【一】
「桃ちゃーん、メロンパンいる?」
夏休み明け初日。まだ元気な蝉の声に、教室の温度がじりじりとあがる。効きの悪い冷房にため息をつき、オレは下敷きであおいでいた。だが、クラスメイトの一言にぱっと起き上がる。
「え、ほしい! 購買の人気ナンバーツーじゃん! 僕の中ではナンバーワン! 保科、それどうしたの」
購買の長蛇の列に並んだに違いない保科がこちらの席に来てにかっと笑う。
「前期にメロンパンを買えなくて悔しがってたじゃん。今日買えたから、いるかなって」
「え、いいの? いいなら買う! いくらだった?」
昼休みのパンの争奪戦なんて騎馬戦並みの激しさだ。一年生は不利だし、背が小さければもっと不利。それを突破してメロンパンを獲得した英雄には頭があがらない。
黄色のメロンパンを受け取り、内心ふふと笑う。
ほらな、人生なんてイージーモード。この顔と声があれば、毎日が追い風だ。「僕」なんて言い方もぴったり。
くちびるを保湿するリップ。キューティクルの艶を保つヘアブラシ。アイロンをかけた白シャツ。少し長い前髪を左で留めた花のピン。これで男子校の姫の完成だ。
オレは、いわゆる男子校の姫ポジ。そしてそれがオレの特技で仕事。
仕事……のはずなんだけど。
「桃ちゃん、今日から剣道部はあんの? 初日って」
保科がなにか言いかけた瞬間、隣の席からガタッと椅子の音がした。
「邪魔」
メロンパンをくれた保科とオレの間をスッと通り過ぎる背の高い影。睫毛の長い涼しげな目元、スッと通った鼻筋、薄いくちびるは引き締まり、ストレートの黒髪は清潔感が漂う。優秀な生徒会長タイプを絵にしたらこうなる。
「イケメンクール王子は夏休みが明けても塩対応だな」
保科の呟きに「そういう性格の人もいるって」なんて笑ってみせる。出ていく背中をそっと目で追う。
廊下へ出ていったのは右隣の深谷雪。唯一オレを姫扱いしない男。出席番号順に座ると小さな姫と背の高い王子が隣に座るなんて言われている、らしい。
でも、愛想のよくない王子より、表情豊かな姫のほうが得だ。
宿題で悩めば教えてもらえるし、美術で変な絵を描いても「姫の弱点」って笑ってもらえる。ちょっと頑張れば「桃ちゃんありがと!」なんて感謝される。表情を変えない深谷は、近寄りがたくてクラスでもちょっと浮いている。
塩王子が戻ってきた。ガタンと椅子を引く音が大きい。
お前の椅子はレーシングカーか? 今すぐ電気自動車に乗り換えろ。レーサーになるにはライセンスが必要だぞ。
「桃瀬」
突然深谷の氷の目がこちらを射抜いた。ザアッ。途端に吹き荒れるブリザード。
「ピンうるさい。落ちかけて揺れてる」
「え、あ、ごめん」
え、あ、ごめん。思わず謝っちまったけど、謝る必要あったか? クソ、三十秒前に戻れたら「教えてくれてありがと!」って姫スマイルを炸裂させてやるのに。
頭にピンをつけ直しながら内心悪態をつく。姫の効力が効かないやつの前ではこちらも人気者属性が解ける。
そのままため息をついて突っ伏したいところだったが、五時間目のチャイムが容赦なく鳴る。出席簿を持つ担任がやってくる。
「今日のショートホームルームは、まずは席替えだ」
途端に空気がわっと盛り上がる。学期初日のイベントと言えばこれだ。
「後ろの席がいいよな」
「教卓の前って意外と死角らしい」
授業をサボりはしないけど、ガリ勉ってわけでもない。だいたいのクラスメイトはそんな様子で、オレはちらりと横のイケメンを見た。
オレは深谷回避ガチャを引く。こいつの近くにいると調子が狂う。
教卓に置かれた箱から一枚紙を取る。指先が感じ取る紙の微妙な厚み。席に戻って広げた。17。――最悪。視界の端でイケメンが18の札を引いてるのが見えてるんだよ。
やった、窓際の席だ。騒いでいるクラスメイトたちの楽しそうな声に天を仰ぐ。
神様、オレに厳しくない? いや、メロンパンのおこぼれで運を使い果たしたのか?
