幼なじみ(自称バイ)からの執着が止まらない件

「ただいまー、母さーん、照生連れてきた!」
「あらぁ、久しぶりだね、てるちゃん」
「静香さんお久しぶりです。すみません、お邪魔します」
 ぺこりと会釈を返すと、静香さんが「後でお菓子持っていくわね」と微笑んだ。文也が勝手に中に入って階段を上っていくので、感謝だけ伝えて後を追った。とんとん、と階段を上がって左奥が文也の部屋だ。いつ来ても綺麗だし大きな家だ、と思いつつノックをすると、扉が開いて「勝手に入っていいのに」と文也が笑った。
「いや、おれ客だし」
「真面目だねぇ。主の言うことは聞くものだよ」
「はいはい。で、すげえ量のノートだな」
「使ってるのと未使用とで半々ってところかな」
 文也は綺麗なものが好きだ。それは人間だけの話ではない。もちろん、造形を気にしてしまうことも多いとは言うが、それ以上に無機物や、特にデザインについて綺麗なものを集めてしまうのだと言う。ノートなどの文房具から、アクセサリー、ガラス細工、写真、はがき。綺麗なものならなんでもござれ、だ。
 たしかに綺麗なものは見てて楽しいけれども、と思いつつ、口には出さない。彼なりの美しいものとそうでないものの基準があるのだろうから。
「これ新作のノート」
「お、え、可愛いね」
「でしょ。可愛いでしょ。60周年記念デザイン」
 平成女児ノートはこのあたり、と言って上方を指さす。壁一面に埋め込まれたビルトインの棚は上部三段にわたって文房具や彼の綺麗グッズが詰め込まれている。
「スゲェ」
「ちょっと待ってね、取るから」
「届く?」
「背伸びする」
 百八十はある文也でも背伸びをしないと届かない。おれにできることはないな、と思って、彼の隣で上方に積み上げられたノートの背表紙をじっと見つめた。パッションピンクはもうないか。あとは全部ギャラクシー色にギラギラしている水色、赤色、黄色、紫色だ。
「どれがいい? 色」
「んー、やっぱり水色かなあ」
「えー、俺はてんちゃん色の紫を推してたんだけどなあ」
 お互い考えることは一緒か、と笑う。文也が「まあ水色の次は紫色にしましょう」と言うので、「次もあるのか」とうんざりした体を装って尋ねてみたら満面の笑みで頷かれた。
「よっと」と声を出して、文也が背伸びをして手を伸ばす。
「おー、やっぱり高いね」
「ま、父さんに合わせて作られてるから上が……果てしない、って、いうか……ッ」
「本当に届きますか?」
「なんか今日届かないですねえ」
 苦笑いしながら、「ちょっと体勢変えるか」とこぼし、文也が片腕と片膝を棚にかけて足を浮かせる。最大重量とか大丈夫なのか。おれがひやひやしながら見ていることに気付いた文也が「はは、てる、そんなに心配しなくても」と笑った――
 そのときだった。
「う、わ」
「ぐえっ」
 パキリと音がして、文也の膝を支えていた板がどうこうしたらしい。
 隣から文也が落ちてきて、受け止めきれずに二人まとめて床にたたきつけられる。その拍子に顔面がぶつかりあった。ガチン、と硬い音がして顎から唇にかけてに激痛が走る。思わず口元を押さえて蹲った。
「ってぇ……」
「ッ、あー、……ねえ今歯当たった? ねえ当たったよね? ねぇ照生?」
「ウルセェ」おれ潔癖なんだけど、と起き上がって同じように口元を押さえている文也を睨みつける。「マジで最悪」
「えー、俺はノーカンでしょ」
「言ってろ」
 潔癖気味ではあるが、まあ別に嫌な気はしないなと思いながら体を起こす。
 勝手に食べ物を共有しているくらいだし、ハグも冗談交じりのスキンシップだってしてきたし、今更唇が触れ合うくらい、と考えて、なにかおかしいぞと思った。
 心臓がうるさい。
 耳のうらが拍動に合わせてパクパクと動いているのが分かる。息が切れたように、肺がうまく機能していないような。変な感覚がする。なんだ。なんだこれ。
 顔が熱い。痛みでどうこうしたのか。痛いな、と思いながらなんともなしに唇を指先でなぞった。ふつうに、当たったのだろう前歯が痛い。何度か唇の上から歯を押してみたが、ただ単に神経が反応して痛むだけだ。時間が経てば治るだろう。
「ねえ、照生ぃ」
「なぁに」と返事を返した。そういえばノートは取れたのかと聞こうと顔を上げて、

