夢を見る。
あざやかな夢だ。古びた映画のようにセピアに霞んでいるくせに、いつまでもいつまでも、心の奥に残って離れないような、厄介な夢。おれは昔からこの夢を時々見る。眠っている最中も自分の目の前に広がっているこれが、夢だと分かっている。けれども、同時に、これが現実だと知っている。
昔の記憶だ。忘れるにはまだ早く、覚えているにはまだひどく鮮烈で、痛ましい記憶。
『佐江!』
母を呼びつける激しい声。続けざまに、妹の引き攣ったような泣き声が聞こえる。うわあああん、おにいいちゃああん!
ハッと起き上がり、もつれる脚を引き摺ってすぐに階段を駆け下った。嫌な予感がして、心臓が早鐘を打つ。掌がぬるついて階段の手すりがずるりと滑った。冷や汗が止まらない。
勉強途中に寝落ちてしまったのだ。眠りから覚めて、一番最初に聞いたのが父の怒号。なにか自分の手には負えないなにかが起こっているような予感で、目の前がぐにゃりと歪んだ。普通じゃない。刃物のあるキッチンに人影はなかった。扉を開いた先のリビングにもいない。妹の声が耳に反響する。ぐわんぐわんと眩暈でもするかのように響き、歪み、責めたてられているような気持ちになった。
ひどく気分が悪い。
はっはっと息が上がるまま、玄関に続く廊下へのドアを開けた。あっと声を出す間もなく、父が振り上げた拳が母の横っ面を打つのが見えた。母がよろめき、壁にぶつかって鈍い音を立てる。妹が弾かれたように泣く。お兄ちゃん、と。母は明らかにその身を呈して妹を守っているようだった。
吐き気がひどく、胸のむかつきが喉にまでせりあがってきて咳きこんだ。泣きじゃくる妹を抱き上げてリビングに連れて行き、内鍵をかける。母が抗議する声と父の唸るような低い声が聞こえ、怒りと恐怖で膝がわらった。妹に、自分の部屋に行って鍵をかけて待っていろと伝え、開錠して廊下に出た。
「父さん」
おれの声に振り向いた母の顔は赤黒くはれ上がり、唇が切れて血まみれだった。父の右手も同じ色になっている。
父が、母を、傷つけたのだ。誰よりも優しい、おれの母を。
言いたい言葉が溢れ出して、頭がおかしくなると思った。その時。おれは衝動的に父の顔を殴りつけていた。派手な音を立てて父が床に座り込む。怒りと絶望と哀しみ、果てしない感情の波にさらわれてどこまでも行けそうな気がしていた。
父が口を開くのも許せず、間髪入れずに殴った。自分の力が相手にどのように働くのかさえ分からなかった。ただ殴った。許せなかった。どうして昔のような普通の家庭でいられないのだという哀しみと、お前みたいな父なんかいてくれない方が幾億倍も幸せだという怒りで、手当たり次第に殴った。
涙が止まらなかった。
父があまり家に帰ってこなくなって、ついに日を跨いだ時に、これはまったくおかしいと思って母にどうしてかと尋ねたことがある。小学校四年生の時だ。母はいつものように優しく微笑んで、「きっと帰ってくると思うよ。お仕事が忙しいんじゃないかな」と言ってくれるはずだと、そう思って。
だがしかし、母は何も言わなかった。どうしたのだろうと手を握ったら、俯いて髪の毛に隠された頬から涙が伝って。
「どうしてだろうねぇ」
と、信じられないくらい悲しい声で言った。
現実はいつだって残酷だ。父が母以外の恋人がいることに気付いたのもそれからすぐのことだったし、それ以前にも疑っていた節があった。父が家に帰ってくると母が傷付いた顔を隠して笑って「おかえり」と言う。どうしてそこまで、と思う自分を押さえつけて、母に倣って父に「おかえり」と言った。母が良いというのなら、おれはそれに従うしかないと思っていた。
でも、なんなんだ、これ。
どうして傷付けられた側のおれたちがいつまでも苦しさを我慢して、望んでもいないハリボテの平穏を、狂ったように追い求めなくてはいけない?