もう一度ちらっと隣を見ると、イケメンと目がぱちっと合った。すぐさま目を逸らす。内心ため息をつきながら机を移動させ、椅子に腰かけた。後ろのガタンという椅子の音に深呼吸する。
「おい」
後ろの声にぎくりとして振り返る。深谷の指がオレの椅子の横を指す。
「床。紙を落としてるぞ」
「あ……教えてくれてありがと!」
姫スマイル、姫スマイル。拾ってにっこり微笑むと、深谷はなにも言わずスッと目線を机に戻した。多分、目が合ったのは一秒。
でもその一秒だけで、心臓が意味の分からない動きをする。ドコドコ変な音を立ててリズムが狂う。本当にやめてほしい。心臓の残機が減る。
席に座り直しながら、深呼吸する。背中に深谷の視線の名残みたいなものが張りついている気がして、落ち着かない。シャツの首のタグ、多分ちょっと右にずれてる。うなじのところが気持ち悪いのはそのせい。そう思いたい。
新しい座席にみんながざわつく。だが、担任がその空気を変える。
「移動できたな。じゃあ次は来月の文化祭の話し合いだ」
担任がぱん、と軽く手を叩く。教室の空気が一瞬で「待ってました!」と沸き返る。
「桃ちゃーん、メロンパンいる?」
夏休み明け初日。まだ元気な蝉の声に、教室の温度がじりじりとあがる。効きの悪い冷房にため息をつき、オレは下敷きであおいでいた。だが、クラスメイトの一言にぱっと起き上がる。
「え、ほしい! 購買の人気ナンバーツーじゃん! 僕の中ではナンバーワン! 保科、それどうしたの」
購買の長蛇の列に並んだに違いない保科がこちらの席に来てにかっと笑う。
「前期にメロンパンを買えなくて悔しがってたじゃん。今日買えたから、いるかなって」
「え、いいの? いいなら買う! いくらだった?」
昼休みのパンの争奪戦なんて騎馬戦並みの激しさだ。一年生は不利だし、背が小さければもっと不利。それを突破してメロンパンを獲得した英雄には頭があがらない。
黄色のメロンパンを受け取り、内心ふふと笑う。
ほらな、人生なんてイージーモード。この顔と声があれば、毎日が追い風だ。「僕」なんて言い方もぴったり。
くちびるを保湿するリップ。キューティクルの艶を保つヘアブラシ。アイロンをかけた白シャツ。少し長い前髪を左で留めた花のピン。これで男子校の姫の完成だ。
オレは、いわゆる男子校の姫ポジ。そしてそれがオレの特技で仕事。
仕事……のはずなんだけど。
「桃ちゃん、今日から剣道部はあんの? 初日って」
保科がなにか言いかけた瞬間、隣の席からガタッと椅子の音がした。
「邪魔」
メロンパンをくれた保科とオレの間をスッと通り過ぎる背の高い影。睫毛の長い涼しげな目元、スッと通った鼻筋、薄いくちびるは引き締まり、ストレートの黒髪は清潔感が漂う。優秀な生徒会長タイプを絵にしたらこうなる。
「イケメンクール王子は夏休みが明けても塩対応だな」
保科の呟きに「そういう性格の人もいるって」なんて笑ってみせる。出ていく背中をそっと目で追う。
廊下へ出ていったのは右隣の深谷雪。唯一オレを姫扱いしない男。出席番号順に座ると小さな姫と背の高い王子が隣に座るなんて言われている、らしい。
でも、愛想のよくない王子より、表情豊かな姫のほうが得だ。
宿題で悩めば教えてもらえるし、美術で変な絵を描いても「姫の弱点」って笑ってもらえる。ちょっと頑張れば「桃ちゃんありがと!」なんて感謝される。表情を変えない深谷は、近寄りがたくてクラスでもちょっと浮いている。
塩王子が戻ってきた。ガタンと椅子を引く音が大きい。
お前の椅子はレーシングカーか? 今すぐ電気自動車に乗り換えろ。レーサーになるにはライセンスが必要だぞ。
「桃瀬」
突然深谷の氷の目がこちらを射抜いた。ザアッ。途端に吹き荒れるブリザード。
「ピンうるさい。落ちかけて揺れてる」
「え、あ、ごめん」
え、あ、ごめん。思わず謝っちまったけど、謝る必要あったか? クソ、三十秒前に戻れたら「教えてくれてありがと!」って姫スマイルを炸裂させてやるのに。
頭にピンをつけ直しながら内心悪態をつく。姫の効力が効かないやつの前ではこちらも人気者属性が解ける。
そのままため息をついて突っ伏したいところだったが、五時間目のチャイムが容赦なく鳴る。出席簿を持つ担任がやってくる。
「今日のショートホームルームは、まずは席替えだ」
途端に空気がわっと盛り上がる。学期初日のイベントと言えばこれだ。
「後ろの席がいいよな」
「教卓の前って意外と死角らしい」
授業をサボりはしないけど、ガリ勉ってわけでもない。だいたいのクラスメイトはそんな様子で、オレはちらりと横のイケメンを見た。
オレは深谷回避ガチャを引く。こいつの近くにいると調子が狂う。
教卓に置かれた箱から一枚紙を取る。指先が感じ取る紙の微妙な厚み。席に戻って広げた。17。――最悪。視界の端でイケメンが18の札を引いてるのが見えてるんだよ。
やった、窓際の席だ。騒いでいるクラスメイトたちの楽しそうな声に天を仰ぐ。
神様、オレに厳しくない? いや、メロンパンのおこぼれで運を使い果たしたのか?
もう一度ちらっと隣を見ると、イケメンと目がぱちっと合った。すぐさま目を逸らす。内心ため息をつきながら机を移動させ、椅子に腰かけた。後ろのガタンという椅子の音に深呼吸する。
「おい」
後ろの声にぎくりとして振り返る。深谷の指がオレの椅子の横を指す。
「床。紙を落としてるぞ」
「あ……教えてくれてありがと!」
姫スマイル、姫スマイル。拾ってにっこり微笑むと、深谷はなにも言わずスッと目線を机に戻した。多分、目が合ったのは一秒。
でもその一秒だけで、心臓が意味の分からない動きをする。ドコドコ変な音を立ててリズムが狂う。本当にやめてほしい。心臓の残機が減る。
席に座り直しながら、深呼吸する。背中に深谷の視線の名残みたいなものが張りついている気がして、落ち着かない。シャツの首のタグ、多分ちょっと右にずれてる。うなじのところが気持ち悪いのはそのせい。そう思いたい。
新しい座席にみんながざわつく。だが、担任がその空気を変える。
「移動できたな。じゃあ次は来月の文化祭の話し合いだ」
担任がぱん、と軽く手を叩く。教室の空気が一瞬で「待ってました!」と沸き返る。

