「気迫?」
「お前、途中で気迫がなくなる……空気が揺らぐ。最初はやる気があるのに、途中から雑念が入るように見える」
深谷の目が一瞬言葉を探すように動いた。
「……面の中ではひとりっきり。桃瀬は、逃げてる。剣道は礼に始まり礼に終わる。お辞儀をするって意味じゃなくて……笹原に対して礼を持って向き合ったか、の話」
深谷が笹原のほうを向いた。気づいた笹原が汗を拭いながら「なに?」とこちらにやって来る。深谷が笹原に聞く。
「笹原、桃瀬とやるとき遠慮するか?」
「はあ? なんでそんなことしなきゃいけないの」
笹原の突き放す言い方に内心むっとする。身長分遠慮しろよ。
だが、深谷は「だよな」と答えた。笹原は怪訝そうにこちらを見やり、部長の呼びかけに元の位置へ戻っていく。そして深谷がこちらに尋ねた。
「今の、分かったか」
笹原がきついってこと?
オレはそう言おうとして、ちょっと立ち止まって考えた。オレに遠慮しない。背の高い笹原が背の低いオレに遠慮しない。……遠慮したらまずいと思ってるってこと?
思わずぱっと顔をあげて深谷を見ると、深谷は腕組みをしてこちらを見下ろした。
「真剣な相手を大切にしようと思ったら、簡単に遠慮しない。向こうは、真剣に桃瀬に向き合ってる。気を抜けば、桃瀬に一本取られると思ってる。桃瀬を信じてるから、そう思う。桃瀬も真剣にやれ。確かに笹原は身長で有利かもな。でも、桃瀬は勝てるのに、勝ちに行ってない」
それだけ言うと、深谷は別の部員に声をかけ、離れていく。そのジャージの背中を見て心が少しずつ熱を帯びてくる。
真剣な相手を大切に。なんだろう、深谷の言葉、すごくリアルだった。相手の小ささに怯んだ経験があるんだろうか。深谷もきっとたくさん負けを経験したんだ。だから、オレの弱点を見抜ける。
――勝ちたい、絶対に。
よし。気合いを入れて練習に戻る。
交流試合のことばかり考えてるからダメなんだ。今向き合っている相手に礼を尽くす。これが積み重なって、心と技を磨く。多分、深谷が言っていたのはそういうことだ。
男前姫、明日も部活を頑張って桃瀬を鍛えます。
夜、家で弟とダイニングテーブルに着くと、千切りキャベツが添えられた生姜焼きの山が出てきた。弟は野球をやっているから、体作りのためにもよく食べる。
「いただきます!」
弟が肉にかぶりついて「うめえ」と言う。向かいに座った母親が「焦らなくてもまだあるわよ」と苦笑する。
相手を大切に。ちらりと味噌汁を啜る母親を見る。
竹刀を持つ相手も、ご飯を作る相手も、目の前にいて、礼を尽くさなければならない。多分、こういうことも同じ。
自然と手が合わさった。
「いただきます」
じゅわっ。生姜焼きの甘塩っぱい肉汁が口に広がる。おいしい。出された食事を大切に最後まで食べよう。それがオレの体になる。お茶碗に立つ白い粒がつやつやして見えた。
それから心を入れ替えた。体育館に入るときの一礼も、先生やコーチへの挨拶も、心なしか大きくなった気がする。走り込みも目標を決めて真剣に走った。
「桃瀬、竹刀は小指、薬指、中指で握るイメージ」
体育館の端で後ろに立つ深谷の大きな手がオレの手を上から握る。
「違う。もっと左の手は力を強めて」
耳にかかる深谷の声が熱い。残機、数が揺れる。でも、深谷は真剣。相手が真剣ならオレも真剣に。
「そう、それで素振り。はい、始め」
