「うるせえってなんだよ。なんで電話なの!」
『文字打つのめんどくさい』
拍子抜けする答えが返ってきて、緊張の糸がぷつっと切れた。ベッドにひっくり返る。
「深谷って体を動かすのは好きなのに、指の運動はしたくない?」
『そうは言ってねえ』
「言ってるじゃん」
『黙れ』
「命令形で言うな」
『文法の話はしてねえよ』
電話越しの深谷の声は、学校よりもちょっとやわらかく聞こえる。少し呼吸の音が聞こえて、耳元に深谷の息が落ちてくるみたいだ。
「……あんがと。それが言いたかっただけ」
案外口にしてみるとあっけない。小さく言葉を呑み込むような音がして、「教室、大丈夫だっただろ」と返事が来た。
「怖かったけど……みんな、態度が変わんなかった。びっくりした」
本音を漏らすと、また向こうで小さな息の音がした。だが、耳を傾けても声は返ってこない。――あ、これ、語彙が消えてるな。
「深谷サン、電子辞書は鞄の中にあるんじゃないですか?」
『うるせえ。つまり……あー……』
電話の向こうで深谷がため息をついた。
『桃瀬は、桃瀬なんだよ』
「その意味不明な言葉を考えるのに何秒かかった?」
『お前ホントうるせえ。電話かけたのこっち』
「はーい、言いたいこと言うのを待つから、どうぞ」
スマホを耳につけながらごろんと転がり、掛け布団にできた小さな毛玉を爪で掻く。
スマホから聞こえる呼吸音。ピコンピコン。なんでだろう、そんな小さな音さえオレの残機を増やす。今、三機増加。
「……深谷サン? 息してます?」
『してる……だから……姫は……大丈夫で』
ん、だいぶよく分からない。
『えっと……姫でも姫じゃなくても、桃瀬は桃瀬でいい……』
なんとなく、分かったような分からないような。でも、深谷が一生懸命励まそうとしてくれているのは分かる。
「うん、分かった。オレはオレでいい」
深谷が言ったことをそのまま言うと、小さく安堵の音がした。
『そういうこと……桃瀬が姫でなくても、俺は別に……』
電話の向こうで息ひとつ。
『……関係ない』
「あ、うん、お前がオレのことがどうでもいいのは分かってる」
『そんな言い方はしてねえ……』
いや、いつもどうでもよさげだったけど。言ってやろうかと思ったが、これはお礼の電話だと思い直す。
「いい意味で言ってんの! 姫でも姫じゃなくてもいいんだろ?」
『それは、そう』
また深谷の言葉を繰り返すと、深谷は納得したような声を出した。
語彙が逃げる深谷語を理解するのにはまだまだ時間がかかりそう。でも、なんとなく分かった。
深谷が真剣にこちらのことを考え、耳を傾け、話そうとしてくれた。そういうことだ。
学校の人にこんな打ち明け話をするの、初めてだ。なんか、くすぐったい。電話を切るタイミングが分からない。
「あ、そうだ。深谷、数学の宿題、何ページまで? オレ、メモしたノートを学校に忘れちゃって」
『ああ、それなら』
スマホの向こうでガサゴソ音がして、いつもの深谷の口調が戻ってきた。本当は覚えていた数字をメモしたふりをし、「サンキュ」と締める。
「よし、じゃあオレ宿題やるから」
『俺もやる』
「ん。また明日ー」
軽く言うと、低い声が耳元で鳴る。
『……喉、よく休めろよ』
「はいはい、王子様命令な!」
『命令形で言ってねえよ』
いや、それ、命令形。オレがふふっと笑ったら、スマホの向こうも空気を震わせた。トンとタップをして電話を切り、「はー!」と思いっきり息を吐く。
「うわ、深谷と電話しちゃったよ」
思わず口に出してしまう。通話を切った画面を見つめ、通話履歴に「フカヤ 20:54:28」の文字があるのを確認する。
現実だ。
じわじわと胸が温かくなってきて、ぎゅっとスマホを抱きしめた。鼓動がトントンと音を立てる。心臓よ、ステイ。
やばい。嬉しい。深谷は、保科たちのような友だちとは違う。教室でしゃべるわけじゃないし、部活でおしゃべりするわけじゃない。
でも、二人きりなら素で話せる特別な相手だ。姫じゃなくても、深谷の前なら本音をさらけ出せる気がする。
――姫でも姫じゃなくても、桃瀬は桃瀬でいい。
深谷の言葉を反芻して噛みしめる。
