幼なじみ(自称バイ)からの執着が止まらない件

 サボり癖は文也に似たかな、と苦笑しながら今来たばかりの道を逆走していく。
 母親には連絡を入れて了承をもらったし、先生にも「用事ができたので帰ります」と伝えた。先生は「そういうところ正直に言うよね、穂波って」とちょっと嬉しそうに笑っていた。
 スマホに連絡を入れても既読がつかない。もしかしてブロックされてるかな、と思いつつ、とりあえずは家に戻るしかないと道を急ぐ。
 帰る前に「文也のトリガー」として聞いたのは、やはりおれのことだった。その現場にいた戸田と野田の言うことには、相手方はおれと仲良くしているということも馬鹿にしたという。曰く、破壊衝動のあるサイコパスで少年院に行ったことがあるくらいなのに仲良くするなんて頭終わってんじゃないの、ということだ。くだらない。少年院はお世話になったことがない。
 だが、戸田と野田は鋭いなと思った。それを言ったあとすぐに「馬鹿だよね」と言ったのだ。「東藤は穂波に手を出されることくらい嫌なことないのに」と。
 自転車を車庫に入れる間も惜しく、隣の家のピンポンを押した。
 文也の両親は精神的に不安定な息子を一人で家に残すような人たちじゃない。誰かいるはず、と思い待っていると、玄関のドアが開いて静香さんが顔を出した。
 憔悴しているのが分かる。苦笑いにひきつりそうになる頬をおさえて、真剣な表情を浮かべた。
「すみません。こんな時間に」
「いやいや、いいんだよ。それよりも、てるくん、学校は?」
「話を聞いて、いても経っても居られなくて、帰ってきました。遠征にはスマホを持って行かないので、情報が遅れて。……文也は、いますか?」
 静香さんはああ、そうなの、あらまあ、とほがらかに笑うと「いるよ」と言って招き入れてくれた。気まずくしているのもあって、面会謝絶状態にされていたらどうしたものかと思っていたので面食らった。
 あとでお菓子とお茶を持っていくわ、と心底安堵したように話しかけてくれる静香さんに感謝を伝えて二階に上る。
 おれがひどく荒れた時期もあるというのに、いつ来ても明るく迎え入れてくれる。お前のせいだと殴られたって文句は言えないようなことをしてきたというのに。おれなら到底できやしない。すごい人だ、と思いながら文也の部屋の前ですっと息を吸った。

