幼なじみ(自称バイ)からの執着が止まらない件

 立てつけの悪い扉がガラガラ開く。ぐい、と引っ張られて中に入ると、また後ろでガラガラと扉が閉まった。
 隣に立つ文也を横目で見る。
 無感情の顔で、じっとおれの顔を見ている。おれを見ているというかは顔を見ている。何をしているのだろう、とおれも見つめ返していると、数秒逡巡するように目を回してから、ぐしゃりと顔が歪んだ。
「なんで……」
 絞り出すような声に、一瞬思考が止まる。
 え。なに。
 泣いているのかと思えるような声で、一気に血の気が引いた。全身に回る血液が冷えたような心地がして、耳の裏がバクバク鳴っている。涙さえ見せていないけれども、顔は明らかに苦しそうだ。息が詰まったように眉を寄せて、「ねえ、なんで」「どうして」と弱々しく胸元に縋りつかれる。
 普段は、軽薄な態度を崩さない文也がこんなに取り乱すくらい、トラウマだっていうのか。おれが荒んだあのときが。
 胸倉をつかむようにおれを離すまいとする手が震えている。文也、と呼びかけて安心させようと手を握って、ぎょっとした。手が真っ白になって、夏とは思えないくらい冷たかったからだ。
 良く見れば肩も震えている。足だって。
「文也」
「なんでまた、いつもそうやって、さあ……」
 ダメだ。おれの声が聞こえていない。文也、ふみ、と呼びかけてみても完全にパニックに陥っていて、反応がない。なんで、なんで、と小さく震える声が言うだけで、あとは全身が震えている。おれがどこにも行かないように、パニックになってもおれの服はぎっちり握りしめたままだ。
 あ。
 これは、まずい。
 おれはこの症状を見たことがある。
 荒れていた中学二年の時、学校に行けなくなって鬱になって家出をして放浪している少女に出会ったときも、こんな感じだった。自分でも収集がつかないほどの不安とトラウマで動けなくなるのだと言って彼女は笑った。パニックが来ると、道端にうずくまってじっと身を硬くして、冷たくなって、頭を抱えて発狂していた。
 過度なストレス下での体温の変化は本能。
 肌にじわりと冷や汗をかいているのが見えた。
「文也! 文也、ねえ」
「なんでなの、照生、なんでおまえはいつもそうやって一人で、一人で、俺に何も言わずに……」
 いつだって俺は置いて行かれるんだ、と。
 一体何を言ってるんだ、と反射的に思って、あることに気が付いてざっと肝が冷えた。頭の中に、中学二年生、母から聞いた言葉が浮かび上がる――照生が文也くんと仲良しだったじゃない。それで彼が、ちょっと孤立しているらしくて。噂を流されていることもそうなんだけど、彼自身、照生のことをずっと待っているみたいで――。
 もしかして、文也、お前は。
 おれは、おれが喧嘩をすることや、「ずっとこうしていよう」という約束を破ってお前に会わなかったことが、文也にとっての裏切りで、それがトラウマなんだと思っていた。それが文也を傷付けたのだと思っていた。
 きっと、そうなんだと、ずっと。
 でも、もしかして、お前は。そうじゃなかったのか。
 ――腹の底から、ぶわりと、熱が上がってくる。
 冷たくて熱い、奇妙な感覚がして、頭が興奮にも似た高揚感でふわりと揺れた。
 自分が抱いている感情の理解もしないままに、文也を落ち着けなければという一心で声をかける。
「文也。文也」
「いつだってそうじゃんか!」
 長い前髪の間からじろりとココア色の目がおれをねめつける。より水分の多い瞳がぐらりぐらりと揺れる光をたたえて、不安と怒りで震えている。
 ひゅ、と喉が締まって、「文也」と呼ぼうとした声が消えた。
 美しいココア色の瞳孔が、強い強い圧をもっておれと目を合わせに来る。今取り乱している人間と思えない気迫だ。文也はパニックに目を回していたが、ふと、おれがいることを知って、ふるふると唇を震わせた。
 そして、喉から唸るように、おれの胸倉をつかんだまま、

「俺の前からまた消えるって言うなら、どこかに閉じ込めたって良いんだ!」

 と慟哭した。
