一瞬、空気が止まる。
話し声も、ノートをめくる音も、スマホから流れ出る音楽も、ぴたっと止まる。体育館の真ん中にぽつんと取り残された感じ。
こめかみがドクッドクッと音を立てる。ダメ、なんか言って。早くなんか言って。朝からガッガッガッガッて残機が削られる。今日一日分足りなくなる。
「……桃ちゃんが声変わりしたら」
保科の言葉にぎくっとする。だが、保科は笑顔でぐっと親指を立てた。
「男前姫じゃん! みんな桃ちゃんの中身が好きだから姫なんだし」
ふっと場の緊張が解けたように周りがわっと盛り上がった。
「めっちゃ分かる。桃ちゃんは男前」
「声変わり、おめでと!」
「『オレ』の似合うかっこいい姫へのジョブチェンジ、いいじゃん。なあ?」
保科の言葉に周りが「そうそう」と同意する。
胸にぶわあああっと温かい風がなだれ込んで、全身の力が抜けそうになる。
なんだよ、このクラス、優しすぎるだろ。オレ、馬鹿だった。オレがこのクラスにいるからみんな仲が良いとか思って。みんなが優しかったから、姫でいられたし、仲が良かったんだ。
胸が詰まって言葉にならない。でも、ここで泣いたら男前姫ではない。ぐっと堪え、椅子を引いて明るい声を出す。
「オレ、変な風邪だなって思っちゃった。声変わりってこういう感じなんだ」
「俺は朝起きたら声が変わってた。びっくりした」
みんなで昔の話をしていると、後ろからパタパタと上履きの音が近づいてきた。後ろの席にどさっと鞄が置かれるのが分かる。深谷だ。
「深谷、はよ」
保科の声にみんなも続く。振り返る前から視線を感じる。でも、冷たくない。痛くもない。
オレも思い切って振り返り、「やほ」と手をあげた。ブレザーにネクタイの深谷は誰となく手をあげて挨拶を返し、すとんと席に座った。すぐに鞄を開けて教科書などを取り出す。
「でさあ、俺が声低くなったとき」
みんなが話を続け、それらに相槌を打つ。
オレがしゃべっても、みんな普通に笑ってる。これまでと違う声なのに、これまでと同じ風景。
――もしかして、かわいい姫じゃなくても生きていける?
背中に温かさを感じる。たとえるなら、秋晴れの昼下がり。イチョウの葉が落ちたところにどんぐりが転がっているような、大切にものを追いかけたくなるような雰囲気。
深谷の目線はそんな温度をしている。
今、ここで振り返って、背中を押してくれてありがとうって言いたい。でも、深谷はそれを望んでいない。オレが姫を大切にしていたように、深谷にも王子が必要だから。
その日は深谷と二人きりになれるチャンスはなかった。帰宅して夕食後、ベッドの上にばったり倒れる。声変わり宣言で、今日の残機ほぼ空っぽ。もうラスト1、真っ赤になって点滅中。
天井を見上げると、眩しい明かりに少し目を細めた。髪のピンを外す。昨日、帰り道に買ったシックな黒のピン。花のピンは卒業して、次の自分への期待を込めて買った。
「……よくやった、オレ。今日、頑張ったよ」
小さな声で自分を褒めてみる。でも、声変わりが始まったばかりの声は掠れている。自分の声とは思えない。
枕元に置いてあったスマホを掴み、ごろんと横に転がる。ロックを解除すると、すぐにメッセージを開いた。「フカヤ」の真っ白な無味無臭のアイコン。
もしかしたら、深谷にとってオレを慰めたことは日常の些末なことかもしれない。ここで「ありがとう」なんて送っても、「なにが?」なんて言うのかもしれない。でも、深谷がオレに大丈夫だって言わなきゃ、いつまでたっても教室でしゃべれなかったかもしれない。
深谷は、友だちじゃなくて後ろの席の人かもしれない。でも、唯一本音を打ち明けられた相手だ。だから、ちゃんとありがとうは伝えたい。
決心して、メッセージをタップした。「ありがとう」たった五文字。でも、オレらしくないなと削除する。
「姫、声変わりしたら男前姫にジョブチェンジすることになりました」と打った。……ラノベのタイトルか。
何回も打ち直し、「声変わりしても姫でいいらしい」に落ち着いた。はあと息をつき、送信ボタンのところに指を乗せようとする。一瞬手が止まった。
これ、押して大丈夫か? うざいとか思われないか? また存在がうるさいとか言われるかもしれないな?
