「……ふみ、や?」
聞こえるはずもないのに、慌てて口をふさぐ。耳の裏がぱくりぱくりと動いているのが分かる。動悸がひどい。呼吸が変に浅くなって、目が回るような違和感と共に膝がわらった。
目の前がチカチカと、まだらに光っている。手がぬるりと滑って、自分が冷や汗をかいていることを自覚する。
胸が、重い。息をするのにも重い。息を止めることを強制されているような苦しさに、咳きこむようにしてうずくまった。
見てしまったのだ。窓から。中を。文也の部屋のほうを、向いてしまったのが悪かった。
――あれは、確か……。
記憶を辿る。隣のクラスの、というのだけ分かって、肝心の名前は出てこなかった。別にそれでもいいのだ。分かっているから。
もう一度、と口の中で呟いて顔を上げる。座り込んだまま、ビルトインのソファにもたれかかるようにして窓から顔を出して見た。見間違いではない。ぐらりとめまいがした。ソファにしだれかかり、頭を布地にうずめる。
「マドンナ……」
今目と鼻の先にある文也の部屋。そこに座っていたのは、あの初夏の日、資料室を訪れてきた「二学年のマドンナ」その人だった。
どうして。なんでそこにいる。
そのとき、漠然と脳裏によぎったのは、ぶたれて殴られて、壁に頭をぶつけて痛みに顔をしかめながらも、決して父から目をそらさなかった母の姿だった。妹をかばいながら、血を流してもなお、自分が愛し愛された人の姿から絶対に目をそらすまいとするあの気迫。いっそ恐ろしいほどのあの姿を、なぜか、思いだした。
あのときの母は、何を思っていたのだろう。
あのときは分からなかった。ただ目の前の父が憎くて、憎くて、それ以外のことなんて重要じゃなかった。じゃあ、誰よりも父と同じ時間を過ごしてきて、まぎれもなくあの男を愛していた母は?
なぜ、あのとき、母は。涙を落としもせずに、ただ目の前だけを見ていたのだろうか。
そして、文也が静香さんから持たされたのであろうお盆にジュースとお菓子を載せて部屋に入ってきて、二人がゆったりと笑いながらそれをつまんで、ぽつりぽつりと話しているのを見て、唐突に理解したのだ。おれは。
ああ、そうか。と。
母はこれを見ていたんだな。いつでも、あの人はおれより何倍も強い。
自分の一部とさえ思った大切な人が、自分の手を離れていく。自分ではない誰かのもとで、愛を育み、自分には知らなかったふつうを積み上げていく。大切にされてきた記憶が、もうそんな未来などないのだと痛いくらい突きつけてくる。現実はいつも悪夢よりも痛ましい形をしている。
文也。心の中で問いかける。
やっぱり、おまえはそっち側の人間なんだ。と。はっきり、おれは思った。もう迷わなかった。文也はそっち側だ。おれの背中を踏み台にして、誰よりも輝かしい未来のもとへと走っていける奴だ。だからもう、おれには構わなくていいんだ。
おまえはもう、人を好きになれるんだろう?
おれはずっと、文也のわがままに付き合っているような気がしていた。
けれどもそれは違ったのだ。
彼は人を好きになれる。その相手が男性であろうと女性であろうと、関係なく、等しく全員自分が愛することのできる対象として見られるのだ。
美男美女だなあ、とおれはらしくもなく恨めしいような気持ちになって思った。
並んでいてもいやになるほど様になっている。おれの第二の仮説は文也には言っていない。照生の考えることならたぶん当たっているよ、と言われただけで、文也はおれの仮説の内容を知らない。ただおれの分析を信頼していただけだ。
百発百中なんて、現実ではありえないのに。
「外れたかあ……」
まさか、そっちを好きになるとは思わなかった。
おれはぼんやりと、全身の力が抜けてしまってろくに動かない頭を働かせた。それにしても、だ。なぜアイツは「俺はバイかもしれない」だなんてことを言ったのだろうか。男から迫られていない限りはそういう思考にならないだろうし、文也はそもそも、遊園地の一件で完全に認識を「バイ」と定めたように見えた。好きなコも男だと言っていた。
思い違いだったのだろうか。それとも、やはり男よりも女の子のほうがいいと気付いたのだろうか。
いや、でも、それも愚問だろう。
