姫ポジ男子だって恋したい

 全ての競技が終了し、結果、三年生が優勝した。下級生で拍手を送り、クラスに戻ると教室内はいつもより大盛りの柑橘系の香りに包まれた。ボディーシートは体育祭後が本番戦だ。
 ふふっと笑いながら廊下に出る。ロッカーに制汗スプレーなどをしまっていると、深谷が同じように廊下へ出てきた。周りに人がいないのを確認し、「部活対抗リレー、すごかった!」と笑顔で話しかけた。
「見てて感動しちゃった! 深谷、袴似合うな」
 そして声を落とす。
「本当は剣道やりたいんでしょ? 垂、自分のを持ってきてたし。その足ってよくならないの? マネージャーとかコーチじゃなくてさ、もう一回やろうよ」
 深谷がぴたりと手を止めた。おやと見上げると、口元がきゅっとあがり、ストレートの前髪から覗く眉がぎゅっとしわを作っていた。こちらを見た薄いくちびるが言う。
「安い同情」
「……え?」
 切れ味の鋭い語気にどっと心臓が揺れた。バンッ。深谷が乱暴にロッカーを閉め、そこに手をついた。圧が強くて言葉が出ない。黒い瞳がオレを突き刺す。
 さっと血の気が引いて、心も急速に冷えていく。深谷がこちらに向き直り、こぶしをぎゅっと握った。いつになく無表情で顔が冷たい。
――深谷が怒ってる。
「深谷、えっと」
 思いがけないセリフに動揺して言葉が出てこない。自分の手を手で握り込む。すると、深谷がぼそっと言った。
「俺は……に、やめてない」
「え?」
「俺は、適当に、やめてない。安直に、やめたりしてない。軽い、気持ちじゃない」
 冷気を吐き出すような強ばりにオレの体が凍り付いた。
「……なにも知らないくせに、もう一回? 桃瀬」
 深谷の眉間にぎゅっとしわが寄った。
「お前、タチが悪い」
 深谷の凍てついた言葉がオレの顔を引っぱたいた。
 前と同じ余計なお節介をしたことに気づく。オレの悪いくせ。姫のノリで相手に踏み込みすぎる。
 言葉が出てこないオレを見て深谷が一瞬くちびるを噛む。
「……言いすぎた」
 深谷が目を伏せて教室に戻っていく。教室から楽しそうな声が漏れてくるがらんとした廊下。
 心の残機が氷のように溶けて小さくなっていく。かさっ。体育祭の空を飛んでいたオレのテンションが、紙飛行機みたいに床に落ちて転がった。
 その夜、スマホを開けるとクラスのグループチャットが盛り上がっていた。どの競技が楽しかったとか、誰々の活躍がすごかったとか。初の体育祭に興奮した賑やかなトークだ。
『部活対抗リレー、こんなに部活あるんだって思った』
『ラグビー部の走りは迫力があった』
 ぽこんぽこんとクラスメイトのアイコンから吹き出しで語られる学祭の賑わい。オレはそれをじっと見つめ、そっと閉じた。そしてクラスのグループ一覧から深谷を探す。
 なにも設定されていない無味無臭のアイコンに「フカヤ」のカタカナ。雪すぎる真っ白さ。見た目がすごく冷たい。
 ごめんって謝りたい。でも、深谷の悩みを知らないのに、ただ謝っただけじゃ意味がないのかもしれない。文化祭で深谷の本音が見えたと思ったのに、オレ、深谷のこと、まだなんも知らない。
 階下から「ナオー!」と母親の声がする。
「お風呂沸いたわよ!」
 はーいと返事をしてから、ベッドに転がってぼすっと枕に顔をうずめた。
 深谷に姫は通用しない。だから、オレは深谷になにもできない。
「姫は無力です……」
 呟いて、いがいがする喉を押さえる。
 心の残機は、一日分きれいにゼロ。全部使い切りました。桃瀬景直、ゲームオーバー。コンティニューは……風呂入ってから考える。
 はあとため息をつき、風呂に入るため立ち上がった。


 代休明け、一気に秋が進んで久しぶりにブレザーを着て登校した。
