おれのすべてを振り絞った渾身の切り返しに、文也は「ん? フクシ? てんちゃんボランティアとかってタマだっけ」と、至極失礼なことを大真面目な顔で言った。
つい、脊髄反射とも思しきスピードで「ああ?」と凄んだ。前置詞って言ったんだよ、とツッコもうとしたが、そもそも話を聞いていないにしろ返事が強引すぎるな、と思い至る。だが顔はそのままだ。ひどいヤンキー顔のまま。
眉間に皺を寄せた恐ろしい、であろう、形相のおれを見て、起き上がり小法師は同じような顔で「ああ?」とやり返してきた。
――が、その目が雄弁だった。
すぐに、どく、と心臓が嫌な音を立てる。耳の後ろが一気に冷えた。ぐにゃりと、ふだんうまく繕ったまなざしが歪むところを見た。ふわりと口角をあげる仕草。すり、と親指で手の甲を引っ掻くくせ。
それらを横目で追って、おれは、失敗した、と舌打ちしたくなった。いまのは完全に誘導された。
おれが、文也の発言を軽んじたと判断したから、すぐにいつものノリに転換したのだと気付く。ああ、もう、ほんとさあ。そういう賢さはいらないんだよ、ばか。とこころの中で罵った。
まあ、ほんとうのばかはおれだ。
軽く受け流すべきところではなかった。修正しよう、と思って、シャーペンを机に置いて体を向けた。軽く頭を下げる。
「……ごめん」
顔は見ない。いま、もし、おれの予想が違わないのなら。きっと、文也は痛みを堪えて、きっと彼ならばおれには見せたくないような、ひどい顔をしている。おれが暴いていい顔じゃない。わかっている。その痛みを与えたのもおれなのだから。
不自然な二秒の沈黙の後、文也は明るい声で言った。
「なんで照生が謝んの、やめてよ」
「そう言う意味じゃなかった」
自分の発言を取り消すだなんて、なんて便利な言葉だろう、と思いながら、否定とも肯定とも判断がつかない数秒の沈黙の後に「顔、上げていい?」と聞いた。
さっきからずっと、心臓が変に動いている気がする。握った手が汗でぬるついていて、そっとスラックスで拭った。
「……やだ」と、文也は硬い声で答えた。
うん、ああ、まあ、そうだよな。きゅっと心臓が冷たい風にさらされたように竦む。
「……わかった。じゃあ、うーん、……おれ、このまま、話聞くから――」
「あのさ」
とん、と腕に文也の手が添えられる。ワイシャツ越しに伝わる体温は、ひどく、熱い。もしかして泣いているのか。
追及したい気持ちを抑え込んで顔をずらしてそれを見て、そっと手を重ねた。
文也がすぐに手首を返して、ぎゅう、と指を絡めて繋いでくる。軟体動物みたいなそれを見ながら、これは、はて、「キュンとする」ところなのでは、とまるで他人事のように思った。
おれはべつにホモじゃないけど。妹がキャッキャしている漫画では、文也みたいなイケメンが女の子と手を繋いで顔を赤くしていた。
ばかなことを考えて、文也の手が震えていることに気付く。
こわいのだろう、と思って、手の甲を指先で引き寄せるようにきゅ、と握った。
文也が、はく、はく、とゆっくり息をするのが聞こえる。てる、と遠慮がちな呼びかけに、きゅ、と指を握って応答した。
「……ねえ、ドキドキする?」
――あ、いま猛烈に顔が見たい。
どんな顔をしているのだろう。見たい。あの顔がどんなふうになっているのか、すごくすごく見たい。悪魔のささやきにぐっと顎を噛み締めてこらえて、「しない」と答える。
一瞬の静寂。のあと、文也は「そっかあ」と「そうだよね」を数回繰り返して、バッと手を振り払った。
手のひらの皮膚が、空気にさらされて、冷えていく。あ、さびしいな。なんて。心に浮かんだ場違いな感情には蓋をした。
「そうだよね。ふつうは、そうだよね」
その言葉が、やわらかいところに突き刺さる。
人に決して晒してはいけないと本能で知っているところに指を突き立てられたみたいに、痛みが走った。
それは、言ってほしくなかった。とくにおまえには。なんだか裏切られた気分になって、そろそろと顔を上げる。文也はふつうの顔をしていた。それがなおさらムカついた。
おれのまえでだけは、文也に無意味な強がりをさせたくないと思う幼なじみのプライドだった。
「……ふつう、ってさ」
おれは、あんまりわかんないけど、と保険の言葉をおく。
「人を、好きになるのって、いけないことか?」
文也がかすかに目を見開く。驚いている。
まあ、そうだろうな。おれからそんな言葉が出てくるとは思っていなかったのだろう。いや、分かってるよ。おれだって。
でも、なんか。さ。
おまえが、おまえのために生きれないのなんておかしいと思った。それは間違っている、と直感的に分かってしまったのだ。
「もちろん、おれは、あんまりそういうの好きじゃないし、よくわからんよ。人を好きになるのも」
文也も、恋愛に辟易していることはわかっている。だからこそ、彼は特別ちやほやしない人の方が得意だ。自分が知らないうちに、勝手に解釈され、好みだ好みじゃないと言われたりする。
