姫ポジ男子だって恋したい

 深谷が元の位置に戻る。オレは鼻を啜り、弁当箱を開けた。男子用の大きな弁当箱。箸を握り、がつがつと胃に押し込む。涙が引っ込むかと思ったのに、また出てきた。鼻を啜りながら一生懸命食べる。
 食べきってペットボトルのお茶をごくごくと飲む。深谷はとっくに食べ終えて、手を膝に置いてまっすぐ前を見ていた。こういうときの姿勢、剣道経験者が出る。オレは弁当を横に置き、膝を抱えた。
「深谷、王子はいいな。賞味期限がなくてさ。姫はダメだ。リレーみたいに、人から人へと渡っていくバトンなんだと思う。たとえば、来年入ってくる一年生とかさ」
 深谷は特に答えなかった。二人の間を秋の風がただ吹き抜けていく。
「オレ、姫じゃなくなったらハブられたりすんのかな。姫をお役御免(やくごめん)なんて、ただの役立たず。クラスになんも貢献できないし。スマホ見て、すっごい事実に気づいちゃったよ。オレ、誰にも悩みを言えないんだって。それ、友だちじゃないな。オレ、今までみんなを(だま)してたんだよ」
 すると深谷が「姫は」とぽつりと言った。ぴたっと言葉が止まる。一、二、三秒。また深谷がしゃべる。
「姫は、貢献してない」
 は? こめかみがピキッと音を立てたら、深谷は更に続けた。
「桃瀬が貢献してて……姫じゃない……そうだけど……違うんだよ」
 出た。深谷の語彙力崩壊現場。語彙のない人間が必死に言葉を掘り起こしている。
「姫でなくてもいい……姫でなくても大丈夫で……」
「その理由が知りたいんだけど」
 突っ込むと、深谷はイラッとしたようにこちらを睨んだ。
「話してる最中にうるせえ」
「深谷、長考下手すぎ」
「黙れ」
 オレがため息をつくと、深谷はまた考え始める。
「お前に大事なのは……見た目と声……とは限らなくて……見た目と声も、桃瀬……だけど……」
 ぼそぼそとした低い声が屋上にぽつりぽつりと落ちる。
「頑張ってたのは姫じゃない……し、みんな分かってる……分かってるから大丈夫なんだよ」
「……最後、雑にまとめた」
「うるせえ。……俺だって見てたから分かるんだよ」
 深谷がため息をつき、頭を掻く。
 ……多分。泣かれると困るこいつは、すごく不器用で、慰めようとすると語彙が消失するんだ。でも、その不器用さが今は心を優しく撫でてくれた気がする。
 深谷がため息をつき、太ももに肘をつく。
「とにかく、桃瀬は明日普通に登校すればいい。教室でもオレって言ってみろ」
 言われて気づく。いつの間にか、深谷には「僕」を使わず「オレ」で話していた。
「……この声で言うの? 一瞬で姫が崩壊するんだけど」
「それでいい」
 深谷は息をついた。
「分かる」
「なにが」
「分かるんだよ」
「だからなにが」
「自分で考えろよ」
「しゃべるのを放棄するな」
「考えるのを放棄すんなよ」
 いや、明らかにそっちが匙投げた雰囲気だけどな?
 だが、深谷に愚痴って、少しだけ気持ちが軽くなった。心の残機、二つくらい復活した。
 空が明るい。雲が白い。風は爽やかだ。目を瞑って息を吸い込む。
 姫は――もう姫も終わりかけてるけど、午後と部活、いつも通り頑張ります。
「そういや、深谷ってもう部活の走り込みには参加しないの?」
 オレは立ち上がってフェンスに掴まった。縁をのぼって向こうを指さす。
「あそこ。神社の階段ダッシュ、楽しいよ。頂上に着くと気分爽快。マネージャーとかコーチっていつも下で待ち構えてるし、上まで行ったことないじゃん」
 すると深谷が横に来た。オレの指さす先を見る。住宅街から少し外れた丘の斜面。頂上に(あか)の鳥居と(やしろ)を構える神社の急階段は、剣道部の走り込みの中でも一番きつい。
「……体育祭が終わったのに、マネージャーが走ってたら変だろ」
「そう? 部員なんだから走ったっていいじゃん」
「体を動かすのは、嫌いじゃない。……やりたいって、ちょっと思う」
「じゃあやれば? 部長に『来年のために走りたいです』って言えばいい」
 すると深谷がゆっくりとこちらを見てきた。オレも見返す。
 縁に乗ったオレと、普通に立った深谷。視線が同じ高さでぴたりと合う。
 深谷の低い声がひっそり言う。
「お前、簡単に言う」
「頭足りないみたいな言い方やめて」
 つい言い返すと、ふっと空気のこすれる音がした。目元を和らげた深谷の口元が動く。
「簡単に言うの……いいと思う」
――あ、笑ってる。
 少しあがった口角の深谷が前髪を風になびかせる。黒い瞳がきらきらして、長い睫毛の下で目尻を下げて笑っている。あれ? また残機が回復した。
 だが、瞬きをひとつすると深谷はいつもの表情に戻った。二人で黙って秋の風景を眺める。
 キーンコーンカーンコーン。遠くで予鈴が鳴る。
「……教室に戻ろ」
 オレの言葉に深谷も「だな」と相槌を打つ。空を見上げる。真っ青な空は、体育祭のときと同じ爽やかな色をしていた。


 翌朝、昇降口で胸がどくどく鳴る音を聞きながら、ローファーから上履きに履き替えた。教室までの道がぐんと伸びて、階段が長くなる。廊下がいつもよりぺったりして、足があげにくい。ブレザーがいつもより重くて、心臓が喉までせり上がる。
 閉められた教室のドアまで来ると、もう息があがっていた。必死に深呼吸する。冷たい指先をドアにかけ、ぐっと眉に力を入れてガラッと開けた。
「おはよー!」
 久しぶりに大きな声を教室へ飛ばす。ちょっと掠れて低くなった、姫でなくなった声。だけど、保科を始めとした数人が「おはよ!」と元気に返してくれた。
「今日は小テストなくてラッキー!」
 笑って席に着くと、保科があれという顔をする。
「桃ちゃん、風邪が治ってないのか? 声変だな」
 やばい、全身の血が逆流する。落ち着け、落ち着け。ステイだ、心臓。
 オレは震えそうになる手を胸に当てて宣言した。
「ぼ……オレ、風邪じゃなくて声変わりでした! みんなに追いついた! 身長も追いつく予感がする!」