声が高くても低くても、オレはオレでいい。きっと、深谷が言っているのはそういうことだ。不器用な励ましが、胸を温めてくれる。胸の残機、また回復する。
勢いよく起き上がり、ベッドから立ち上がって伸びをする。
「よし、やるか!」
オレは鞄から数学の教科書とノートを取り出した。
翌日からも、深谷とオレは昨日の電話が嘘のようになにも話さなかった。強いて言えば、挨拶のおはようを言っただけ。
ジャージを着て、放課後の校舎の外周を剣道部で走る。
「声出していけー!」
「オーッス!」
部長の声にみんなが声をあげ、オレは笹原の隣を走る深谷の背中を見つめた。深谷は王子の仮面を被っているし、語彙が壊滅するから考えていることはよく分からない。でも、安心する相手だ。この背中を見続けられるなら、次の試合まで頑張れる。
学校に戻ってきて、水分補給した。秋の風が本格的だ。体育館に入って、ちょっとの温度差にほっと息をつく。
「桃ちゃん、タオルはどうした?」
その言葉に、首にかけていたタオルがないことに気づく。
「オレ、水道場に置いてきたかも。取ってくる」
体育館の外に出て、水道場のほうへ角を曲がろうとした。
「それにしても、桃瀬、声変わったな」
ひとりの先輩の声に足がぴたっと止まった。もうひとりが引きつるような笑いをする。
「桃瀬から姫が減ったら残念」
以前、ケトルが沸騰した先輩。でも、今回は沸騰しなかった。
前のオレなら残機がごっそり削られたかもしれない。でも、ちょっと胸が冷たくなっただけ。だって、声が男でも大丈夫って言ってくれるクラスメイトがいるから。桃瀬は桃瀬でいいって言ってくれる人がいるから。
オレは負けない。姫じゃなくても勝つ。
でも桃瀬は頑張ってるし――。答える先輩の声を聞きながら笑顔を作り、すぐに角を曲がって水道場に駆け寄った。
「タオルあった!」
先輩二人がオレの登場に少しだけ驚いた顔をする。オレは笑顔でこぶしを握った。
「忘れ物なんて、気が抜けてますよね! 来月、交流試合があるのに」
ぐっと改めて手を握る。
「オレ、中学のときにあの体育館でボロ負けしたんです。次は勝ちます!」
先輩に宣言すると、すぐに二人は笑顔になった。
「桃瀬、その前に十月考査だ」
「先輩たちは試験は楽勝ですか?」
「やべえから忠告してんの」
ははっと放課後の体育館裏に笑い声が広がる。三人で体育館に戻り、最後のミーティングを行う。
じゃあと帰るみんなを見送り、オレはひとりになった体育館で竹刀を握った。今日が試験前最後の活動日。桃瀬は、桃瀬でいい。だったら、桃瀬を鍛えなければ。
ダンッ。足を踏み込んで竹刀を振る。この竹刀が相手に届くように。姫だからなんて誤魔化しで悔しさを紛らわせないために。オレは全力でやらなきゃいけない。
キィ。体育館の重い扉が開く。顔を覗かせたのは制服の深谷だった。
「桃瀬か……音がすると思って戻ってみたら」
「自主練。試合、負けたくない」
すると深谷は近づいてきて、オレの竹刀を握る手首を掴んだ。その力が少しだけ強い。深谷の眉根がきゅっとなる。
「……無理は、禁物。足……」
じわっ。温かい手から熱が移る。一瞬心臓がドクッと揺れた。
「……傷めるから」
……お前が言うなら、そうか。
「分かった」と倉庫に竹刀を片づける。ジャージを脱いでボディーシートで首筋をぬぐうとぴやっと体が跳ねた。でも、深谷が握って止めた右手首に少し熱が残っている。左手でさすると、熱はスッと消えた。
今日の夕飯なにかな。そう思いながら更衣室を出ると、深谷がそこに立っていた。
「え? 深谷、なにしてんの?」
「は? 待ってただけだけど?」
「いや、なんで待つの」
「心配だろうが。……マネージャー、だし」
深谷がくるっと背を翻して先に出口へ向かう。
「足の裏とか痛くねえのかよ。駅まで自転車貸してやる」
へえ、王子は自転車通学か。感心しながら自転車置き場まで行く。
白い自転車はやっぱり無味無臭。「ほらよ」と鍵をカチャっと解除した自転車は、夕日を受けて少しだけ温かみがある気がした。
「サンキュー」
前のカゴに鞄を放り、スタンドを片足で蹴る。そして跨がろうとして――
「深谷! 地面に足が届かない!!」
は? これ、同じ人間の足の長さかよ?
