家を出ると、眼前に赤茶けた山脈が広がる。山頂に雪は積もっていない。ここ、ネバーランドは常夏の島で、一年中半袖で過ごすことができる。
「パゴおじさんだっ!」
山の麓に、荷車を引いた男が見えた。
6歳のミロは待ちきれず、男に向かって駆け出した。他にも四方から少年少女らが駆けてきた。荷車を引いた男……パゴがやってくるのは週に一度で、この島の子どもたちは皆、彼が運んでくる物資を心待ちにしている。
「おお、みんな元気だな」
明るい声でパゴが言う。見た目は顎鬚を生やした大男だが、物知りで気さくな彼はみんなの人気者だ。
「ミロ、北斎、アトム、綾波レイだな。ちょっと待ってな」
パゴは荷車の背後に回ると、積み上げられたダンボールから、集まった子供達の分を探し出した。
「北斎、はいよ」
呼ばれた少年が、パゴからダンボールを受け取る。
「おお、えらくでっかい荷物が来てるぞ。はい、アトム」
「やった!」
小柄なアトムがダンボールを受け取ると、上半身がすっぽり隠れてしまった。
「いいなあアトム」
北斎が恨めしそうに言う。彼に届いたのは片手サイズのダンボールだ。
「ええっと……ミロ、あった。はいよ」
やっと自分の番だ。ミロは飛びつくようにしてダンボールを受け取った。
おお、と思う。ずしりと重たいのだ。一体、何が入っているんだろうとワクワクした。
「おっと……すまん、綾波レイ。きみの分はないみたいだ……」
「え……」
少女が戸惑いの声を出す。
「残念だが」
「そんな……」
綾波レイは肩を落とした。
「綾波レイ……僕のをあげるよ。何が入っているかは、わからないけど」
ミロは気の毒に思い、綾波レイに言った。
「俺のもやるよっ! こんなにちっさいけど」
と、北斎が照れくさそうに言う。
「僕もっ!」
アトムは言うなり、その場にダンボールをどっかと置いた。勢いよくガムテープを引き剥がし、蓋を開ける。
みんなで中を覗き込む。スナック菓子がたくさん詰まっていた。
「わあっ!」
「すごーいっ!」
4人は目を輝かせた。
「みんなで食べよう」
アトムがはにかむ。
北斎もダンボール箱を開けた。「なんだこれ」と怪訝な顔で、中から曲がった木を取り出す。
「それはブーメランだな」
パゴが言った。
「ブーメラン?」
「貸してみ」
パゴはブーメランを受け取ると、山に向かってヒョイっと放った。
「あっ!」
北斎が慌てて追いかける。けれど勢いよく放たれたブーメランは、空中で向きを変え、パゴの元へと戻ってきた。
「す、すごーい!」
「どうやってやったの!?」
ブーメランが方向転換した場所で、北斎はぽつんと立ち尽くしている。
パゴはもう一度、山に向かってブーメランをヒョイっと放った。
今度はミロもブーメランを追って駆け出した。つられてアトムと綾波レイも。
緑が繁る広大な大地を、子供たちがブーメランを見上げながら駆けていく。
ブーメランはさっきと同じように向きを変えた。なんて不思議な動きだろう。ミロは「わあっ」と声を上げる。くるっと向きを変え、パゴの元へと戻るブーメランを追いかけた。
パゴの手に、ブーメランが舞い戻る。
「俺にもやらせてっ!」
と北斎。
「地面と平行にして持つんだ。そう。そんで、勢いよく投げるっ」
けれど北斎の手から放たれたブーメランは、高く上がったものの、そのまま地面に落下した。
「練習あるのみ。コツを掴めばうまくなるさ」
パゴは荷車の前に回ると、持ち手を取った。「じゃあな」と言って、去っていく。
「僕にもやらせてっ!」
アトムが言う。北斎とアトムがブーメランで遊ぶ中、ミロはその場に座って、ダンボールを開封した。
入っていたのは、数冊の本と、瓶詰めのジャムと、新しい服と靴だった。
一番興味を惹かれたのは本だ。見るのは初めてではないけれど、自分に届いたのは初めてで、ミロの胸は高鳴った。でもまだ文字は読めない。挿絵がたくさんあったら良いなと思いながら、手に取る。