 苦しげに歪んだ眉。冷や汗を流しながら、崩れずにおれを離さないで立っている。身体のぜんぶがパニックで冷たいくせに。今もめまいでもしているのか目が小刻みに揺れている。
 物騒な言葉を言うものだ。普通なら警察を呼ぶか、逃げ出すところだ。でも。
 文也の顔が、どうしてか、ずっと果てしない遠くに置いて行かれた子どものように見えた。
 おれは文也を置いていったことはない。自分で居場所を捨てて逃げたことはあっても、文也を捨てた気なんてなかった。けれども、文也にとっては違ったのだろう。
 ――「俺はいつだって、お前といたかったんだ」と、そう言われているみたいだ。
 そう思うと、まるで誰かに素手でやわく心臓をわしづかみにされたように、熱くて熱くて、どうにかなってしまいそうなほど強い興奮を覚えた。
 自意識過剰かもな、と心の内で笑って、震えながらもじっとおれを見て離さない文也の腕を取る。閉じ込められるのか。文也に。まあ、そうだな。そうか。まあ悪くはないかもしれない。文也ならちゃんと食事も用意してくれるだろうし、と思った。そういうことじゃないんだろうけれど。
 おれは文也になら何をされてもいい。たとえば殺されなくてはいけないとなっても、妹や母には悪いけれど、文也のためならだいぶん悩むけれど命を差し出せる気がする。
 文也はおれの一部。切っても決して離れない一部。
 それは譲歩ではなくて信頼だ。
 己の一部を、あるいは全部を差し出してしまえるほど深い情。
「文也」
 文也の肩が震え、美しい唇が言葉をためらうように開いては閉じてを繰り返した。おれの胸元を掴んだままの手にそっと触れた。冷たく湿っている。逆光から見ても、暗がりの中でも、顔はやっぱり不気味なくらいに綺麗なままだな、と思った。
 おれの目をじっと見つめるココア色の瞳孔がこらえきれない怯えに揺れている。
 だいじょうぶだ。今なら。
 今ならおれの声が届く。
「文也、大丈夫。消えないよ。置いていかないから」
 卑怯だなと思う。文也に対してもそうだし、自分に対しても、そう思う。
 ああ、すごくきれいだなと思うから。
 文也は純粋におれのことを信頼している。好きでいてくれる。信じてくれる。けれども、そのきれいな気持ちの中に、ずっとずっと消えないトラウマがある。おれが文也を置いていく、いつか、文也を捨てるという不信感がある。
 お前にそう言われたら、おれはどうやって拒否すればいいんだと思って、笑った。
 おれはお前を安心させるためならなんだってするのに。
 誰かにつかまれたままの心臓が、ゆっくりゆっくり、握りこまれる。心臓ごと潰されるように、どくん、どくん、と跳ねている。人形のような顔がだんだんと弛緩して、人間に戻ってくる。
「文也。ちゃんと説明するから。落ち着いて」と肩を抱いて、とんとんと背中を叩く。背中はワイシャツ越しにじわりと熱に滲んでいる。
「……喧嘩、したんじゃないの?」
「手きれいだろ。ほら」
 指を絡ませて、感覚とともに手を示す。文也はぼんやりとした目でおれの手がまったく汚れていないのを見て、恥ずかしそうにふにゃりと相好を崩した。視界に入っていた彼の耳の先が、じわじわと真っ赤になっていく。
 やわらかい茶髪がぼすんと肩に落ちた。首に触れてくすぐったい。
「……恥ずかしいこと言った……」
 と、こらえるような小さい声が聞こえてくる。フフ、と笑って、その肩をそっと抱きしめた。
 そのまま、今朝あったこと、見た夢の話をして、バレーの練習をしたこと、帰ってから登校する最中に絡まれたこと、一発だけ殴られて逃げてきたことを話した。
 文也は黙って聞いていた。が、話が終わるとぼそりと、一言、「それはてんちゃんが悪い」とぶっきらぼうな声で言った。完全に拗ねているか意地を張っている。おれは半笑いで、顔を見られないことをいいことににやつきながら、「なんでおれが悪いんだよ」と言った。視界の端にある耳がずっと真っ赤だ。
「てんちゃんが悪い。心配したんだよこっちは……」
「えー」
「えーじゃない」
「はいはい」