オレがびっくりするほど自転車を傾けて足をつけると、ぶはっと噴き出す声がした。見上げると、深谷が腹を抱えて爆笑している。
「ははっ! お前、足短ッ」
「うっさい! 背が小さきゃ足も短いでしょ!」
深谷の笑いが止まらない。オレと目が合って、ふっと後ろを向いて肩を震わせる。
「……いや、わり。でも……」
耳たぶを赤くした深谷が咳払いし、また口を開けて笑う。
「あっはっは! やっば、ツボった! これ、一週間くらい笑える!」
「笑うな!」
けらけら笑う深谷は初めて見る顔をしていた。王子じゃなくて、ただただ普通の、同い年の少年。――こいつ、笑うとこんな明るい顔をするんだ。
深谷が目尻を拭ってくくっと笑う。
「桃瀬、笑わせる天才かよ」
「うっさい! サドル下げて!」
「あーはいはい」
「返事、雑!」
肩を震わせながら深谷がサドルを下げ、「早く帰れ」と校門を閉める先生に見送られて帰途につく。
「桃瀬」
きゅっと口端をあげた深谷が走り出した。その背中が部活のときより軽い気がする。
「走りたい気分」
「じゃあ並走!」
夕日をめがけてペダルをぐっと踏む。少しだけ眩しい。十月の放課後はオレンジ色をしている。
変わったのは声じゃない。多分、オレの明日。
『文字打つのめんどくさい』
拍子抜けする答えが返ってきて、緊張の糸がぷつっと切れた。ベッドにひっくり返る。
「深谷って体を動かすのは好きなのに、指の運動はしたくない?」
『そうは言ってねえ』
「言ってるじゃん」
『黙れ』
「命令形で言うな」
『文法の話はしてねえよ』
電話越しの深谷の声は、学校よりもちょっとやわらかく聞こえる。少し呼吸の音が聞こえて、耳元に深谷の息が落ちてくるみたいだ。
「……あんがと。それが言いたかっただけ」
案外口にしてみるとあっけない。小さく言葉を呑み込むような音がして、「教室、大丈夫だっただろ」と返事が来た。
「怖かったけど……みんな、態度が変わんなかった。びっくりした」
本音を漏らすと、また向こうで小さな息の音がした。だが、耳を傾けても声は返ってこない。――あ、これ、語彙が消えてるな。
「深谷サン、電子辞書は鞄の中にあるんじゃないですか?」
『うるせえ。つまり……あー……』
電話の向こうで深谷がため息をついた。
『桃瀬は、桃瀬なんだよ』
「その意味不明な言葉を考えるのに何秒かかった?」
『お前ホントうるせえ。電話かけたのこっち』
「はーい、言いたいこと言うのを待つから、どうぞ」
スマホを耳につけながらごろんと転がり、掛け布団にできた小さな毛玉を爪で掻く。
スマホから聞こえる呼吸音。ピコンピコン。なんでだろう、そんな小さな音さえオレの残機を増やす。今、三機増加。
「……深谷サン? 息してます?」
『してる……だから……姫は……大丈夫で』
ん、だいぶよく分からない。
『えっと……姫でも姫じゃなくても、桃瀬は桃瀬でいい……』
なんとなく、分かったような分からないような。でも、深谷が一生懸命励まそうとしてくれているのは分かる。
「うん、分かった。オレはオレでいい」
深谷が言ったことをそのまま言うと、小さく安堵の音がした。
『そういうこと……桃瀬が姫でなくても、俺は別に……』
電話の向こうで息ひとつ。
『……関係ない』
「あ、うん、お前がオレのことがどうでもいいのは分かってる」
『そんな言い方はしてねえ……』
いや、いつもどうでもよさげだったけど。言ってやろうかと思ったが、これはお礼の電話だと思い直す。
「いい意味で言ってんの! 姫でも姫じゃなくてもいいんだろ?」
『それは、そう』
