幼馴染からバイかも知れないと言われた時の最適解

「てーんちゃん」
「うるさい」
「えーん」
 西を向いている自室の窓を開けば、すぐに見える人影。待機していたらしい。待たせて悪いな、と思ったが口には出さなかった。
 ココア色の髪の毛は、ふだんと違ってノーセット。しっとりと濡れているのがわかって、反射で、あ? と凄んだ。
「髪ちゃんと拭けよ」
「えー」
 めんどいじゃん、と飄々として笑う文也にため息をこぼす。身体を冷やしたら風邪を引くだろうが。
「ドライヤーは」
「ええ」
 心底いやです、みたいな顔をする文也に、耐えきれず笑う。いつもは聞き分けがいいのに。ごねたい気分なのだろう。
「……東藤」
「……うーん」
 苗字呼びは文也が一番嫌うこと。ぐ、と唇を引き結んで、窓から姿が消えた。ごそごそとどこかを漁る音。なんだ、と思って見ていたら、しばらくして「あったー」とのんきな声の後にドライヤーの音が聞こえてきた。
 やわらかい髪の毛は痛みやすい。染めてるならなおさらだ。
 案外その髪質がやわらかい猫っ毛なのをコンプレックスに思っていることを、おれはしっている。
 神に創造された御尊顔が何を言う、とは、思うけれど。窓際のビルトインソファに横向きに座り、ぺらりと地理のプリントを捲る。
 ドライヤーの音が止むと、ガタガタと音がして窓が開いた。
「てんちゃん今日遅かったね」
 ああ、たしかにそうだったかもしれない。父親が遅番なので妹にご飯を食べさせて、仕事帰りの母親にさせられないと皿洗いまでしていたから。
「皿洗いしてた」
「やっさしー」
 とからかう口調で笑う文也。
 無意識に、ぐ、と眉間に皺がよった。
「そりゃ、もう後悔したくないから」
「……へえー」
 文也が意味ありげな笑みをこぼす。
 大抵この笑いをしている時は碌なことにならない。経験談。無視に限る、と踏んですぐ足元に置いてあったバッグから地理の教科書を取り出した。「ねえ、てんちゃん。その後悔の中に俺も――」「入ってない」「えぇん、即答ぉ……」「なんなら生まれてきたこと後悔させてやろうか?」「生まれ変わりにワンチャン賭けさせてくれてる?」
 窓際のソファに腰かけ、ぺらり、とページをめくる。
 サッシに頬杖をついて、向こう側でマグカップを啜ってる呑気な文也に「問題」と声をかける。
 なになに、と目を輝かせた文也はおれの手の中を見るなり分かりやすく嫌な顔をした。
「えぇ~俺地理いやだよ~点数悪いし」
「はあ? 理系なのに文系クラス来るからだろうが。次赤点取ったら完全に落第だぞおまえ」
「うぅ~耳が痛い~」
「問題、最も肥沃な土壌は」
「先生! 別解ありますか」
「あるわけねぇだろ」
「えーん」
 黒土だろ、と答えてから別解を聞くとうちの庭、と返ってきた。それはおまえのお義母さんが肥料を入れてるからだろうが。馬鹿さ加減に呆れてじとり、と眼差しを向ける。文也はひゅー、と掠れた口笛を出しながら顔を逸らす。
「……フ、へったくそ!」
「悪口ぃ」
 学校から帰ってきて、ご飯を食べて、風呂から上がって窓を開けるのが日課。
 そうすれば大体、文也が向こう側で待っている。
 どうでもいい話をして、時々、誰にも言えないようなことを話して。内緒ね、って小指を見せ合う。
 小学五年のときにしたこの約束を、中学二年生の一年間は守ることができなかった。その時の文也は、この世のすべてを恨む勢いだったし、寂しい思いをさせた罪滅ぼしにも近い。
 おれも大概律儀だよなぁ、と遠い目をしていたら、ひらひらと手を振られた。集中しろ、ということらしい。おれがそもそも問題始めたんだろうが。調子乗るな。
「ね、照生」
「なぁに」
「え、今のなぁに可愛い」
 文也がつい漏れました、という調子で口を覆う。べつにうれしくない。
「詰めるぞ」
 え、なにに、という怪訝な顔をする文也に真顔で「指」と返す。きゅっと反射で小指を握っている。おもしろ。こんな男のどこが可愛いんだ。耳溶けてんのか。
「ヤの付く人じゃん……」
「卒業しました」
「いやヤクザだったんかい」
