あれから十日。
もう俺の事なんて忘れたかな。
顔くらいは覚えてるだろうか。
毎日俺の前に立ってたから顔は覚えてるか…。
数回呼んだだけの名前なんてもう頭の片隅にしか残ってないだろうな。

…悔しいけど、俺は全部覚えてるよ。
名前は知らないけど。

俯いて目を閉じる。
なんだかこのまま俺の学校の駅も彼の学校の駅も通り越してずーっと遠くまで乗り越して行ってしまいたい。
そんな気持ちになった。
そうしたらこのもやもやした思いと一緒に消えてしまえるような、そんな気持ちになった。

すごく鬱々とした考えでどんより苔でも生えそうになっていたらドカッと隣に座った人がいた。
それだけでダメージを受けてしまう。
瞼を上げる前に肩を掴まれた。
なにかと思ったら、彼がいる。

「え…」
「准」
「なんで」
「久しぶり」

すごく機嫌悪そう。
綺麗な顔が明らかに不機嫌そうに歪んでる。
なんでいるんだろう。
窓の外を見ると、もう彼の乗ってくる駅に着いていた…気付かなかった。

「まさか二本前の電車に乗ってるなんて思わなかった」
「……」
「俺、最近朝早く起きちゃうから家で時間潰していつもの電車乗ってるんだけど、今朝はもういいやって早く出たの、正解だった」
「正解…?」

正解…ってなに?
なんで正解なの?

はぁ、と彼は大きく息を吐く。
それから俺の目を覗き込んで優しく微笑んだ。

「なんで正解だと思う?」

顔が熱くなって、それから胸が苦しくなった。

「そういう笑顔は、俺なんかじゃなくて彼女に見せれば?」

すごく嫌な言い方になってしまった。
でもそれが正しい事だろう。

「…っ、なにが『またね』だよ。次の日彼女と通学するなら『またね』とか言うなよ。そんなの、そんなの最悪だよ…」
「准?」
「俺がどんな気持ちになったかなんて知らないくせに、またいきなり現れてなにもなかったように笑ってるなんて…最悪だ!!」
「准、落ち着いて」

声を荒げる俺に車内の人の視線が集まる。
なに言ってるんだ俺。
彼の顔を見たら引っかかって詰まっていたものが全部こみ上げてきて飛び出してしまった。
最悪は俺だ。

「一回降りよう。時間大丈夫だよね?」
「……」

大丈夫だけど頷きたくなくて無視しようとしたら、彼に肩を抱かれて強引に降ろされた。
降りた事のない知らない駅。
俺をベンチに座らせてから、彼が自販機で温かいココアを買ってくれた。

「はい」
「……」
「落ち着くよ」
「……」

彼はキャップを開けてペットボトルを俺に握らせる。
一口飲むとじんわり温かくて確かに落ち着いた。

「彼女ってなんの事?」
「……」
「准?」
「……前に電車でくっついてた」
「あれ、見てたんだ」

困ったように言うけど、見られたくないならあんな公共の場でくっつくな。
彼は隣に座ったまま、俺の顔を覗き込む。

「嫉妬した?」
「してない」

即答する。

「だって最悪なんでしょ?」
「最悪だけど嫉妬なんてしてない」
「そうなの?」
「……」

答えたくない。
思い出したくない。
もう一口ココアを飲む。

「あの子、なんでか俺の事好きって言ってて、付き合ってってべたべたくっつかれてすごい困ってたんだよね。無視するわけにもいかないし、適当に『あー』とか『へー』とか言ってたら気が付いた時にはいなくなってたけど」

『あー』とか『へー』…。

「やっぱ最悪…」
「そう? あはは」

これはわかっててやってたんだ。
最悪過ぎる。
でも、彼女じゃなかったんだ。

「……」

じゃあ、勇気を出してもいいんだろうか。
拒絶されるだろうか。
気持ち悪いって言われるだろうか。
…ここまできたらもう砕けたっていい、か。

「……名前教えて」
「え?」
「名前、知らない」
「あ、そっか」

忘れてた、と彼は笑う。
彼の顔がちょっとじんわり滲む。
怖い。
どきどきする。

小松(こまつ)日和(ひより)

小松日和…。

「小松、くん…」
「日和でいいよ」
「…日和」
「なに? 准」

どくんどくん心臓の音がうるさい。

勇気を出そう。
ここまできたら、言わないより砕けたほうがいい…!

「日和の事…、」
「うん?」
「……すっ、好きになっても、いい…?」

言えた…!

なんて返ってくるだろう。
逃げ出したい。
でも逃げたくない。
たとえ拒絶でも、答えが聞きたい。
彼…日和の声が聞きたい。

日和が俺の耳元に顔を近付けるので、ちょっと身を引きそうになってぐっと堪える。
そんな俺の様子に日和はおかしそうに口元に笑みを浮かべてから、俺の耳元で囁く。

「…俺はもうとっくに准が好きだったよ」