パンッ。深谷の手打ちの音に「ヤー!」と竹刀を振り下ろす。道着がすぐに暑くなり、竹刀を振るたび汗が飛ぶ。でも、床を踏む音が整ってきた気がする。体もブレなくなった。楽しい。きっともっと強くなれる。
部員との稽古では一本取れることも増えた。そのたびに深谷がアドバイスをくれる。直すところ九割、褒めるところ一割のスパルタ仕様だけど。
心の残機、最近減らない。ちょっとした乱高下はあるけど、ゼロにはならない。
部活で負け続きになるとさすがに落ちる。そういうときは理由をつけて深谷にメッセージを送り、電話がかかってくるのを待った。
『お前、宿題の範囲を忘れるのいい加減にしろ』
「部活に行くと頭から抜け落ちるんだよ。でも助かった。今日はこの英語と国語をやればいいのか」
『……国語?』
「明日小テストじゃん。古文」
『……』
「忘れてた?」
『……桃瀬……恥を忍んで言うんだが……俺は国語ができない……』
「ああ、うん、想像の範囲内」
『文法と分かり合えねえ……形容詞はこの世に必要か?』
「必要でしょ。日本語の一部なんだし」
『……』
「ああもう、どこが分かんないんだよ。教えるから!」
通話をスピーカーにして文法の教科書を広げて思う。お前、その理解度は、その顔と身長だから許されるギリッギリのラインだからな。
朝晩冷え込むようになり、制服のダッフルコートを初めて出す。ネイビーとキャメル色から選べたので、ちょっとでも大きく見えるキャメル色にした。
寒くなったので、屋上には行かなくなった。昼ご飯は保科たちとおしゃべりしながら食べて、机に頬杖をついて談笑する。
教室内の暖房は少し暑いくらい。体育のあとと五時間目は地獄で、頭がぼーっとして眠気と必死に戦った。たまに負けそうになって頭がぐらっとなると、後ろからガンッと椅子を蹴られたり背中にノートが刺さったりする。
深谷サン、足の長さの使い方、間違ってますよ。
ふと、深谷はどんな選手だったんだろうと思う。今背は高いけれど、昔から高いほうだったのか、いきなり伸びたのか。なんの技が得意だったのか、苦手だったのか。面の中でひとりなにを考えていたのか。
体育祭の袴姿の深谷を思い出す。深谷と一緒に竹刀を持ちたかった。今だってたまの電話が楽しい。二人でなにかできたらよかったのに。
ある日、一時間目から頭がぐらぐらしたら、王子が通り過ぎざまに眠気覚ましのタブレットを机に置いていった。
「お前、途中で気迫がなくなる……空気が揺らぐ。最初はやる気があるのに、途中から雑念が入るように見える」
深谷の目が一瞬言葉を探すように動いた。
「……面の中ではひとりっきり。桃瀬は、逃げてる。剣道は礼に始まり礼に終わる。お辞儀をするって意味じゃなくて……笹原に対して礼を持って向き合ったか、の話」
深谷が笹原のほうを向いた。気づいた笹原が汗を拭いながら「なに?」とこちらにやって来る。深谷が笹原に聞く。
「笹原、桃瀬とやるとき遠慮するか?」
「はあ? なんでそんなことしなきゃいけないの」
笹原の突き放す言い方に内心むっとする。身長分遠慮しろよ。
だが、深谷は「だよな」と答えた。笹原は怪訝そうにこちらを見やり、部長の呼びかけに元の位置へ戻っていく。そして深谷がこちらに尋ねた。
「今の、分かったか」
笹原がきついってこと?
オレはそう言おうとして、ちょっと立ち止まって考えた。オレに遠慮しない。背の高い笹原が背の低いオレに遠慮しない。……遠慮したらまずいと思ってるってこと?