いつの日だろうか、そんなのやだよ、と泣きそうになっていた文也のことを思い出した。
ぎゅっと拳を握り直して、甘い茶色の目を見つめる。
「でも、おまえが好きになる相手なら、おれ性別とかどうでもいいと思う」
「……ふふ」
大真面目に言うと、文也が安堵したように笑った。
「笑うなよ。……ま、おれに、おまえの好きな相手どうこう言える立場じゃないけど」
「――言ってよ」
どうこう、と続ける。声が繊細に揺れている。甘い茶色の目も水面のしたで揺れていた。
「照生には、言ってもらいたいかも」
「……ジャッジメントって意味?」
「俺の専属プロデューサー穂波さんって意味。男だろうが女だろうが、照生が認めてくれればおれはその人と幸せになれるよ」
なんだよそれ、と笑いかける。
文也は、あはは! とおかしそうに笑って、おれの頭を撫でた。和んだ空気に安心して、ていうか、と切り出した。
「……そういうのって、信頼できる相手とか、家族とかに言うもんじゃないの」
本当に言いたかったのは、おまえおれにそんなこと言って平気なの、という言葉だったけれど、さすがに言うのは憚って濁した。
東藤はにっこぉ、ときれいに笑って、「だからでしょ」と落ち着き払った声で言った。
「てんちゃんは俺にとって一番近い存在だからね」
「……ふーん」
「なあに、嬉しいの?」
「……そりゃ嬉しいだろうが」
うれしい。
じわじわ、じわじわ、と身体のまんなかから熱くてびりびり痺れる甘さが広がっていく。
耳の先が熱い。きっと赤くなっている。隠してしまおうか、押さえようかと、いつも揶揄ってくる東藤を見るとひどく嬉しそうに笑っていた。
あ、これは。この顔は、おれの好きな、文也の顔。
「……そうか」
耳は隠さなかった。文也はますます嬉しそうに笑って、くふくふ喉の奥で笑みを殺すとなだれるようにもたれかかってくる。
おもい、と照れ隠しの言葉に、ごめん、と言いながら避ける気配はない。
「てんちゃん」
「なんだよ」
「てーる」
「んー」
ぐりぐり頭を肩に押し付けてくる。首痛いのかな、と思ってシャツの上から肩と首とのつなぎめをぐっ、ぐっと指圧してやる。
気持ちよさそうに目を眇めて、眠る前の体温によく似たぽかぽかの身体を抱き止める。肩に押し殺すようにして、気持ち悪くないの、と声が聞こえた。
どき、とした。
やっぱりおれがそういう感じに見えてたのか、と呆れ半分で「気持ち悪くはないだろ」と返す。
びっくりするくらい優しい目をした文也が、舌で言葉を弄ぶようにゆっくりと言った。
「……てんちゃんって優しいの?」
「は?」
揶揄っているのか。だとしたらタチが悪い、と拳を握ったところで、ああ、うそうそ、おこんないで、ともごもご返答が返ってくる。ふだん、やさしい声色のわりに凛とした口調で話すその声には覇気がない。
ショックのあとに安堵して力が抜けているのだろうと思った。
「引かないんだね」
「引くかよ」
即答した。あれは完全におれが、悪かった。自分でも十分に分かっている。
「そっかあ」
文也が全身すべての細胞からうれしさを受け取ったみたいに、肩でんふふと笑う。蝶がたわむれるような、あいまいな手つきで髪の毛を掬われた。
「とは言っても、『かもしれない』程度で、あんまりピンとは来てないんだけど」
「まあ、そうだろうな。そもそもおまえ女子好きじゃないだろ」
「それはそれで心外ですけど」
三ヶ月に一回、文也がくれるシャンプーとリンスを使うようにしてから髪の毛はさらさらだ。頭頂部をすんすん嗅ぎ出す無作法な顎を掴んで押し戻す。勝手に嗅ぐな。おれの頭だ。
まあ、と、自分のことを棚に上げて口を開く。
「……そもそも人を好きになること自体、奇跡みたいなもんだし」
文也は、ふーん、と目をすがめた。まんまるな目が欠ける。声色が変わったことに気づいたのだろう。
机に頬杖をついて、おれを見る。
「どうしてとか聞かないの?」
「……聞いて欲しい?」
「いや、うーん、まあ、そうではないけど」
だよな、と肯定を示せば、なぜか不満そうにする文也に、言いたいときに言えと伝えて、「大体さ」と肩を叩く。
「おまえが『男もいけるかも』って言うならそうなんだろ」
と、目を合わせると、分かりやすく「意外!」とでもいいたげな顔をした。
「好きになるとかならないとか個人の範疇だろ。おれがとやかく言うことじゃない。……突き放してるんじゃなくて」
途中からお綺麗な顔がかなしみに歪んでいくのでフォローする。
文也はにへらと笑って、そっか、そっかあ、と心底安心した声で繰り返した。
「ありがとね、てんちゃん」
「……おうよ」
窓の外はもう暗くなり始めている。今日自転車だっけー、とのんきな声を出す文也が窓にふらふらと寄っていくのを見て、「雨降ったらまずいから帰るか」と返事をした。