 と背中をぽんぽん叩く。しばらく、ううん、と喉の奥で唸っていた文也が、ぼそりと、「こどもあつかいすんな」と言った。「はいはい」「うざい」と掛け合い、落ち着いたようだからと身体を離そうとすると、ぐっと腕につかまれて引き戻された。え、とおれが言うが早いか、文也がおれを強く抱きしめるが早いか。
「ね、お願い」
「ふみ?」
「安心、させて――」
 完全に意味不明な行動に困惑こそすれ、まだ落ち着いていないのかもしれないととりあえず背中に腕を回してぎゅっと抱き締めてやった。男が空き教室で抱き合っているのはあまりにもスキャンダルじゃないか。これ。慌てて自分たちの姿がどこかから見えないか確認する。背後の扉はすりガラスだし、向こう側のドアからもこちらは見えない。死角だ。
 誰かが来なければいいか、と肩から力を抜く。
 タイミングを見計らっていたかのように、まるで迷子が母親に縋るように強い力でひしと掻き抱かれた。ぐ、お、と肺から漏れ出た呼気が変な声を出した。潰れたカエルというよりかはなんかの怪獣みたいな。
「おい、文也ー? どうした?」
「……ちょっと、待って……」
「……はいはい」
 子ども扱いすんな、とは言われずに、犬がじゃれつくように首元に額をぐりぐり擦りつけられる。「セット崩れるぞ」と忠告はしてみたが聞いていない。うー、うー、と唸りながら、ぺたぺたおれの背中やら肩やらを触っている。おれはちゃんと存在してるっての。
 子どもの癇癪のような、試し行動のようなそれに一種の興味深さを感じながらされるがままにしていると、ふいに文也の高い鼻の先がぬるりと耳の後ろに触れて、「うお」と声が出た。
 ぞわぞわぞわ、と、かかとの方から膝裏を通って気味の悪さが這いずってくる。つい、ペシャ! と良い音を立てて顔面を鷲掴みにしてしまった。バレーで鍛えられた反射神経がここになって活きて来るとは。
「色気ないな」
 ともごもごしゃべるので手の平がくすぐったい。
「誰に求めてんだコラ」
「あってもいいでしょ」
「そういう雰囲気になってから言え」
 言い返すと、文也は指の間から美しいココア色の目を瞬かせて、悪だくみをしているようにも見える意地悪な顔で笑った。美丈夫はどんな表情をしても顔が崩れない。むかつく。
「帰る」
「あー、待って待って、置いていかんで」
 腕を掴まれてしぶしぶ足を止めると、文也が「先生いないしここで絵描いてもよさげ?」と普段通りの軽薄な口調で言った。
「まあ監督いないし行けるよね」
「文也って案外不良だよな」
「多分一番言われたくない人に不良って言われてる俺」
「……」
「アッ! 痛い痛いいたたたたた!!!」
 情けないことにすぐ謝罪の声が聞こえてきた。手を離してやると、おれが思いきり抓った二の腕をさすりながら「ねえマジで本当に痛いよもおぉ……」と半泣きになっている。ここまで来ると端正な顔が情けなくて面白い。
 フン、と笑ってガラガラと立てつけの悪いドアを開く。
 静まり返った廊下の向こうにまで反響する音に、なんだか特別なことをしているみたいで高揚感を感じる。荒れている学校に凸ることはあっても、たいがいが落書きだらけでぎゃあぎゃあ騒がしい環境だったから、静かな校舎はやはり特別だ。
 二階の渡り廊下を渡る。皮膚に張りついてくるような、肺がどろりと溶けてしまいそうな熱風に顔をゆがめた。
「暑ィ」
「もう七月だしね」
 と、室内運動部で、外で練習している野球部とサッカー部はやっぱり次元が違う、暑さへの耐性があるのかうんぬんと話していると、廊下の途中でおもむろに文也が立ち止まった。ちらりと横目で見た表情が憂いでいる。
 おれも足を止めて、手すりとも言えない高さの柵にもたれかかった。
 文也は校庭側を向いて身を乗り出している。危ないなぁと思いながら何も言わずにいると、後頭部がくるりと振り返った。
「そういえばインハイいつ?」
「あー、そういえばもうすぐだね。七月末」
「お、頑張れ」
「貰ったやつバッグにつけてる」
「え嬉しい」
 そう言ってふわりと朗らかに笑う顔はまったくもって普段通りだ。
 おれから見れば、自分の感情をまったく灯さない、ただ笑って相手の感情を反射するような顔。