スマホの時計を見て突っ伏する。メッセージを送ろうと思い立ってから、もう三十分。たった一言のメッセージが送れないとは、男前姫、情けない。がばっと顔をあげ、打ち込んだメッセージを睨む。
今日の残機、ラスト1。でも、深谷に使うならゼロになっても構わない。
ポン。軽いタップでぽこんと表示されるメッセージ。ゴシック体の黒い文字はあっさりとしていてあっけない。すぐに既読の文字がついた。ベッドに寝そべってじっと画面を見つめる。
なんて返ってくんのかな。オレの予想。Aパターン、どういう意味っていう疑問形。Bパターン、うるさいっていう日常系。Cパターン、よかったなっていう労い系。さあ、どれだ。
残機、カチカチカチ。オレの鼓動に合わせて赤信号で点滅する。既読の文字を見つめ続けて返事を待ち続け――十分。えっ、もしかして既読スルーのDパターン!?
思わず起き上がった。はあ? 既読スルーは重罪だぞ。返事は全人類の義務だ早く返信しろ。
スマホを睨むと、手の中のスマホが振動し始めた。流れるメロディーと「フカヤ」のアイコンが着信を知らせている。
電話で返事のEパターンとか、お前は読めない男だな!! 残機がひとつ減った! マイナス!
「もしもし!」
半ばやけくそで出たら、スマホの向こうが小さく「うるせ……」と呟いた。
話し声も、ノートをめくる音も、スマホから流れ出る音楽も、ぴたっと止まる。体育館の真ん中にぽつんと取り残された感じ。
こめかみがドクッドクッと音を立てる。ダメ、なんか言って。早くなんか言って。朝からガッガッガッガッて残機が削られる。今日一日分足りなくなる。
「……桃ちゃんが声変わりしたら」
保科の言葉にぎくっとする。だが、保科は笑顔でぐっと親指を立てた。
「男前姫じゃん! みんな桃ちゃんの中身が好きだから姫なんだし」
ふっと場の緊張が解けたように周りがわっと盛り上がった。
「めっちゃ分かる。桃ちゃんは男前」
「声変わり、おめでと!」
「『オレ』の似合うかっこいい姫へのジョブチェンジ、いいじゃん。なあ?」
保科の言葉に周りが「そうそう」と同意する。
胸にぶわあああっと温かい風がなだれ込んで、全身の力が抜けそうになる。
なんだよ、このクラス、優しすぎるだろ。オレ、馬鹿だった。オレがこのクラスにいるからみんな仲が良いとか思って。みんなが優しかったから、姫でいられたし、仲が良かったんだ。
胸が詰まって言葉にならない。でも、ここで泣いたら男前姫ではない。ぐっと堪え、椅子を引いて明るい声を出す。
「オレ、変な風邪だなって思っちゃった。声変わりってこういう感じなんだ」
「俺は朝起きたら声が変わってた。びっくりした」
みんなで昔の話をしていると、後ろからパタパタと上履きの音が近づいてきた。後ろの席にどさっと鞄が置かれるのが分かる。深谷だ。
「深谷、はよ」
保科の声にみんなも続く。振り返る前から視線を感じる。でも、冷たくない。痛くもない。
オレも思い切って振り返り、「やほ」と手をあげた。ブレザーにネクタイの深谷は誰となく手をあげて挨拶を返し、すとんと席に座った。すぐに鞄を開けて教科書などを取り出す。
「でさあ、俺が声低くなったとき」
みんなが話を続け、それらに相槌を打つ。
オレがしゃべっても、みんな普通に笑ってる。これまでと違う声なのに、これまでと同じ風景。
――もしかして、かわいい姫じゃなくても生きていける?