また深谷の言葉を繰り返すと、深谷は納得したような声を出した。
語彙が逃げる深谷語を理解するのにはまだまだ時間がかかりそう。でも、なんとなく分かった。
深谷が真剣にこちらのことを考え、耳を傾け、話そうとしてくれた。そういうことだ。
学校の人にこんな打ち明け話をするの、初めてだ。なんか、くすぐったい。電話を切るタイミングが分からない。
「あ、そうだ。深谷、数学の宿題、何ページまで? オレ、メモしたノートを学校に忘れちゃって」
『ああ、それなら』
スマホの向こうでガサゴソ音がして、いつもの深谷の口調が戻ってきた。本当は覚えていた数字をメモしたふりをし、「サンキュ」と締める。
「よし、じゃあオレ宿題やるから」
『俺もやる』
「ん。また明日ー」
軽く言うと、低い声が耳元で鳴る。
『……喉、よく休めろよ』
「はいはい、王子様命令な!」
『命令形で言ってねえよ』
いや、それ、命令形。オレがふふっと笑ったら、スマホの向こうも空気を震わせた。トンとタップをして電話を切り、「はー!」と思いっきり息を吐く。
「うわ、深谷と電話しちゃったよ」
思わず口に出してしまう。通話を切った画面を見つめ、通話履歴に「フカヤ 20:54:28」の文字があるのを確認する。
現実だ。
じわじわと胸が温かくなってきて、ぎゅっとスマホを抱きしめた。鼓動がトントンと音を立てる。心臓よ、ステイ。
やばい。嬉しい。深谷は、保科たちのような友だちとは違う。教室でしゃべるわけじゃないし、部活でおしゃべりするわけじゃない。
でも、二人きりなら素で話せる特別な相手だ。姫じゃなくても、深谷の前なら本音をさらけ出せる気がする。
――姫でも姫じゃなくても、桃瀬は桃瀬でいい。
深谷の言葉を反芻して噛みしめる。
声が高くても低くても、オレはオレでいい。きっと、深谷が言っているのはそういうことだ。不器用な励ましが、胸を温めてくれる。胸の残機、また回復する。
勢いよく起き上がり、ベッドから立ち上がって伸びをする。
「よし、やるか!」
オレは鞄から数学の教科書とノートを取り出した。
翌日からも、深谷とオレは昨日の電話が嘘のようになにも話さなかった。強いて言えば、挨拶のおはようを言っただけ。
ジャージを着て、放課後の校舎の外周を剣道部で走る。
「声出していけー!」
「オーッス!」
部長の声にみんなが声をあげ、オレは笹原の隣を走る深谷の背中を見つめた。深谷は王子の仮面を被っているし、語彙が壊滅するから考えていることはよく分からない。でも、安心する相手だ。この背中を見続けられるなら、次の試合まで頑張れる。
学校に戻ってきて、水分補給した。秋の風が本格的だ。体育館に入って、ちょっとの温度差にほっと息をつく。
「桃ちゃん、タオルはどうした?」
その言葉に、首にかけていたタオルがないことに気づく。
「オレ、水道場に置いてきたかも。取ってくる」
体育館の外に出て、水道場のほうへ角を曲がろうとした。
「それにしても、桃瀬、声変わったな」
ひとりの先輩の声に足がぴたっと止まった。もうひとりが引きつるような笑いをする。
「桃瀬から姫が減ったら残念」
以前、ケトルが沸騰した先輩。でも、今回は沸騰しなかった。
前のオレなら残機がごっそり削られたかもしれない。でも、ちょっと胸が冷たくなっただけ。だって、声が男でも大丈夫って言ってくれるクラスメイトがいるから。桃瀬は桃瀬でいいって言ってくれる人がいるから。
オレは負けない。姫じゃなくても勝つ。
でも桃瀬は頑張ってるし――。答える先輩の声を聞きながら笑顔を作り、すぐに角を曲がって水道場に駆け寄った。
「タオルあった!」
