息を切らしながら走ってきたりーくんは、
バスが来るより先に俺の腕をつかんだ。
「……っ!」
指先が熱い。
逃げようとした足を止められた。
「なんで先に帰ったの?」
りーくんの声音が、思っていたよりずっと不安げだった。
「びっくりした。
靴箱見たらスリッパあるし……
今日、約束してたよね? 忘れたん?」
優しいはずの言葉なのに、
今の俺にはナイフみたいに刺さる。
返事をしなきゃ……
しなきゃいけないのに喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
声が出ない。
その代わりにぽろり、と涙が一粒こぼれ落ちた。
(……やば……泣くなよ自分……)
視界が滲む中、
りーくんの表情が一瞬で変わる。
驚きと、焦りと、心配が一気にあふれた顔。
「ま、真白……? なんで……泣いて……」
返事を探していると、
りーくんの後ろから影が伸びてきた。
「おい、理人~」
おにぃだ。
(やば……やばいやばいやばい……
なんで今来るの……無理、ほんと無理……)
バス停前、逃げ道ゼロ。
胸がドクンドクン暴れまわる。
涙は止まらない。
そんな俺の状態に気づくと、
おにぃはのんきに言った。
「え、なに? 修羅場? 別れ話?
めっちゃウケる」
——その瞬間。
振り返った彼の横顔が、空気を切り裂くくらい冷たい。
「うるせえ、黙れマジうざい」
「へぇ~?未来のお兄さんにそんな口きくんだ。
ふーん、へぇ~ほぉ~?」
「てめー、マジ性格終わってんな」
「ううううう……」
「ま、ましろ~?」
もうバス停はカオスだ。
そこにどんどんバス利用の生徒が迫ってきてる。
俺はどうにか泣きやもうとするのに、
涙腺が全く言うこと聞かない。
ついに、女子が何人かこちらに気づいた。
「あれ、東條先輩と朝比奈先輩じゃない?」
「ほんとだ!特進のBLカップル!」
女子たちの声はひそひそ小さなはずなのに、
空気が薄くなったみたいに全部クリアに耳に届く。
「だって伴奏と指揮って…もう“特別”じゃん……」
「なつりひ尊い〜〜」
――ぶすっ、と胸の真ん中に刺さった。
(……“特別”…?
……りーくんと、おにぃが……?)
ぐらっと立ちくらみみたいな感覚がした。
りーくんが、ますます焦った声で俺を覗きこむ。
「真白……ほんとに何……?
言って、お願い……でないとわかんない」
喉の奥に張りつめていた膜みたいなのが、
ぷつっと破れた。
「……っ……も……もう……やだ……っ」
涙が、こぼれ落ちた。
ぽた、ぽた、じゃなくて
“ざばっ”と堰が抜けたみたいに。
「俺……っ
俺が……りーくんの彼氏なのに……っ!!」
空気が止まった。
りーくんも、
おにぃも、
バス停にいた女子も、
ぴたっと止まって、俺を見た。
「……ま、真白……?」
りーくんの声は震えていて、
おにぃは「えっ?」とガチで固まっている。
でも涙もドロドロした気持ちも止まらない。
「なんで……!
なんでみんな……
“おにぃとりーくん”とか言うの……っ
俺の……俺の彼氏……なのに……!!」
大声じゃない。
でも、バス停のざわつきを一瞬で断ち切るには
十分だった。
りーくんの目が驚愕で揺れて、
おにぃは両手をあげて
「いや待て、ほんとマジやめろ」とか言い始めて……
バス停に完全なる修羅場が誕生した。