「文也」

 中で動く気配がした。遅れて、「……照生?」と細々とした声が聞こえてくる。
「うん。おれだよ。話がしたくて来た」
「……話、って……」
「えー、なんだよ、おまえが好きな人のことでって言ったんじゃん」
「エ」
 ばたんばたんと騒がしい音とともに、どこかにぶつけたのか、「いってぇ」という声。ふ、と笑うと同時にドアが開く。
 文也の顔を見て、厳しく眉が寄ったのは仕方がないことだった。
 痛々しく顔に貼られたガーゼ。首のところには包帯も巻いてある。もしかして首を絞められたのか? と、その表面を撫でると、文也は真顔のまま、おれの思考を読んだかのように「ネックレスがひっかかって傷ついただけだよ」と言った。
「……とりあえず、中入れてくれ」
「うん。どうぞ」
「お邪魔します」
 促されるまま、二人で並んでベッドに座る。冷静に努めようと息を吐いた。ふう、と一つ吐息を落として、左手で右肘を掴む。そのまま右手で顎を支え、まぶたを閉じる。ゆっくりと息を吸って、神経をとがらせる。冷静になれ、と数回呟いてから目を開けた。
 バレーで培った、平常心に戻るためのルーティン。
 よし、いける。目を開いて、隣で腕を組んでいる文也に向き直る。
「で、どうしてそんなことしたんだ」
 まあ、大体は聞いてる。と先に退路を塞ぐと、文也は「あー」と視線をそらして気まずそうに笑って、「まあ、……痴情のもつれで殴られるのはよくあることだよ」とほぼつぶやくように言った。痴情のもつれか。おまえはまったく新田さんに興味がなかったくせに、そんなことを言うんだな。
 失恋の痛みが戻ってくる。それじゃあ、おまえが好きだったその人とはどうなる、と聞きたい気持ちをおさえた。だめだ。まだそれを聞くべきじゃない。落ち着け。
 ――まずは、彼の気持ちを汲み取る。言葉だけを交わす。変な勘繰りをせずに、彼の気持ちだけを聞き出す。
「じゃあ、なんで穴開けた?」
 右の耳朶にそっと触れる。
 びくりと震え、文也は真っ黒に感情が陥没した目でおれを見た。返す言葉がないらしい。
 まったく人形みたいな恐ろしい目だが、以前のように怖くはなかった。今思えば、あれは、おれが文也に好意を抱いていることを無意識下で悟られるのを恐れていたからこその反応だったのだろう。
 あいにくだが、今はもう怖くない。何度も挫折して、土壇場でのミスリードには慣れている。
「自傷に走るのはなんでだ」
 恐ろしくて仕方がない。
 おれの父と母のようなことなら、どこにでも起こる。愛なんてろくでもないと知っているから、その恐ろしさも知っているつもりでいた。一番怖いのは、愛のせいでそうやって傷つく人ができることだった。
 それと同じことが起こっている。恐ろしくて仕方がない。
 だが、それよりも、一番それを恐れているのは、傷つく人を間近で見ていることしかできない人じゃないかとさえ、おれは思った。
 妹のことを思い出す。二階の自室で、息が出来なくなるくらいしゃくりあげて泣いていたあの子のことを。
 こういう気持ちだったのか、と、皮肉にもおれは今分かった。
 自分の無力さがつらい。
 おれの行動では、人一人の気持ちだって変えてやることはできない。守ってやることもできない。守ってあげたいのに、守らせてくれない。どこまでも遠くに行ってしまう。自分を守るために傷ついていく。愛ゆえに。愛があるから。
 自分はなんてちっぽけな人間なんだろうと思う。情けなくなる。
 その時、目からか、口からか、意識しないうちにこぼれたのは、文也に隠して自分でも持て余した恋心ではなくて、文也を救いたいという自分勝手な思いだった。
 親友としての、なけなしのプライドがそうさせた。
「なんで、おまえは、いつだってそうやって全員を守ろうとするんだよ……」
 自分一人が楽になる方法を考えればいいだろう。なんでおまえの選択肢のなかに、放っておくという選択がないんだ。
 新田さんも、おまえの中の親友のおれも、戸田も野田も、全員守りたくて暴力に訴えたことくらいは分かっているんだ。おれだって、おまえの隣にいた人間なんだから。
 かいつまんで唇からこぼれた。おまえを嫌いになったんじゃない。おまえがすることを強制するつもりもない。ただ。ただ。
「誰かを守るために、傷つかなくたっていいんだよ、文也……」

「――それを、おまえが言うか。照生」

 文也の目が揺らいでいる。ココア色の瞳孔を揺らすそれが涙だと気付いて、おれは耐えきれずひとつだけ落涙した。
 何のことを言っているのか知っている。父から妹と母を守るために自分を傷付けたおれのことを言っているのだ。それから父の残影を消すために年相応の未熟な正義で喧嘩をして回ったおれのことを。
 それと、今の自分とで、何が違うんだと言っているんだ。文也は。
 ……ああ、だめだ。
 おれは思った。
 おれは何とも言えない。おれは、文也になにも言ってやれない。言う資格がない。
 なにもかも、はじめはおれが始めたことじゃないか。失恋と同じくらいの絶望が襲う。おまえには関係がない、と突き放されたと思った。いや、きっとそうなのだろう。あの時期、おれは文也のことなんて考えられないくらい憎しみに燃え滾っていた。それと同じ状態なのなら、もう――。
 おれに、やれることはない。
 そう思った時だった。
 ふと文也の手が触れた。おれの右手に。そっと手をとられ、なにをしているのか分からないままそれを見ていると、文也の唇がおれの手の甲に触れた。
 ちゅ、と音を立てて。
 あの日、夕暮れのなかでおれのまぶたにしたように。動揺で視界がひどくぶれる。なにも考えられない。呆然と、優しく微笑む文也の顔を見上げた。唇が震える。手が震え、ぎゅうと握りこまれた。

「……なに、して」
「――好きだよ、照生」

 はく、としゃくりあげるように息が止まった。「こんなタイミングで、ごめん」と涙を飲み込んで文也が笑った。