる。
「桃瀬君?」
「あ、はい」
帰り際に廊下で呼ばれて振り返ると、先ほどの対戦校の名前が入ったジャージの選手がこちらを見下ろしていた。背の高さで分かる。上段の構え。オレの対戦相手だ。向こうが驚いたように目をぱちぱちさせる。
「びっくりした。女の子かと思った」
「がっつり中身が男ですみません」
すると彼はははっと笑った。
「すごく勉強になったよ。また桃瀬君とやりたいな」
「こちらこそあの構えを見せていただき感動しました。次もよろしくお願いします」
「そっち男子校だろ? すんごいモテそう」
今度はこっちが笑う番だ。
「姫って呼ばれてます。男前な姫ですけどね!」
笑い合い、握手した。それじゃあまた。そんな言葉を交わし、交流っていいなと思う。
帰りのバスはぷつんと緊張の糸が途切れて意識が落ちた。目を覚ますと、もう学校の校門だった。
「四十八番、桃瀬景直、会場へ移動」
響く声にどくんと心臓が跳ねる。竹刀を握り直し、ぐっと顎を引く。同じ高校数人も呼ばれる。いよいよだ。
コーチがそれぞれになにか言う。なにも聞こえない。心臓の音がバクバク言って、首筋に汗が流れる。
「桃瀬」
コーチと目が合った。
「真剣にやれ」
「――はい」
面を抱えて本会場に行くと、先ほどまでの竹刀の音が嘘のように静まり返っていた。簡易机に記録係が座り、審判たちが立っている。選手もみんな黙って指定の位置へつく。自分の吐く息の音さえ、向かいの選手まで伝わってしまいそうながらんどうの静寂。
面を被り、ぎゅっと頭の後ろの紐を引き締めて座る。はあ、はあ。面の中で自分の息がうるさい。ああ、なんで面を被ると水が飲めないんだ。緊張で喉が渇く。
面金の切り取られた世界でひとりきり。そこから先輩たちが竹刀を交えるのを見つめる。
キュッキュッ、カンカン、パァン! 足音と打突音が重なり、会場に響き、広がっていく。審判の「勝負あり」の毅然とした声とともに旗があがる。
ちらと自分の相手選手を見る。座っていても分かる。体が大きい。袴の裾がそよいでいるのも、堂々として見える。
神様、なんでおっきい相手を当ててくんの? いや、オレからすればほとんどの選手が大きいけど。
隣の先輩が立ち上がった。始めの合図に中央で竹刀を構える。もう、深谷で回復した残機がギューンと減った。ダメ、怖い、違う、怯むな。
深呼吸をして心臓の音を数える。一、二、三。――大丈夫。桃瀬は桃瀬で大丈夫。
「やめ! 戻れ!」
審判のかけ声に先輩が元の位置へ戻る。スッと赤い旗があがった。先輩の勝ちだ。先輩が礼をして隣へ戻ってくる。対戦相手が腰をあげた。
急に心がしんと静まり返った。雨の日の翌朝、太陽の光が眩しい水たまりのような静けさ。審判が手をあげて合図する。
「入ってください」
背筋が伸びた。自分の名前を呼ぶ審判の声に立ち上がり、少しひやりとした体育館の床をコートへ進む。
感じる。面に入り込んでくる体育館の温度。スッスッと鳴る袴のすれ。床を踏む相手の足音。研ぎ澄まされた感覚がオレの体を一気に熱くした。礼をし、すうっと息を吸う。
「始め!」
審判の声が響いて、竹刀を構える。間合いを取る相手は、中二のときの相手と同じくらい高い。カンカン。乾いた音でぶつかる竹刀の先が、互いの意志を探り合う。
でも、分かる。相手はオレに勝てると思ってる。だって、笹原と全然違う。笹原はオレに遠慮しない。笹原はオレに真剣だ。笹原のほうが、ずっとずっと怖かった。
――隙だらけなんだよ!
「ドウッ!」
バンッ! 床の爆ぜる音に合わせて技を繰り出す。オレの声とともにボンッと胴と竹刀の打突音が鳴り響く。取った。一本。
はあっはあっ。息を切らしてすぐに間を取る。落ち着け。もう一本、もう一本取らなければ勝てない。集中だ。
息を吐いて竹刀を握り締め、面金の向こうを見据える。耳を澄ませば聞こえる会場の静寂。落ち着けば勝てる。
竹刀をいつも通り構えたが、突然、相手の手が面の上で構えた。スッと頭よりあがる竹刀。目が丸くなる。上段の構え。
息を呑む。高校生から試合で使える構えだ。オレは練習でちょっとしかやったことがない。それを受けることもほとんどしたことがない。
うそだろ。上段を使うなんて、深谷のまとめた記録にはなかったのに。
急いで自分も対抗して上に構える。
でも、これは相手がオレに遠慮していない証拠。これこそが剣道。オレに誠意を見せてくれている。オレを本気の相手だと認めて仕掛けようとしている。
竹刀を前に構える姿勢ではないから、いつもより間合いが近くなる。相手の体がもっと大きく感じる。重心の重さ、ブレのなさ、威圧感。どれもが本気でオレを潰そうとしてくる。
――でも、負けない。そうだろ。
深谷の言葉が胸に灯っている。
……スゥゥゥ。くちびるが息を鳴らす。
そうだ、負けない。オレは、この体育館に勝ちに来たんだ! 姫じゃない桃瀬で勝ってみせる!
来る。空気の揺れにオレの足が反応した。踏み込みと同時に喉の奥から男の声がほとばしる。
「メーーーーーンッ!!」
パァァァンッ! 竹刀の空気を切る音と爆音とともに、手から痺れがビリビリッと走り抜ける。相手の頭を見る。オレの竹刀が届いていた。
はあ、はあ。息が切れる。全身がまだビリビリ言っている。元の位置へ戻る。審判が言う。
「面!」
赤の旗があがって、オレの勝利の色が揺れた。主審の鋭い声が場内を裂く。
「勝負あり!」
審判の声が耳に落ちてきて、ようやく理解した。
――勝ったんだ。ちゃんと、勝った。はあはああがる息の音。指先の震え。竹刀の柄の固さ。防具の中の蒸し暑さ。踏みしめる床の冷たさ。現実の世界が戻ってくる。
深く礼をして席へ戻ると、深谷が中腰で驚いたようにこちらを見ている。
――でも負けない。そうだろ。
そうだ、深谷。オレは負けない。……負けなかったよ。
個人戦は午前中で終了し、午後は団体戦になった。と言っても、交流試合で参加校も多くない。三時には全てが終わり、解散となる。
「桃瀬君?」
「あ、はい」
帰り際に廊下で呼ばれて振り返ると、先ほどの対戦校の名前が入ったジャージの選手がこちらを見下ろしていた。背の高さで分かる。上段の構え。オレの対戦相手だ。向こうが驚いたように目をぱちぱちさせる。
「びっくりした。女の子かと思った」
「がっつり中身が男ですみません」
すると彼はははっと笑った。
「すごく勉強になったよ。また桃瀬君とやりたいな」
「こちらこそあの構えを見せていただき感動しました。次もよろしくお願いします」
「そっち男子校だろ? すんごいモテそう」
今度はこっちが笑う番だ。
「姫って呼ばれてます。男前な姫ですけどね!」
笑い合い、握手した。それじゃあまた。そんな言葉を交わし、交流っていいなと思う。
帰りのバスはぷつんと緊張の糸が途切れて意識が落ちた。目を覚ますと、もう学校の校門だった。