「おはよー!」
 教室に入ると、やはりブレザーやセーターなどを着ているクラスメイトもいる。
「桃ちゃんおはよ! 声、平気?」
「すげえひっくり返ってる」
 昇降口でのど飴をかみ砕いた口内は清涼感のある冷たさで、オレは掠れた声で笑った。
「学祭で声を出し過ぎた。朝ちょっと寒かったから風邪かも」
「気をつけろよ。すぐ十月考査になるぞ」
 ひとりの言葉に別の生徒が頭を抱える。
「学祭後ってつらっ。今日も英語は小テストだし」
 みんながわっと騒ぎ出す。オレは自分の席に鞄を置き、まだ来ていない後ろの席を見た。
――結局、深谷にメッセージは送らなかった。
 タチが悪いの言葉が心の底に沈殿して、なんて言えばいいか分からない。そもそも深谷が気軽に連絡していい存在なのかも怪しい。
 同じクラスの、前の席と後ろの席の人。
 オレと深谷はそんな関係。近そうで、そうでもない。姫としては一番難しい距離感の人。
 なんて、姫が暗い顔をしてたらみんなも嫌だろうし、今日も一日頑張ります。
 気合いを入れ直し、ブレザーからキャメル色のカーディガンに着替える。
 そこへ深谷が教室に現れた。深谷も今日はブレザーにネクタイを締めている。いつもより三割増しの王子感でお出ましだ。
 残機がガガッと減った。無表情で分からないけど、きっとオレの言葉で傷ついている。ここでオレから話しかけないとダメな気がする。深谷は初めて本音を話せた人。近そうでそうでもない、それでもいいから元の関係に戻りたい。
「はよ」
 思い切って言うと、思いがけず深谷はおやという顔をした。口に目線が送られてくるのに気づき、頭を()く。
「声、まだ治んなくて。あの……この間はごめん」
 すると深谷は頷くように長い睫毛の目を伏せて、鞄を横に駆けて着席した。
 ぴんと伸びた背筋はやはり剣道経験者。廊下での言葉を思い出して胸がぎゅっとする。深谷は無言で教科書やノートを整理し始めた。
 ごめん。オレの言葉がどこまで届いたか分からない。でも、言えてよかった。
 その日の昼休みには、クラスメイトから「これ効くよ!」と購買で買ったというのど飴を何個ももらってしまった。部活で声を張り上げていたら、笹原が「一個ね」と一粒くれた。部長には「これ今日買ったやつだから」と袋ごと押しつけられた。
 部長とハイタッチしたい。はちみつ生姜味、オレのイチ押しの味。
 学祭が終われば、十月考査、そのあとは十一月末に市立体育館で他校との交流試合。
 中学二年のとき、号泣した大会もその体育館だった。今回は個人戦で出る。対戦相手はまだ分からないけど、リベンジマッチの気分だ。
 秋の日はつるべ落としで、帰り道は一層冷え込む。最寄り駅を下りると、オレは鞄を背負った。ローファーだけど、今日もオレと地球の相性はいい。家まで走って帰った。
 ところが、喉は治らなかった。
 翌日も、その翌日も。
 熱はない。体も痛くない。生姜湯も飲んで首元を温めて寝たのに、喉に小骨が刺さったような違和感がある。
 週末、病院に行こうかな。家の洗面所で花のピンを置き、鏡を見ながら髪にブラシを通す。
 少し背が伸びたかな? 一六〇センチにはなりたい。でも、成長痛とか感じたことないし。
「兄ちゃん」
 後ろのドアから弟が顔を出した。
「風呂入りたいんだけど」
「あ、ごめん。すぐ出る」
 ピンを手にして振り返る。目線をあげて弟を見ると、弟の喉仏が上下した。ふと、手が止まる。
「兄ちゃん?」
「……あ」
 声がひくりと震えた。自分の喉を押さえる。指先に当たる皮膚の下の違和感。風邪とは違う、この違和感の正体は。
 ――オレ、声変わりしてる。
 鏡を見ると、信じられない顔をしたオレがこちらを見ていた。