 勢いでツッコミを決めた文也は、ふと我に帰って、おれが不良だったことを思い出したのか納得した顔をした。ムカつくけど手は届かないので睨むにとどまる。
 ニマ、と口角を上げた顔にいい思い出はない。
「あの頃のてんちゃんは酷かったね。ここ来ないし。連絡も返さないし。無視するし。あーあ、悲しかったなあ」
「……おまえ別れた彼女忘れられないタイプ?」
「なんで彼女と(てる)が同格なんだよおかしいだろ」
「なるほど、否定はしないと」
「やめろ、変なところ勘繰るな」
 文也が何かを投げてくる。ぽーん、と放射状を描いたそれをつい片手でキャッチして、それを見て、咄嗟に「えっ!」と声を出した。
「これ!」
 ちみちみとしたキーホルダーを文也に見せつける。それ俺買ってきたやつね、と苦笑いされているが全然気にならない。
「たまたま見つけたから」
「……ずっと探してたやつ……」
 伝説的なスポーツ漫画がある。バレーボールという競技の面白さを日本中に知らしめた、今や誰もが認めるトップ漫画。累計二千万部突破。これが最近ではなくて、数年前の記録で、その上今も更新しているのだから恐ろしいくらい。
 その、漫画の、おれが一番好きなキャラクターのキーホルダーだった。それも男子が付けてて違和感のない、イタくないやつ。
 その上。
「バレーボールもついてる……」
「言うと思ったー」
 黄色と青の見慣れたボールがついている。早速中に入って、スクールバッグにつけて窓際に持っていく。
「文也!」
「お、いいね」
「まじで欲しかったやつ! ありがと」
「どーいたしまして」
 良かったね、と自分のことのように嬉しそうに笑う文也につられて、うんと大きく頷いた。
 おれの好きな、コースの打ち分けが半端じゃないキャラクターの顔を掴んで、へら、と口元が緩む。絶対なさけない顔してるな今。自分でわかる。
 力がみなぎってくるのを感じる。今すぐバレーがしたくて、衝動を抑え込むように腿を握った。
 窓のサッシに肘をついて、流し目でおれを見ている文也に向き直った。
「これでインハイ勝つ」
「お、次期エース勝利宣言ー?」
「ばぁか。みんなで勝つんだよ」
「……ふ、そうだねぇ」
 バレーは一人じゃ勝てない。一人で点も取れない。
 ね、と糸を引くように指先がひらりと上がる。ピ、と指を指したのはおれの手にあるキーホルダー。
「俺も、『みんな』に入ってる?」
 それは、相変わらず、ゆるっとした、核心を掴ませない話し方だったけれど、やわらかく滲みがちな言葉尻が珍しくはっきりとしていた。
 眼差しに貫かれる。
 余計な飾りを削ぎ落とした、彫刻みたいな顔にはまったアンバーがおれを見ている。
 フ、とかすかに音を立てて、おれは笑った。窓を全開にして、上半身すべてを空中に投げ出すように身を乗り出す。ニ、と歯を見せて笑ってみせる。
「そう思うならトスあげろよ」
 きょとん、としていた文也が、学校では見せないような邪悪な笑いを見せる。
「……じゃあお願い聞けよ」
 ぎらりと目が光ったのが見えた。学年一の運動神経なめんなよ、と。ゾク、と膝の裏が粟立つ。
 ハ、ハ、と喉の奥から笑いが漏れ出てきた。
「言ったな!」
 窓を閉めることさえせずに、机の下に置いていたバレーボールを引っ掴んで階段を駆け降りた。
 母親は急に大きな音を立てて降りてきたおれに目を丸くして、ボールを見てすぐに破顔した。
 おれも笑い返した。
 何事かと出てきた妹が、バレーボールを見て「あっ!」と声を上げる。靴箱から普段使わないスニーカーを探し当てた。「いってらっしゃぁい」としたっ足らずな妹の頭を撫でる。
「ちょっとふみん家行ってくるわ」
「久しぶりじゃない?」
「まあね。交渉成立」
 昔はずうっとベッタリだったもんねぇ、と懐かしむように目を細める。まあ、と曖昧な笑みを返した。
 当の本人にとっては、懐かしい、と思えるような昔でもないんだけどな。
 スニーカーのつま先をとんとん、と叩きつける。
「いつかまた遊びにおいでって言っといて」
「分かった。いってきまーす」
 ばいばい、と軽く手を振ってすぐ隣の家のチャイムを鳴らした。