思わずぱっと顔をあげて深谷を見ると、深谷は腕組みをしてこちらを見下ろした。
「真剣な相手を大切にしようと思ったら、簡単に遠慮しない。向こうは、真剣に桃瀬に向き合ってる。気を抜けば、桃瀬に一本取られると思ってる。桃瀬を信じてるから、そう思う。桃瀬も真剣にやれ。確かに笹原は身長で有利かもな。でも、桃瀬は勝てるのに、勝ちに行ってない」
それだけ言うと、深谷は別の部員に声をかけ、離れていく。そのジャージの背中を見て心が少しずつ熱を帯びてくる。
真剣な相手を大切に。なんだろう、深谷の言葉、すごくリアルだった。相手の小ささに怯んだ経験があるんだろうか。深谷もきっとたくさん負けを経験したんだ。だから、オレの弱点を見抜ける。
――勝ちたい、絶対に。
よし。気合いを入れて練習に戻る。
交流試合のことばかり考えてるからダメなんだ。今向き合っている相手に礼を尽くす。これが積み重なって、心と技を磨く。多分、深谷が言っていたのはそういうことだ。
男前姫、明日も部活を頑張って桃瀬を鍛えます。
夜、家で弟とダイニングテーブルに着くと、千切りキャベツが添えられた生姜焼きの山が出てきた。弟は野球をやっているから、体作りのためにもよく食べる。
「いただきます!」
弟が肉にかぶりついて「うめえ」と言う。向かいに座った母親が「焦らなくてもまだあるわよ」と苦笑する。
相手を大切に。ちらりと味噌汁を啜る母親を見る。
竹刀を持つ相手も、ご飯を作る相手も、目の前にいて、礼を尽くさなければならない。多分、こういうことも同じ。
自然と手が合わさった。
「いただきます」
じゅわっ。生姜焼きの甘塩っぱい肉汁が口に広がる。おいしい。出された食事を大切に最後まで食べよう。それがオレの体になる。お茶碗に立つ白い粒がつやつやして見えた。
それから心を入れ替えた。体育館に入るときの一礼も、先生やコーチへの挨拶も、心なしか大きくなった気がする。走り込みも目標を決めて真剣に走った。
「桃瀬、竹刀は小指、薬指、中指で握るイメージ」
体育館の端で後ろに立つ深谷の大きな手がオレの手を上から握る。
「違う。もっと左の手は力を強めて」
耳にかかる深谷の声が熱い。残機、数が揺れる。でも、深谷は真剣。相手が真剣ならオレも真剣に。
「そう、それで素振り。はい、始め」
パンッ。深谷の手打ちの音に「ヤー!」と竹刀を振り下ろす。道着がすぐに暑くなり、竹刀を振るたび汗が飛ぶ。でも、床を踏む音が整ってきた気がする。体もブレなくなった。楽しい。きっともっと強くなれる。
部員との稽古では一本取れることも増えた。そのたびに深谷がアドバイスをくれる。直すところ九割、褒めるところ一割のスパルタ仕様だけど。
心の残機、最近減らない。ちょっとした乱高下はあるけど、ゼロにはならない。
部活で負け続きになるとさすがに落ちる。そういうときは理由をつけて深谷にメッセージを送り、電話がかかってくるのを待った。
『お前、宿題の範囲を忘れるのいい加減にしろ』
「部活に行くと頭から抜け落ちるんだよ。でも助かった。今日はこの英語と国語をやればいいのか」
『……国語?』
「明日小テストじゃん。古文」
『……』
「忘れてた?」
『……桃瀬……恥を忍んで言うんだが……俺は国語ができない……』
「ああ、うん、想像の範囲内」
『文法と分かり合えねえ……形容詞はこの世に必要か?』
「必要でしょ。日本語の一部なんだし」
『……』
「ああもう、どこが分かんないんだよ。教えるから!」
通話をスピーカーにして文法の教科書を広げて思う。お前、その理解度は、その顔と身長だから許されるギリッギリのラインだからな。
朝晩冷え込むようになり、制服のダッフルコートを初めて出す。ネイビーとキャメル色から選べたので、ちょっとでも大きく見えるキャメル色にした。
寒くなったので、屋上には行かなくなった。昼ご飯は保科たちとおしゃべりしながら食べて、机に頬杖をついて談笑する。
教室内の暖房は少し暑いくらい。体育のあとと五時間目は地獄で、頭がぼーっとして眠気と必死に戦った。たまに負けそうになって頭がぐらっとなると、後ろからガンッと椅子を蹴られたり背中にノートが刺さったりする。
深谷サン、足の長さの使い方、間違ってますよ。
ふと、深谷はどんな選手だったんだろうと思う。今背は高いけれど、昔から高いほうだったのか、いきなり伸びたのか。なんの技が得意だったのか、苦手だったのか。面の中でひとりなにを考えていたのか。
体育祭の袴姿の深谷を思い出す。深谷と一緒に竹刀を持ちたかった。今だってたまの電話が楽しい。二人でなにかできたらよかったのに。
ある日、一時間目から頭がぐらぐらしたら、王子が通り過ぎざまに眠気覚ましのタブレットを机に置いていった。