背中に温かさを感じる。たとえるなら、秋晴れの昼下がり。イチョウの葉が落ちたところにどんぐりが転がっているような、大切にものを追いかけたくなるような雰囲気。
深谷の目線はそんな温度をしている。
今、ここで振り返って、背中を押してくれてありがとうって言いたい。でも、深谷はそれを望んでいない。オレが姫を大切にしていたように、深谷にも王子が必要だから。
その日は深谷と二人きりになれるチャンスはなかった。帰宅して夕食後、ベッドの上にばったり倒れる。声変わり宣言で、今日の残機ほぼ空っぽ。もうラスト1、真っ赤になって点滅中。
天井を見上げると、眩しい明かりに少し目を細めた。髪のピンを外す。昨日、帰り道に買ったシックな黒のピン。花のピンは卒業して、次の自分への期待を込めて買った。
「……よくやった、オレ。今日、頑張ったよ」
小さな声で自分を褒めてみる。でも、声変わりが始まったばかりの声は掠れている。自分の声とは思えない。
枕元に置いてあったスマホを掴み、ごろんと横に転がる。ロックを解除すると、すぐにメッセージを開いた。「フカヤ」の真っ白な無味無臭のアイコン。
もしかしたら、深谷にとってオレを慰めたことは日常の些末なことかもしれない。ここで「ありがとう」なんて送っても、「なにが?」なんて言うのかもしれない。でも、深谷がオレに大丈夫だって言わなきゃ、いつまでたっても教室でしゃべれなかったかもしれない。
深谷は、友だちじゃなくて後ろの席の人かもしれない。でも、唯一本音を打ち明けられた相手だ。だから、ちゃんとありがとうは伝えたい。
決心して、メッセージをタップした。「ありがとう」たった五文字。でも、オレらしくないなと削除する。
「姫、声変わりしたら男前姫にジョブチェンジすることになりました」と打った。……ラノベのタイトルか。
何回も打ち直し、「声変わりしても姫でいいらしい」に落ち着いた。はあと息をつき、送信ボタンのところに指を乗せようとする。一瞬手が止まった。
これ、押して大丈夫か? うざいとか思われないか? また存在がうるさいとか言われるかもしれないな?
スマホの時計を見て突っ伏する。メッセージを送ろうと思い立ってから、もう三十分。たった一言のメッセージが送れないとは、男前姫、情けない。がばっと顔をあげ、打ち込んだメッセージを睨む。
今日の残機、ラスト1。でも、深谷に使うならゼロになっても構わない。
ポン。軽いタップでぽこんと表示されるメッセージ。ゴシック体の黒い文字はあっさりとしていてあっけない。すぐに既読の文字がついた。ベッドに寝そべってじっと画面を見つめる。
なんて返ってくんのかな。オレの予想。Aパターン、どういう意味っていう疑問形。Bパターン、うるさいっていう日常系。Cパターン、よかったなっていう労い系。さあ、どれだ。
残機、カチカチカチ。オレの鼓動に合わせて赤信号で点滅する。既読の文字を見つめ続けて返事を待ち続け――十分。えっ、もしかして既読スルーのDパターン!?
思わず起き上がった。はあ? 既読スルーは重罪だぞ。返事は全人類の義務だ早く返信しろ。
スマホを睨むと、手の中のスマホが振動し始めた。流れるメロディーと「フカヤ」のアイコンが着信を知らせている。
電話で返事のEパターンとか、お前は読めない男だな!! 残機がひとつ減った! マイナス!
「もしもし!」
半ばやけくそで出たら、スマホの向こうが小さく「うるせ……」と呟いた。