「――ねえ、キス、してみる?」

 なにかが、おかしいと思った。
 ココア色に澄み渡った、甘くとろける瞳が夕暮れを偏光して猛禽類の目のようにぎらりぎらりと光っている。乱れた茶髪の先が揺れた。指先がおれの頬を撫でる。背筋がぞわりと粟立ち、腹の底から湧き上がってくる意味のわからない感情に耐えようと目をつぶった。二秒待って、目を開く。生えそろった黒々とした睫毛がばさりと瞬き、その間から真っ黒な人形のような瞳孔がおれを射抜く。耳の先が赤く染まっている。濡れたように揺れるまなざしの熱に、あ、と声が漏れた。
 怖い。
 怖いくらい、きれいだ、と。思った。
 手に入るならどれだけ幸運なことだろうと思う。恍惚として、目の前が霞むように剥離していく。光に包まれて死ぬのかとさえ思った。ぼんやりと目の前の端正な顔を見上げたまま、太陽の揺らぎにあわせて暗がりに沈む顔を手繰り寄せる。
 ろくに働かない頭が勝手に唇を動かした。
「なあ、文也」
 自分の口から出たとは思えない声だった。上ずって、言葉の節々に泣きそうな瞬きが隠れている。聖書に出てくる悪魔はきっとこんな声をしているのだろう。おれはフッと堪えきれず笑って、目をつぶって唇を引き上げた。
 心臓が動いている。それが明白に分かる。
 熱い血液が、どくんどくんと押し出されるようにも、自分で飲み込んでいるようにも感じるくらい、はっきりと、自分の身体を回っている。生きていると思った。
 汚れてしかたのないこの血が愛おしいと思った。
「おれらはさ、昔から共犯だったじゃんか」
 しばらくの沈黙と、雄弁なまなざしを受ける。薄らと目を開けて促すと、「……うん、そうだね」と文也が低い声で唸るように返事をする。
「だからさぁ」
 と、指先で文也の髪の毛をふわりと混ぜる。
 これは冗談になんかできない。冗談にはしようとしていないことくらい、顔を見ていれば分かる。幼なじみって、なんか損だなあと思って内心で笑った。
 悪くない。こうなってしまうのも、怖くはないし、嫌だとも思わなかった。
「共犯な。文也?」
 文也はじっとおれの顔を見てから、まなじりを緩めて優しく笑った。「アハハ、そうこなきゃね」と。
 彼のその顔を見ていたら、あはは、と喉から勝手に笑みがこぼれた。胸に溢れた感情は、ほかの何と紛うことのない優越感と喜びだった。
「口はやめて」
「オーケー」
 目をつぶって、はい、と手を広げる。文也がおれの頬を支えて、かすかなリップ音とともにまぶたに唇の感触が触れる。
 そこかあ。
 ふふ、と笑うと、睫毛さえ揺らす位置で文也が「なによ」とはにかんだ。
「いや、うん、めっちゃいい音鳴ったな」
 くふふ、と喉の奥で噛み殺すように笑う。甘ったるくて、舌のうえに残る声だと思った。文也もそれに呼応するように笑う。頬が熱くて熱くてしかたがない。ちらりと目を開けて見た文也は、おれと同じように照れくさそうな顔で咳きこむように笑っていた。
 耳の先が赤くなっているだろうと思い、指先で冷やすように包み込む。目が合うのでさえ照れくさい。心臓がうるさい。なんなんだこれ。腹の底が熱い。頭までゆであがってしまいそうだ。
「もういっかい、いいですか。照生さん」
「はは、どうぞ。もうちょっと上手くやって」
「わがままだなあ」
 ふふ、と笑う。文也も同じように笑う。
 まぶたに二度目のキスを受けて、すぐに目を開けると、文也がきれいなかんばせを緩めて、愛おしいものを見るようにおれを見ていた。まぶたへのキス。いつか見た映画のあとに調べたことを思い出す。
 まぶたへのキスは憧憬。あなたのことを憧れています。とても素晴らしい人だという意味だ。
 頬を包んでいる文也の手をほどく。不思議そうな顔をする文也に、にやりと笑って、その指先に唇を落とした。