彼はどちらでも好きになれるのだ。ゲイではなくてバイ。可能性があると気付いても、男性の魅力と女性の魅力は別だろう。人の心は移ろいやすい。大昔の歌人だってそう言っている。
じくり、と胸が痛む。落胆にも絶望にも、苛立ちにも似た感情の高ぶりを押さえつけるために、眼を閉じて、ふかく、ふかく、息を吐いた。
おれはこの感情が何者なのか知らない。知らなくてもいい。だって、もう、終わった話だ。
無性に泣きたくなった。
ああ、やっぱり、そうなのか、とおれは自分に問いかけた。胸は答えないし、おれの問いに答え合わせしてくれる人なんていない。自分で受け入れるしか術はないのだ。
「ふみやぁ……」
――おれ、お前のこと好きだったみたいだ。笑えんね。
今まで、気付くことすらできなかった。今となっては、気付くことしかできなかった。笑える話だ。ずっと隣にいて、お互いにのしかかるようにして支え合いながら、ずっと離れることはないと思っていた。親友だと思っていた。でも、違うのだ。
おれはたぶん、ずっと、ずっと昔から、好きだったのだ。
当たり前のような顔をしておれのことを待っていて、おれの隣を譲らないで、急かすことも焦らすこともなく、おれのことをぜんぶ受け止めてくれる文也が。
たとえこれがときめきを伴うような恋ではなくても、深い深い愛だという話で。
やっぱり、愛なんて、ろくでもない。おれはすでに涙で揺れる視界を擦って、ぼんやりとそう思った。
誰かを傷つけるなんて話じゃない。
愛は傷つける。その人たちの大切な人を傷つける。母と父の愛のこじれでおれと妹は傷ついた。もう恋愛なんていらないと思うくらい傷ついた。
でもそれよりも恐れていたのは、いつか来る「愛する人が自分の手から離れる」という絶望だったのだろう。
惚れた腫れたなんて騒ぐ愛のせいでみじめったらしく泣くのは嫌だった。現実に殴られるのは嫌だった。だって、たぶん、おれはもう立ち直れないから。ここでうずくまって、身を蝕むような絶望に耐えているだけだ。
頼むよ、文也。幸せになってくれ。
おれが出来ない分、そうしてくれ。おれの幸せなんて考えなくたっていいから。おまえはただ目の前の恋に必死になってくれ。「おまえも幸せにならないと」と言ってくれたこと、覚えているよ。すごく嬉しかった。幸せになる権利があるんだって思えた。だから、もう、それだけで充分なんだ。本当に。
頼むから、おれをこれ以上惨めに泣かせないでくれ。
聞こえるはずもないのに、慌てて口をふさぐ。耳の裏がぱくりぱくりと動いているのが分かる。動悸がひどい。呼吸が変に浅くなって、目が回るような違和感と共に膝がわらった。
目の前がチカチカと、まだらに光っている。手がぬるりと滑って、自分が冷や汗をかいていることを自覚する。
胸が、重い。息をするのにも重い。息を止めることを強制されているような苦しさに、咳きこむようにしてうずくまった。
見てしまったのだ。窓から。中を。文也の部屋のほうを、向いてしまったのが悪かった。
――あれは、確か……。
記憶を辿る。隣のクラスの、というのだけ分かって、肝心の名前は出てこなかった。別にそれでもいいのだ。分かっているから。
もう一度、と口の中で呟いて顔を上げる。座り込んだまま、ビルトインのソファにもたれかかるようにして窓から顔を出して見た。見間違いではない。ぐらりとめまいがした。ソファにしだれかかり、頭を布地にうずめる。
「マドンナ……」
今目と鼻の先にある文也の部屋。そこに座っていたのは、あの初夏の日、資料室を訪れてきた「二学年のマドンナ」その人だった。
どうして。なんでそこにいる。
そのとき、漠然と脳裏によぎったのは、ぶたれて殴られて、壁に頭をぶつけて痛みに顔をしかめながらも、決して父から目をそらさなかった母の姿だった。妹をかばいながら、血を流してもなお、自分が愛し愛された人の姿から絶対に目をそらすまいとするあの気迫。いっそ恐ろしいほどのあの姿を、なぜか、思いだした。
あのときの母は、何を思っていたのだろう。
あのときは分からなかった。ただ目の前の父が憎くて、憎くて、それ以外のことなんて重要じゃなかった。じゃあ、誰よりも父と同じ時間を過ごしてきて、まぎれもなくあの男を愛していた母は?
