りーくんの指先が、
まるでピアノの黒と白に溶けるみたいに滑っていく。
(……なに……これ……)
音が柔らかい。
優しくて旋律がすうっと空間に伸びていく。
大げさでもなんでもなくて、
“りーくんの音”が体育館の空気を変えた。
(りーくん……こんな……弾くんだ……)
音の粒が、全部きれいで
濁りがなくて、まっすぐで……
でも、決して歌の邪魔はせず、あくまで伴奏で。
胸の奥がじん、と熱くなる。
(ずるいよ……こんなの……
惚れ直すに決まってる……)
指揮台に立つおにぃの腕が大きく振り下ろされると、
三年生の声がいっそう重なった。
(……やば……涙出そう……)
別に俺は曲に思い入れなんてないのに。
なのに、りーくんが鍵盤に触れるたび、
胸の奥がじわっと締めつけられる。
涙腺の奥がつんと痛む。
でも泣けない。
泣いたらやばい。
周りにバレる。
だけど、胸が震える。
(りーくん……ほんとにかっこいい……)
最後の和音が体育館の壁に染み込むように消えていった。
次の瞬間——
体育館が割れそうなくらいの拍手が起きた。
どよめく。叫ぶ。震える。
でも俺だけは叫べなかった。
胸がいっぱいで、
音がまだ身体の中に残ってて、
手を叩くことすら忘れていた。
(……すごい……ほんまにすごい……)
ピアノの横で軽くお辞儀をしたりーくんは、
一瞬だけ、客席に視線を流した。
そして——
俺と、目が合った。
(……っ……!!)
心臓が、跳ねた。
逃げ場ゼロで、全身が熱くなる。
りーくんは……
ほんの、ほんの一瞬だけ
嬉しそうに目を細めた気がした。
(……無理……好き……)
その一瞬だけで、
俺はまた、”東條理人”に落ちた。
もう何回目かもわからないけど。
体育館に拍手が残響のようにこだまする中、
アナウンスが響いた。
『それでは各学年、順番に教室へ戻ってください』
その言葉が耳に入ったような、入ってないような。
俺はもう、完全に魂が半分抜けた状態で、
気づいたら流れに乗って廊下を歩いていた。
(……無理……今日のりーくん……
最強すぎて……脳が処理追いつかん……)
ふらふらしながら教室へ戻ると、
背後から肩をぽんぽんっと叩かれた。
「おい朝比奈、大丈夫か?
さっきからずっと目死んでんぞ?」
小田が俺を覗き込んでいた。
「えっ……あ、あ、だ、大丈夫!!」
声が裏返った。完全に挙動不審。
「どこがだよ。なんか……
魂置き忘れてきた人みたいになってんぞ?」
(……やめて……図星すぎて刺さる……)
そこへ加藤も椅子をガタッと引きながら割り込んでくる。
「いやーでもさ!
3年の合唱、マジでやばかったよな!?」
「え、あ……う、うん……」
「なんか1・2年とはレベチじゃなかった?
あれほんとに公立高校の合唱なん?
プロ混じってんのかと思ったわ!」
「わかる。なんか“完成されてる”って感じしたよな。
歌もだけど、伴奏と指揮の息ピタッて合いすぎてて……」
小田が感心して手をぱんっと叩く。
「なあ朝比奈、お前の兄ちゃんと東條先輩、
あれマジで別格じゃね?
なんかもう……ずるいレベル?」
「……う、うん……ずるい……(主に俺の心に)」
(りーくん……かっこよすぎんだよ……
マジで……俺もう……どうしたら……)
ふたりの会話を聞きながら、
俺の脳内はまだピアノの余韻でじんじんしていた。
すると、後ろの方からやけに
騒がしい女子の声が聞こえてきた。