表紙には、ドクロのマークと、「ONE PIECE」の文字。
「すごいっ! 面白そうっ!」
横から見ていた綾波レイがはしゃいだ声を出す。
けれどミロの耳には入らない。その文字、そして麦わら帽子を被ったそのキャラクターを見た瞬間、ミロは前世の記憶を思い出したのだった。
これは……とミロは戦慄した。
自分はこのキャラクターを知っている。モンキー・D・ルフィ。少年ジャンプの人気漫画、ワンピースの主人公だ。
漫画を持つ指が小刻みに震えた。6歳の指は白くて小さい。けれど自分には、勘解由理人として過ごした15年間の記憶がある。
ここネバーランドで生まれる前、ミロは勘解由理人という日本人だった。
勘解由家は東京の一等地に豪邸を構える資産家で、理人は3人兄弟の長男だった。仲のいい幼馴染がいて、学校には気になる女の子もいた。
喉元に突きつけられた刃の感触をまざまざと思い出し、理人は喉に手を当てた。
「ミロ?」
綾波レイが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
最後に見たものは、自分の首から勢いよく噴き出した血飛沫だった。視界が赤く染まっていくなか、自分は死んだ。殺されたのだ。
でも、誰に?
理人は思考を巡らせた。けれど思い出されるのは、幼馴染の西園寺雪近とスマホゲームに興じた放課後の時間だ。
スマホ画面に表示されているのは、美しい風景と、可愛らしい少年少女。
『理人、お前何送った?』
スマホ画面に視線を落としながら、雪近が聞いた。
ふたりがハマっていたのはいわゆる育成ゲームだった。子供のオーナーとなり、服や食料などのアイテムを送ったり、家を建てたりして、子供を育成するのだ。
「ブーメラン……」
理人は、記憶の中の自分に倣うようにして呟いた。けれど『ミロ』の口から放たれたその声は幼く、そして恐怖に震えている。
理人は気づいてしまった。ハッと顔を上げ、豊かな大地と、山脈を見渡す。
スマホ画面に表示されていた景色と、全く同じだ。額から、ツウっと冷たい汗が垂れた。
『ブーメラン? そんなもんが役に立つのか?』
記憶の中で、雪近が笑う。
スマホ画面の中では、ダンボールを開封した少女が、ブーメランを見て喜んでいた。その少女こそ、理人が育成中のキャラクターだ。西洋風の容姿も、性別も、理人が設定した。
『そういうお前は、またスナック菓子か?』
記憶の中の理人が問えば、『最強の大男に育て上げるのさ』と雪近が答える。
『肥えるだけじゃ、戦いには向かないだろ』
『何を言う。強靭な肉体こそが最大の武器じゃないか』
『お前の子供と戦わせるのが楽しみだよ』
小さな体の内側で、心臓がバクバクと波打った。
こんなことがあり得るのだろうか。理人は胸に手を当てた。鼓動がてのひらに伝わってくる。けれどそれだっておかしいではないか。
だって、ここは……
「わあっ、すごいっ! 本がたくさんっ!」
ブーメランに飽きたのだろう。アトムと北斎がやってきた。
国籍不明の彼らの名前を、おかしいと思ったことは一度もない。
けれど前世の記憶を取り戻した理人には、違和感だらけの世界とわかる。
違和感の原因までも、わかってしまう。
ここはゲームの世界。自分たちの名前は、現実世界のオーナーが設定したものだ。
「これ、文字が読めなくても面白いっ!」
漫画を開きながら、北斎が興奮気味に言う。
「ミロ? 具合、悪いの?」
綾波レイの言葉に、理人はギョッと彼女を見やった。目鼻立ちの整った可愛らしいこの容姿も、現実世界のオーナーが設定したのだろう。
なら、自分は。理人は己の頬に手を当てた。鼻を撫で、反対側の頬へと手を滑らせる。
亜麻色の髪も、ツンと上向いた鼻も、前世の自分の姿からは程遠く、日本人離れしている。
『へえ、あんたたちもやってるんだ?』
放課後の記憶が蘇る。教室に入ってきた先輩は、理人のスマホ画面を見るなり言った。