なぜ、あのとき、母は。涙を落としもせずに、ただ目の前だけを見ていたのだろうか。
そして、文也が静香さんから持たされたのであろうお盆にジュースとお菓子を載せて部屋に入ってきて、二人がゆったりと笑いながらそれをつまんで、ぽつりぽつりと話しているのを見て、唐突に理解したのだ。おれは。
ああ、そうか。と。
母はこれを見ていたんだな。いつでも、あの人はおれより何倍も強い。
自分の一部とさえ思った大切な人が、自分の手を離れていく。自分ではない誰かのもとで、愛を育み、自分には知らなかったふつうを積み上げていく。大切にされてきた記憶が、もうそんな未来などないのだと痛いくらい突きつけてくる。現実はいつも悪夢よりも痛ましい形をしている。
文也。心の中で問いかける。
やっぱり、おまえはそっち側の人間なんだ。と。はっきり、おれは思った。もう迷わなかった。文也はそっち側だ。おれの背中を踏み台にして、誰よりも輝かしい未来のもとへと走っていける奴だ。だからもう、おれには構わなくていいんだ。
おまえはもう、人を好きになれるんだろう?
おれはずっと、文也のわがままに付き合っているような気がしていた。
けれどもそれは違ったのだ。
彼は人を好きになれる。その相手が男性であろうと女性であろうと、関係なく、等しく全員自分が愛することのできる対象として見られるのだ。
美男美女だなあ、とおれはらしくもなく恨めしいような気持ちになって思った。
並んでいてもいやになるほど様になっている。おれの第二の仮説は文也には言っていない。照生の考えることならたぶん当たっているよ、と言われただけで、文也はおれの仮説の内容を知らない。ただおれの分析を信頼していただけだ。
百発百中なんて、現実ではありえないのに。
「外れたかあ……」
まさか、そっちを好きになるとは思わなかった。
おれはぼんやりと、全身の力が抜けてしまってろくに動かない頭を働かせた。それにしても、だ。なぜアイツは「俺はバイかもしれない」だなんてことを言ったのだろうか。男から迫られていない限りはそういう思考にならないだろうし、文也はそもそも、遊園地の一件で完全に認識を「バイ」と定めたように見えた。好きなコも男だと言っていた。
思い違いだったのだろうか。それとも、やはり男よりも女の子のほうがいいと気付いたのだろうか。
いや、でも、それも愚問だろう。
彼はどちらでも好きになれるのだ。ゲイではなくてバイ。可能性があると気付いても、男性の魅力と女性の魅力は別だろう。人の心は移ろいやすい。大昔の歌人だってそう言っている。
じくり、と胸が痛む。落胆にも絶望にも、苛立ちにも似た感情の高ぶりを押さえつけるために、眼を閉じて、ふかく、ふかく、息を吐いた。
おれはこの感情が何者なのか知らない。知らなくてもいい。だって、もう、終わった話だ。
無性に泣きたくなった。
ああ、やっぱり、そうなのか、とおれは自分に問いかけた。胸は答えないし、おれの問いに答え合わせしてくれる人なんていない。自分で受け入れるしか術はないのだ。
「ふみやぁ……」
――おれ、お前のこと好きだったみたいだ。笑えんね。
今まで、気付くことすらできなかった。今となっては、気付くことしかできなかった。笑える話だ。ずっと隣にいて、お互いにのしかかるようにして支え合いながら、ずっと離れることはないと思っていた。親友だと思っていた。でも、違うのだ。
おれはたぶん、ずっと、ずっと昔から、好きだったのだ。
当たり前のような顔をしておれのことを待っていて、おれの隣を譲らないで、急かすことも焦らすこともなく、おれのことをぜんぶ受け止めてくれる文也が。
たとえこれがときめきを伴うような恋ではなくても、深い深い愛だという話で。
やっぱり、愛なんて、ろくでもない。おれはすでに涙で揺れる視界を擦って、ぼんやりとそう思った。
誰かを傷つけるなんて話じゃない。
愛は傷つける。その人たちの大切な人を傷つける。母と父の愛のこじれでおれと妹は傷ついた。もう恋愛なんていらないと思うくらい傷ついた。
でもそれよりも恐れていたのは、いつか来る「愛する人が自分の手から離れる」という絶望だったのだろう。
惚れた腫れたなんて騒ぐ愛のせいでみじめったらしく泣くのは嫌だった。現実に殴られるのは嫌だった。だって、たぶん、おれはもう立ち直れないから。ここでうずくまって、身を蝕むような絶望に耐えているだけだ。
頼むよ、文也。幸せになってくれ。
おれが出来ない分、そうしてくれ。おれの幸せなんて考えなくたっていいから。おまえはただ目の前の恋に必死になってくれ。「おまえも幸せにならないと」と言ってくれたこと、覚えているよ。すごく嬉しかった。幸せになる権利があるんだって思えた。だから、もう、それだけで充分なんだ。本当に。
頼むから、おれをこれ以上惨めに泣かせないでくれ。