 繕うことばかり上手くなって、と親友とも親とも言い難いことを思ったが、おれが良くも悪くも変わったように文也も上手く生きていくための策を身に着けたのだろう。そうさせたのは半分はおれのせいなのかもしれない。あのとき、そういう意図ではなくても、結果的に文也を置いていったのだから。
 自分のために一人を選んだ孤独を、ただ一人で好奇の視線と戦う苦渋を、おれはこの手で選んだと同時に文也に強制した。
 まあ、これも自意識過剰か、と顧みながらさらりさらりと揺れている茶髪を目で追う。
「俺さあ、結構、校庭の砂がきらきらしてんの好きなんだよね」
 ほら、みてみて、と手を招かれて、その隣に立った。この位置からだと砂が反射して無数に煌いているのがよく見える。海の漣も同じように細やかに光ることを思い出して、海に行きたいなと思った。
「昔から綺麗なの好きだよな」
「そうだね。造形を見ちゃうのもそうだし、結構眩い色彩とか光とか好きかも。ガラス細工とか」
「お。いいこと聞いた。誕プレそっち系にするわ」
「それ本人に言うの?」
 あは、と活発に笑う。日の光が差しこんできて、ハリのある肌をじりりと照らす。やわらかく弧を描くまなじりを見ながら、やっぱりこいつは顔が綺麗だなと思った。骨格から描いているとよく分かる。本当に、自分の手を尽くして緻密に描いてもどこにも歪みがない。
 まなざしで舐めるように観察していると、それに気づいた素振りも見せないまま、文也がおもむろに、
「照生ってほんと、顔綺麗だよね」
 とのたまった。
「はあ? 舐めたこと言ってんなよ」
「どこをどう聞いたら俺が照生を舐めてるって発想になるの」
 また、あは、と笑う。真剣な話をするとき、こいつは毎度おれのことを名前で呼ぶ。てんちゃん、なんて間抜けた名前ではなくて、おれの心の表面にそっと触れるように優しい声で。そういうところだよと思う。軽薄な態度を貫いて、必要以上に他人となれ合わず、期待をすることも裏切られることもないように振舞う厭世的な人とは思えない繊細さ。
「昔から見てるけどさ、ほんと飽きないんだよ」
 と恍惚とした表情で、感情を押し殺したようなやけに事務的に聞こえる声で言う。
「ハー、馬鹿。それはおれの台詞だし」
「え、……てんちゃんっておれの顔綺麗だと思ってんの?」
「は? 当たり前だろ。美人は三日でも飽きないし十年たっても全然ずっと綺麗なままだって実感してるわ」
「え、え、うそ、え」
「ヤバ、死ぬほどテンパってる面白ェ」
 こらえきれずに噴き出してしまうと、つられるように情けない顔でへにゃりと笑う。
 ふいに、文也が指を伸ばしてきた。すでに体温が戻りきったらしい、あたたかい指の腹が左頬を撫でる。傷の跡だろうか。
「よく分かったよな、殴られたって」
 思ったことをそのまま口に出すと、文也が不貞腐れたように、
「まあ、殴られたときの顔飽きるくらい見てきたからね」
「あれ、おれの顔飽きないんじゃなかった?」
「まだ飽きてないからセーフでえす。それに、俺照生が殴られた顔好きじゃないから」
 すりすりと頬を撫でられる。痛くはないのかと聞かれて、まだアドレナリンが出ているから熱しか感じない、と言うと、さすがは鈍感と言われた。違う意味もありそうな言い方はやめろ。
 心配そうにおれの顔を見ている文也の頭を撫でる。ふわりふわりと、案外コシのある髪の毛を指先でもてあそんだ。
 穏やかな顔で、猫が擦り寄るように目を細める文也を見て、ああ、そうだよ、そういうのでいいんだよと思った。それで、こういうのもちゃんと口に出すべきか、と思って「そういうのでいいよ」と言った。文也はぱち、ぱち、と目をまあるくして瞬いていた。
 が、突然、くしゃりと顔をゆがめてうずくまってしまった。なんだ。お腹でも痛くなったか、熱中症か、と思って目の前にしゃがみこむと、唸るような声で文也が言った。「あー、やばい、めっちゃ好き」と、耳の先を真っ赤にして。
「ありがとぉ」
「クソ、ずるいなコイツ。俺の告白なんてレアなのに」
「ありがたく受け取るねぇ」
「ああ、もう……」
 文也はうらめしそうな口調で喃語のようなことを吐いて、熱風に巻き上げられた髪を見上げて「戻ろうか」と言った。