先輩二人がオレの登場に少しだけ驚いた顔をする。オレは笑顔でこぶしを握った。
「忘れ物なんて、気が抜けてますよね! 来月、交流試合があるのに」
ぐっと改めて手を握る。
「オレ、中学のときにあの体育館でボロ負けしたんです。次は勝ちます!」
先輩に宣言すると、すぐに二人は笑顔になった。
「桃瀬、その前に十月考査だ」
「先輩たちは試験は楽勝ですか?」
「やべえから忠告してんの」
ははっと放課後の体育館裏に笑い声が広がる。三人で体育館に戻り、最後のミーティングを行う。
じゃあと帰るみんなを見送り、オレはひとりになった体育館で竹刀を握った。今日が試験前最後の活動日。桃瀬は、桃瀬でいい。だったら、桃瀬を鍛えなければ。
ダンッ。足を踏み込んで竹刀を振る。この竹刀が相手に届くように。姫だからなんて誤魔化しで悔しさを紛らわせないために。オレは全力でやらなきゃいけない。
キィ。体育館の重い扉が開く。顔を覗かせたのは制服の深谷だった。
「桃瀬か……音がすると思って戻ってみたら」
「自主練。試合、負けたくない」
すると深谷は近づいてきて、オレの竹刀を握る手首を掴んだ。その力が少しだけ強い。深谷の眉根がきゅっとなる。
「……無理は、禁物。足……」
じわっ。温かい手から熱が移る。一瞬心臓がドクッと揺れた。
「……傷めるから」
……お前が言うなら、そうか。
「分かった」と倉庫に竹刀を片づける。ジャージを脱いでボディーシートで首筋をぬぐうとぴやっと体が跳ねた。でも、深谷が握って止めた右手首に少し熱が残っている。左手でさすると、熱はスッと消えた。
今日の夕飯なにかな。そう思いながら更衣室を出ると、深谷がそこに立っていた。
「え? 深谷、なにしてんの?」
「は? 待ってただけだけど?」
「いや、なんで待つの」
「心配だろうが。……マネージャー、だし」
深谷がくるっと背を翻して先に出口へ向かう。
「足の裏とか痛くねえのかよ。駅まで自転車貸してやる」
へえ、王子は自転車通学か。感心しながら自転車置き場まで行く。
白い自転車はやっぱり無味無臭。「ほらよ」と鍵をカチャっと解除した自転車は、夕日を受けて少しだけ温かみがある気がした。
「サンキュー」
前のカゴに鞄を放り、スタンドを片足で蹴る。そして跨がろうとして――
「深谷! 地面に足が届かない!!」
は? これ、同じ人間の足の長さかよ?
オレがびっくりするほど自転車を傾けて足をつけると、ぶはっと噴き出す声がした。見上げると、深谷が腹を抱えて爆笑している。
「ははっ! お前、足短ッ」
「うっさい! 背が小さきゃ足も短いでしょ!」
深谷の笑いが止まらない。オレと目が合って、ふっと後ろを向いて肩を震わせる。
「……いや、わり。でも……」
耳たぶを赤くした深谷が咳払いし、また口を開けて笑う。
「あっはっは! やっば、ツボった! これ、一週間くらい笑える!」
「笑うな!」
けらけら笑う深谷は初めて見る顔をしていた。王子じゃなくて、ただただ普通の、同い年の少年。――こいつ、笑うとこんな明るい顔をするんだ。
深谷が目尻を拭ってくくっと笑う。
「桃瀬、笑わせる天才かよ」
「うっさい! サドル下げて!」
「あーはいはい」
「返事、雑!」
肩を震わせながら深谷がサドルを下げ、「早く帰れ」と校門を閉める先生に見送られて帰途につく。
「桃瀬」
きゅっと口端をあげた深谷が走り出した。その背中が部活のときより軽い気がする。
「走りたい気分」
「じゃあ並走!」
夕日をめがけてペダルをぐっと踏む。少しだけ眩しい。十月の放課後はオレンジ色をしている。
変わったのは声じゃない。多分、オレの明日。