先におれたちを裏切ったのはお前だろう。
先に家族を捨てたのはお前だろう。
「なんで、なんで、なんなんだよ、お前は!」
涙に濡れて気持ち悪い。舌の上に広がった塩辛さを噛みしめるように叫んだ。
ランドセルも、教科書も、習い事のバレーボールも、もちろん父が稼いだ金がなくては与えられなかったものだろう。この家も。食事も。この身を構成するもののほとんどが。おれを生かすもののすべてが。
そう思い至って、吐き気がとまらなくなった。
おれはこんなに最低な人間の手によって生かされている。
「照生!」
「父さん!!」
母の声が聞こえる。おれを呼んでいる。
左からのストレート。避けて、みぞおちに膝蹴りを入れた。父がぐらりとよろめき、壁に手をつく。足を払って肩を押し、床に倒した。上に乗り上げて胸倉をつかむ。
上から見下ろした父の顔は、もう父とすら思えなくて、それがただただ可笑しかった。
その時、おれは人を初めて殴った。自分の意思で。傷付けてしまおうと思って。怒りのまま。
「父さん」
戻ってきてくれ、と言おうとした。でも口はうまく動かなかった。言ってはいけない言葉だと思ったからだ。
ここに戻ってきても、もうコイツに居場所はない。
肩を抱きしめる震えた母の手をとった。母は「もうやめて。ありがとうね、照生」と言ってぼろぼろの顔でおれに微笑んだ。泣きそうな顔で、おれを守ろうとして。
違うんだ母さん。母さんにそんな顔をさせたかったわけじゃない。おれが、ただ、許せなくてやったんだ。
そう口走ると、母はひどく涙を落として、優しくおれのことを抱きしめた。
父は母と同じくらい顔がぼこぼこに腫れあがっており、痛みで起き上がれさえしない様子だった。喉にまでせりあがってきた溜飲はいつまでたっても下がることなく、喉仏の下に居座り続けるような気がしていた。
安堵して力を抜くと、右手が痛んだ。特に中指と薬指がひどく痛かった。セッターとしての手。指十本でスパイカーのためにボールをセットアップする手。試しにストレッチをしてみると指が上がり切らなかった。その時に、おれは、セッターとしてボールを上げることはもうできないだろうと直感した。
悲しかったが、もう構わないとさえ思っていた。
人を殴った。父に壊された母の幸せも、父が妹に植え付けたトラウマも、おれが奪われたバレーの夢も、すべてに対する苛立ちと絶望が絶え間なくおれの胸で浮かんでは消えることなく降り積もり続けた。
父の望む息子でありたかった。母が自慢できる息子でありたかった。自分が自分で愛することのできる自分でありたかった。
でも、もう無理なのだろうと思った。
幸せが脅かされ、ハリボテの家庭が崩れ落ちた。
演技がかった本心で埋め合わせていた心の距離だって、もうすでに遠く離れて見えなくなっている。
「母さん」
涙を落とし終えて目を赤く腫らした母の肩を抱いて、不格好に笑いかけた。きっと下手くそな笑顔だろうと分かっていたがかまわなかった。下手くそだろうが餞別は餞別だ。
あなたが育ててきた心優しく繊細な、愛する息子との餞別。
「ごめんなさい」
それは、自分への餞別でもあったと、今なら分かる。夢を見ていると分かる。
すでにこの時、おれの中には果てしない苛立ちしかなかったのだ。
父から教えてもらったバレーボールも、父が金を出している学校も自分の中で無価値に成り下がり、父が関与していない場所を探して毎日毎日非行に走った。暴力の世界は手っ取り早くその苛立ちを鎮めるための良い場所だった。ろくでもない人間しかいない。女性を道具か、あるいは自分のブランドとしか思っていないクソみたいな男がごまんといて、脳裏に浮かび上がる父を相殺するように手当たり次第に殴った。
恋愛にうつつを抜かす人は男でも女でも嫌いだった。誰かの不幸を背負っていることも知らないで。自分が傷付けられてしまえば絶望はすぐなのに。
自分の中に渦巻くそれが失望であり、憤怒であると気付いたのは、最後に息子に会わせてくれと懇願した父と遊園地に行った帰り、海に指輪を投げ捨てる父を見たときだった。中学二年生の夏。非行に走ってから半年が経つくらいの残夏。
実に愛なんてろくでもない。しょうもないことこの上ない。
他の女の人との間に子どもを設けて慰謝料と養育費を母に収め続けながら、また新しい子どもを育てるための金が必要な父は身を粉にして働くほかない。それが罪滅ぼしだと思っているだろうが、くだらないことだ。
何よりも先に、アイツはおれたちに謝らなければいけなかったはずだ。
自分はいつかあの男のようになるのだろうか。あるいは、いつか母のようになったりするのだろうか。裏切ったり、誰かに裏切られたりするのだろうか。
人は信じられないのだと思った。
早計だとは思いながらも、幼くやわらかい心につけられた傷はいくら手で覆っても癒えず、古傷の跡は何度こすっても消えない。
殴っては殴られるような生活を続けていたある日、一週間ぶりに帰った家で、中学校から連絡があったことを聞いた。
非行に走ってから八カ月が経つ頃だった。おれはすでに中学二年生になって、三年生も近くなっていた。二年生にあがってからの五月から非行に走ったため、もう冬だった。学校からもらうプリントを喧嘩の合間に読んでは参考書を解いて勉強だけは問題がないようにしていたから、あまり時間の経過に頓着していなかった。
母ははじめおれが自暴自棄になっていると思い何度も普通に戻ってくれと話をされたのだが、一年だけだからと説得してその時には中学三年生には普通に戻ることを条件におれの非行を見逃してくれていた。すでに母も精神がおかしくなっていたのだろうと思う。普通の親ならば何が何でも止めるとは思うが。
中学校が何の用事だろうと思いながらも、妹がはしゃいで遊ぼうとねだってくるのをあしらいながら聞いていると、文也の名前が出てきた。
「文也がなんかしたの」
「うーん、なんかねぇ。……私もあんまり詳しくは聞いてないんだけど、……照生ってモテたの?」と突拍子もないことを尋ねる母に「どういう質問それ」と聞き返す。
「照生のことを好きだった女の子たちがね、照生の噂を吹聴してたらしいのよ。根も葉もないやつ」
「女遊びとか?」
「まあ、そうね。いじめをしていたとかね」
本当に愛とか恋とか、ろくでもないんだな。愛は簡単に憎しみに転じる。父だってそうだったのだ。他の人でもあり得るだろう。
それと文也とが何が関係があるのだろう、と思ってそう尋ねると、母は、
「照生が文也くんと仲良しだったじゃない。それで彼が、ちょっと孤立しているらしくて。噂を流されていることもそうなんだけど、彼自身、照生のことをずっと待っているみたいで」
要領を得ない話をかいつまんでまとめると、
「……つまり俺のことを好きだった女子たちが、関係のない文也のことまで噂して悪口言って孤立させてるってこと?」
「まあ、そうだね」
「ハ、どこまでもクソ野郎しかいないんか」
母は困ったように笑って、「愛も恋ももうこりごりだね」と言った。母がそう言うのを聞いて、おれは初めてそのとき、「母にだけはそう思ってほしくなかったな」と自分勝手なことを思った。