一つ上の彼女は、密かに理人が恋心を寄せる相手だった。サラサラの長い黒髪に、抜けるような白い肌。切長の目はいかにも気が強そうで、その見た目通り、ズバッと切り捨てるような物言いをするから、友達は少ないようだったが、そういうところも含めて、理人は憧れに近い好意を抱いていた。
『殺人鬼育成ゲーム』
先輩の声が、ぐわんと頭の中に広がった。
『なんすかその物騒な名前』
雪近が笑う。理人は確かにその通りだと思い、苦笑した。
『だってそうでしょ? 一体何が面白いわけ? せっせと課金して育て上げた子供を殺し合わせるなんて』
『面白いですよー』
雪近は『なあ?』と理人に同意を求めた。
俺に振るな、と思いながら、理人は『先輩もやってみたらどうですか』と言った。
『課金ありきのゲームはやらないって決めてるんだよ』
『じゃあダメだ。立派な殺人鬼には育たない』
雪近が肩をすくめて言った。
『悪趣味』
『人気ゲームですよ』
『何がいいのやら』
『課金して、大事に育て上げたキャラクラーは自分の分身のようなものです。殺された時
は心が痛むし、逆に敵を倒したら罪悪感をはらんだ快感を覚える……このゲームをやっていると、いろんな感情が芽生えるんですよ』
雪近の答えに、理人は胸の中で同意した。
このゲームでしか味わえない感情がある。誰かが育て上げたキャラクターを自分のキャラクターが殺せば背徳感を覚えるし、自分の分身とも言えるキャラクターが死ねば心にポッカリと穴が開く。そして今度こそ……とムキになる。そういう激しい感情の変化を求めて、自分はこのゲームに興じているのだ。
『不健全。興奮したいならスポーツでもやればいい。それか、恋でもしたら?』
先輩の言葉に、理人の頬がジワリと赤らむ。
理人の恋心を知る雪近は、ククッと肩を揺すった。
『恋はしてるよなあ?』
と、意地悪なことを言う。
『ちょ、バカっ!』
『え、好きな人いるの? 誰?』
『い、いませんよっ!』
先輩が、理人のスマホ画面を覗き込んできた。香水でもつけているのか、甘い香りがした。
『もしかしてこのキャラクター、好きな子をイメージして作ったの?』
『違いますって……それこそ悪趣味じゃないですか……』
『じゃあなんで女のキャラクターなのよ』
『それは……なんとなく、です』
深い意味はない。何度もやっていれば性別を変えたくもなる。けれど先輩はそれも悪趣味と思ったのか、『ふーん』と冷ややかな声で言った。
ふたりがハマっている『サロゲートアイランド』は、子供の育成がメインだが、最終的には子供同士で殺し合いをさせるゲームだ。
課金することによって、家を建てたり、学校に通わせたり、物資を送ることができる。大柄に育てたければ食糧を、危険な思想に染めたければ犯罪学を、ブーメランや手裏剣、特殊な武器を与えてみるのもいい。現実世界に存在するのもならば、なんだって送ることができるのだ。
そうして自分の育てたキャラクターを、最後は殺し合いの場に投じる。確かに悪趣味かもしれない。けれど戦争を追体験するものや、バサバサ人を斬り倒すゲームだってあるではないか。自分の命がひとつしかないからこそ、残酷なゲームに心を奪われるのだ。
「ミロ?」
綾波レイの声に、理人は現実に引き戻された。
現実? これが?
震える唇が、微笑みの形に歪んだ。ゆるゆるとかぶりを振る。
「ありえない……」
どうか、元の世界に戻してくれ。勘解由理人に。
死んだのだと、今になって思い知る。悲しみが押し寄せ、両目から涙が溢れた。
北斎とアトムがそれに気づいて、「ミロっ?」と駆け寄ってくる。
「ミロ? どうしたの?」
「大丈夫?」
日本に帰りたい。こんな、ネバーランドなんて作り物の世界から、一刻も早く。
楽しかった。明るい未来を信じていた。これは悪い夢なんじゃないか。頬を張ペチンとるが、ちゃんと痛い。
「ミロがおかしくなった!」
どうして俺が、殺されなくちゃならなかったんだ。
一体、誰に。


